第一六話 Expansion
──カナダ連邦 オタワ
二〇三一年一一月二三日 午後一時一二分(EST)
最初の異常を、国会議事堂前の監視カメラが捉えた。
歩道を渡っていた女性の姿が、フレームの中央でふっと途切れた。
血も、影も、音も──何も残さなかった。
警備員が現場に駆けつけた時、足跡は途中で消えており、アスファルトの一部がわずかに沈下していた。
午後一時三七分。
オタワ中心街の通信システムが断続的に停止した。
監視サーバーは“異常な帯域のノイズ干渉”を検知。
同時に地下駐車場や地下鉄のトンネルで、
“低い振動音”が多数報告された。
「地震か?」
「いいや、振動源が水平移動してる……」
議事堂前の噴水が、突然大きく吹き上がった。
通行人たちが悲鳴を上げる。
噴き出した水が地面を叩きつけたあと、静寂が戻った──はずだった。
その数秒後、噴水の底面が崩落し、泡立つような白い水面の中で黒い何かが蠢いた。
同時に通りの向かい側。
観光客のスマートフォンが、“それ”を一瞬だけ捉えた。
雪を割るように這う黒い影。
画面越しに見えるその影の中で、反射する青白い舌がわずかに閃いた。
SNSは瞬時に拡散。
「オタワで何かが動いている」
「人が消えている」
ハッシュタグは数時間で全世界のトレンドを占拠した。
午後二時五分。
政府は緊急記者会見を開き、報道官が静かに読み上げる。
「現在、オタワ中心部において局地的な地盤活動を確認しています。
安全確保のため、関係区域への立ち入りを一時制限しました。
繰り返します、これは自然現象によるものであり──」
会見が終わる前に、電波が乱れた。
テレビ画面には数秒間、ノイズに紛れて街の映像が映る。
通りの向こう、車道に残る水たまりの上を、青白い舌が、光を弾くようにすべっていった。
──
──翌朝。
オタワ中心部の人口は、前日比一二・三%減少していた。
避難記録なし、行方不明届なし。
街には、誰もいなかった。
残されたのは、噴水広場に散乱したスマートフォンと、電源の落ちた無数のモニター。
それらの記録を解析したカナダ連邦防衛庁は、ただ一つの報告書を提出する。
“捕食ではない。
これは、“移動”である。”
────
──カナダ連邦オンタリオ州 サドベリー旧鉱区
二〇三一年一一月二五日
午前九時一八分、合同調査隊が地下三五〇メートル地点に到達した。
熱源反応は地下水脈と交差する層に集中しており、半径二〇メートル前後の範囲で不規則な脈動を示した。
振幅周期はおよそ二・四秒。
周期変化は一定の呼吸活動に類似している。
「動いているな」
「はい。ただし、生体信号と断定する根拠はまだありません」
熱源の周囲では水温上昇と酸素濃度低下が同時に確認された。
地質ガスの発生は観測されず、圧力変動も微小であった。
物理的要因による温度上昇ではなく、内部エネルギーの放出によるものと考えられる。
採取された地下水サンプルからは、既知の生物種に一致しない蛋白結合体が検出された。
顕微鏡映像において、それらは円形構造を形成し、ゆっくりと回転していた。
細胞膜のような境界は確認できず、分子間の電子共有によって形状を維持している。
「自己修復か?」
「あるいは、代謝に近い何かでしょう」
──
午後一時二一分。
観測機器が一斉に通信を途絶する。
直後、現場温度が一八度上昇したことを検知した。
地質センサーは安定値を示し、ガス噴出・溶岩活動は検出されなかった。
「熱源、上昇中。毎秒一・七メートルで地表方向へ移動」
「地下流体の移動ではないな……」
音声記録の最後には、水蒸気の噴出音と金属の摩擦音。
それ以降の通信は確認されていない。
──
──カナダ防衛省・地下作戦司令室
同日 二〇時〇〇分。
デボラ・マッケンジー博士は、静かに報告書を閉じた。
映し出された映像には、観測車両が置かれていた坑道の一部が崩落し、岩盤に沿って淡く発光する繊維状の影が写っていた。
「生物学的証拠は揃っていますね」
「ええ。自己代謝と環境同化が同時に確認されています」
エリック・ダグラス博士が補足する。
「どの既知分類群にも属さないが、構造的には有機的です。
少なくとも、機械的活動ではありません」
デボラは一度だけ頷いた。
「つまり、“生きている”ということね」
二人の背後で司令官が短く記す。
【観測対象】:未確認生物(暫定識別名:Rosalie sp.)
