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Rosalie: A Human History  作者: 田中


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第一五話 The First Infiltration Zone

 ──アメリカ合衆国 メリーランド州・ロックビル市郊外


 二〇三一年一〇月六日 午後一〇時四七分 


 夜の街に、焦げた風が吹いた。

 研究所跡地から二〇キロメートル離れた住宅地。

 その侵食に、誰も気づかなかった──いや、気づけなかった。


 道路脇の排水溝の格子が、わずかに揺れる。

 黒い粘液に覆われた爪が、外の空気を探るように現れる。

 ゆっくりと、アスファルトの上に這い出す影。


 ──ロザリー03-β。


 火傷をしたように僅かに爛れた体表は泥と煤で覆われ、街灯の光を吸い込んで見えない。

 彼女は一歩、また一歩と歩を進める。

 通り過ぎる車のライトが照らしても、誰も気づかない。泥と煤に覆われた彼女は、さながら動く影のようなものだった。

 彼女は視覚ではなく、熱源を頼りに進んでいる。


 目的はただ一つ。

 温度が高く、安定した場所。

 人間が“住処”として築いた、その環境こそ最適な孵化場だった。


──


 一軒目:一般住宅


 裏庭の白く塗られたフェンスをくぐり、地下のエアコン室外機の下に身体を潜らせる。

 コンクリートの温もり。排気口から漏れる暖気。

 ロザリー03-βはそこに尾を巻きつけ、腹部を震わせた。

 粘液が滴り、卵嚢がひとつ、またひとつと転がる。

 生温い蒸気の中で、半透明の殻が街の塵をまとって固化していく。


 住人は二階で静かに眠っている。そこにロザリーの卵が産み落とされたことなど──誰も知らない。


──


 二軒目:雑居ビル


 午前二時一五分。


 自動販売機の裏、配電盤の隙間からロザリー03-βは滑り込む。

 壁の裏側には温水管が通っているようで温かい。

 湿り気と熱、そして人間の匂い。

 ロザリー03-βは尾を床に叩きつけ、腹を波打たせる。

 金属音と共に卵嚢がいくつも零れ落ちた。

 ビル全体の電圧が一瞬だけ揺らぐ。

 その異常は、夜勤の警備員が「機械のノイズ」として片付けてしまう。


──


 三軒目:市営地下駐車場


 ここは、ロザリー03-βにとって、理想的な繁殖場だった。

 常温、湿度七五パーセント、コンクリートの下の安定した熱。

 ロザリー03-βは、冷却水パイプの上に身体を預け、長い時間をかけて卵を産み付ける。

 その数、一七個。

 卵膜の表面に車の排気が付着し、膜は黒ずんで見えなくなった。


 ──すでに、ロザリー03-βは人間の世界と共生している。

 誰もそれを、異物とは思わない。


──


 午前三時を回るころ、ロザリー03-βは再び下水口へと姿を消した。

 腹部の膨らみは既になく、代わりに体表の色が明るくなっている。

 体温が戻り、代謝が活発化した証だ。

 この夜だけで、彼女が産み落とした卵は推定四五個。

 翌週、そのうちの約半数が孵化を迎えることになる。



────