【活動目的】:不明
【攻撃意志】:確認されず
【捕食行動】:あり
【現状】:活動継続中
報告書は、そのまま「サドベリー熱源観測記録第一号」として保管された。
軍の分類は「脅威」ではなく、あくまで「生態学的未知事象」。
それ以上の言葉は、誰の口からも出なかった。
────
──アメリカ合衆国バージニア州フェアファックス郡
二〇三一年一一月三日 午後九時四二分。
住宅街の裏手を流れる川の水位が、数日前から不自然に下がっていた。
誰も理由を気に留めなかった。
ただ、川沿いの泥の上に続く奇妙な筋跡を見ても、それを“生き物の通った跡”だとは認識できなかっただけだ。
夜半、郡警察の通報記録に一件の報告が入る。
「牛がいなくなった。柵も壊れてない」
現場には争った形跡も血痕もなく、ただ波のような溝が乾いた地面に残っていた。
翌朝、南に百キロ離れたノースカロライナ州の農場でも同様の報告。
保安官補の記録にはこうあった。
「地面の跡は蛇に似ていたが、節がある。
何かの脚が泥を掻いたような……だが四本じゃない」
──
連邦環境観測センターでは、
一〇月末から地表放射線の微細な変動が観測されていた。
その発生源は、メリーランド州南部。
そして、毎晩わずかに南へと“移動”している。
「風では説明がつきません」
若い技師の声に、上席の科学官は言葉を失った。
数値は日ごとに一定方向へ──まるで、何かが意図的に動いているように見えた。
──
──アメリカ合衆国ジョージア州サバンナ
二〇三一年一一月八日。
湾岸の湿地で、犬が姿を消した。
夜の監視カメラが捕えた映像は、たった二秒だけだった。
黒い影が低く地を這い、柵の影を裂くように通り抜けていく。
光の反射はなく、体表は滑らか。
尾に似たものが、泥を引き摺っていった。
翌朝、鎖も首輪も残されていた。
草の上に黒ずんだ粘液が点々とついている。
それを舐め取るように蟻が群がっていたが、数分後にはその蟻さえ消えていた。
──
──アメリカ合衆国フロリダ州エバーグレーズ国立公園
二〇三一年一一月一五日。
夜間監視の赤外線映像。
湿地帯の下に脈動する複数の熱源が映っている。
それは地面の下、約一メートルの深さでゆっくりと移動していた。
同心円状に並ぶ卵形の熱点──四つ。
それぞれが規則的に膨張と収縮を繰り返している。
映像が切れる直前、レンズの隅に光を吸うような黒い瞳孔が現れた。
機体との通信は、その三秒後に途絶した。
──
解析担当の技師は、報告書の末尾に短く記している。
“対象、分類不能。
地表移動型。行動方向は南。
環境選択傾向:高湿度・有機体密集地域。
人間を回避する傾向なし。
──現在も観測継続中。”
────
──アメリカ合衆国テキサス州ルイビル郊外・農場地帯
二〇三一年一一月一八日 午後七時二二分。
昼間はいつもよりも静かだった。
夜になると、牧草地のあたりで蛙の声が止む。
そして風も、虫も、すべてが沈黙する。
トニー・サリナスは、その“静けさ”が何より怖かった。
「なあ、マリア。……牛、今夜は放しとくなよ」
「どうして?」そう問い掛ける妻にそう声をかけて外へ出る。
月明かりは雲に遮られ、暗い湿気だけが肌に張りついた。
牛舎の柵の向こうで、泥が揺れている。
風ではない。
水のない地面が、波のように膨らんでは沈む。
耳を澄ませば、地下で何かが擦れる音がした。
トニーはライトを向けた。
泥が泡立ち、小さな気泡が次々と弾ける。
その中心で、泥の表面が“呼吸するように”上下していた。
「……地震か?」
そう呟いた瞬間、地面が裂けた。
ぬめる黒い表皮が、ほんの一瞬、光を吸い込みながら現れて──そのまま静かに、再び地中へ潜っていった。
音もなく、血の匂いもない。
ただ湿った泥と、異様な静けさ。
その夜、彼の農場では牛が六頭、まるで元から存在していなかったかのように、完全に消えた。
柵も、鍵も、何も壊れていなかった。
──
翌朝。
郡警察の巡査が現場に来たとき、
トニーは言葉をうまく出せなかった。彼が前日に見たものを表現できなかったのだ。
「地面が……動いたんだ」
「モグラか?」
「そんなもんじゃない」
「音は?」
「……無い。ただ、空気が震えた。まるで……何かが這ってたみたいに」
警官は笑って首を振った。幻覚か夢でも見たのだろうという表情だった。
だが帰り際、彼のパトカーの下に黒い泥の塊がこびりついていた。
帰投後、洗車の際にその泥が高温で“泡立った”と報告書にはある。
──
その夜、トニーの家の犬が鳴かなかった。
鳴く必要がなかったのだ。
音のない闇の中、犬小屋の屋根に黒い影が静かに這い上がっていく。
尾が地を叩くたび、乾いた土が震える。
遠く、国境を越える貨物列車の音がかすかに聞こえた。
トニーは寝床で目を閉じながら、「もうすぐ、ここを離れよう」と呟いた。
彼の家族がトニーと共に消息を絶ったのは、その二日後のことだった。
────
──メキシコ湾岸、タマウリパス州サン・フェルナンド
二〇三一年一二月三日。
夜明け前、湾の海面は異様な静けさに包まれていた。
漁師の老人ミゲルは、いつものように古い漁船を出す準備をしていた。
潮の匂いが違う。
重く、鉄のような味が混じっている。
彼は舷側を叩き、海を覗き込んだ。
──泡。
最初は小さな泡立ちだった。
すぐに、その泡は波紋を描き、湾の中央へと広がっていく。
魚群探知機のモニターがノイズで白く染まり、ピッという音を最後に沈黙した。
ミゲルはその夜、帰らなかった。
見つかったのは、翌日の朝。
彼の船が浜辺に打ち上げられており、
エンジンは無傷のまま、船底に黒い泥が張りついていた。
港町の住民たちは言う。
「La Serpiente de Tierra──大地の蛇が戻ってきた」
そして彼らは、海に近づかなくなった。
──
──カナダ連邦 モントリオール
同日
連邦防災研究局・観測データセンター。
ルイ・マクダネル博士は徹夜でモニターを覗いていた。
衛星画像には、熱源の軌跡がはっきりと映っている。
点ではない。
湾から湾へ、地形をなぞるように“線”を描いていた。
平均時速、一三キロ。
自然現象ではありえない安定した速度。
「……歩いている」
博士が呟くと、背後で若い研究員が眉をひそめた。
「何が、です?」
「分からん。ただ、生物的すぎる」
ルイは端末を拡大する。
赤外線カメラが捉えた波打つ熱量は、まるで心拍のようにリズムを刻んでいた。
地表温度は平均で三七度──人間の体温と同じ。
報告書の上にペンが走る。
“対象は移動性個体、もしくは群体。
進行方向:南西。環境条件との相関率:九一%。
分類不能。”
──
──チリ・バルパライソ州 山岳地帯
同日夜。
標高二〇〇〇メートルのキャンプ地。
若い観光客たちが焚き火を囲んで笑っていた。
「大地の蛇の動画、見たか? あれ、フェイクだろ」
「アメリカのホラーか何かさ」
誰かがスマホを掲げて再生ボタンを押す。
画面の中では、海が沸き立つように揺れていた。
その時、地面が微かに沈んだ。
焚き火が一瞬、酸素を失ったように揺らぎ、パチ、という乾いた音とともに炎が吸い込まれる。
空気が“落ちる”感覚。
耳の奥で、湿った呼吸のような低音が鳴った。
誰かが逃げ出し、誰かが振り返り、誰かが録画を続けた。
翌朝、映像はSNSに投稿され、タイトルにはただ一言──“大地が動いている。誰か、説明してくれ。”
──
──アメリカ合衆国 ニューヨーク・国際生物災害対策本部
二〇三一年一二月五日
長机の上に広げられた世界地図。
カナダ、アメリカ、メキシコ、中米、南米──すべてが赤い線で繋がれている。
線は断続的だが、方向は一貫して“南”を指していた。
「対象は、群体を形成している可能性が高い」
「単一個体の移動とは考えにくい」
「生息環境の適応条件があまりにも正確すぎる。湿度、温度、そして──餌の密度」
会議室の空気が重くなる。
誰かが口を開いた。
「……つまり、我々そのものが、進化のための燃料になっているということだ」
報告官は何も答えなかった。
ただ、モニターに映る南米大陸の映像を見つめる。
雲の切れ間から、アンデス山脈を越えていく黒い線。
それは煙でも風でもなかった。
地球の表皮を這う、静かな影。
報告官は何も答えなかった。
ただ、モニターに映る南米大陸の映像を見つめる。
雲の切れ間から、アンデス山脈を越えていく黒い線。
それは煙でも風でもなかった。
地表の上を、確かに“何か”が進んでいた。
観測ログの更新音だけが、静かに響いていた。
────
──拡散域観測記録(FEDN南部局)
記録①:ブラジル・マナウス郊外 熱帯伐採区域
午前七時一八分。
南緯三度の伐採ラインにいた作業班のトラックが停車したまま動かなくなった。
無線交信記録には、現場責任者カルロス・フェレイラの声だけが残されている。
「──聞こえるか? 地面が……沈む。湿地じゃない、これは──」
「GPSが狂ってる。南に向かってるはずが、信号が回って……」
「音がする。……呼吸してるみたいだ。下が……」
その後、金属が軋むような音が幾度も響き、通信は途切れた。
救援班が現場に到着したのは一時間後。
伐採車は斜面に沈み込み、運転席には誰も乗っていなかった。
靴の跡は二歩分のみが残っている。
その先の地面は滑らかに崩れて、まるで柔らかい泥の上を何かが這い出たような跡を残していた。
周囲の温度はわずかに上昇しており、地中のガンマ線量が平常値の二六〇%に達していた。
だが、血も肉片も無い。
“存在の痕跡”だけが、そこにあった。
──
記録②:チリ・アタカマ砂漠 太陽観測ステーション
午後三時三六分。
観測員サミュエル・ドナートが、異常温度変化を記録した。
アタカマ砂漠は世界で最も乾燥した土地である。
日中の気温は五〇度近くまで上がるが、夜間には氷点下まで下がる。
そのサイクルが、突然乱れた。
「地表の熱が……落ちてない。地面が冷えてないんだ」
「……いや、違う。赤外線センサーが下向きの熱を拾ってる。地面の下が温かい」
「風の音が……まるで波みたいだ。……ここ、海じゃないのに……」
彼の最後の言葉のあと、録音は静寂へと変わった。
翌朝、捜索班が到着した時、建物の扉は開いたまま、室内は完全な整頓状態を保っている。
データ端末は稼働中で、赤外センサーのグラフだけが途切れず上昇を続けていた。
屋外カメラには、砂丘の上を波紋のように動く“何か”が映り、わずか二秒で砂の中に消えていった。
──
記録③:メキシコ・ユカタン半島沿岸 サン・フェルナンド港
午後一〇時一五分。
海面が青白く光る現象が目撃され、若者たちがSNSでライブ配信を開始した。
映像は手ぶれが激しく、声は興奮と笑いに満ちている。
「やば、海が光ってるよ!」
「見ろよ、呼吸してるみたい!」
「まさか、ただの魚群だろ? おい近づきすぎんなよ──」
そこで映像は途切れた。
発光現象は一五分後に消失が確認された。
その翌朝、港町の人口一二八名全員が所在不明となった。
家屋には荒らされた形跡は無く、鍵も施錠されたまま。子供ですら入れない程度の、僅かに開いた窓だけがある状態だった。
港に係留されていた漁船には網だけが残され、魚も、人も、いなかった。
海水サンプルからは異常な放射線同位体──ロザリウム素類似物質が検出された。
だが、その正体は依然不明のままであった。
──
記録④:カナダ・オタワ 連邦緊急対策会議室
午後一一時五四分。
政府・軍・科学局による合同緊急ブリーフィングが開始された。
スクリーンには南米全域の衛星写真。赤外反応の点滅が、まるで熱を帯びた呼吸のように増えていた。
「確認報告が三件。どれも同時刻帯、同緯度圏内です」
「つまり個体は──」
「一つではありません。既に複数の活動群が存在します」
「移動経路の推定は?」
「北米中部から南下。おそらく大陸縦断後、分岐して拡散中。
ブラジル、チリ、メキシコ……推定行動範囲は一一〇〇〇キロメートルを超えています」
「……これは侵略か?」
「いいえ。侵略ではない。
──生態圏の、拡張です」
誰も反論しなかった。
室内の空気が、まるで海底に沈むように重くなる。
スクリーンに映る赤い点滅は、一定の周期で拡散を続けていた。
それは異常値ではなく、新しい環境活動データとして記録された。
だが誰も、その“活動”を止める方法を提示できなかった。
──
観測後記
報告は、冷静である。
分析も、整然としている。
ただし──記録者たちの多くは、次の更新日までに連絡が途絶えた。
ロザリーはどこにでもいた。
それは、脅威でも奇跡でもなく、
ただ“生命”としての自然な広がりに過ぎなかった。




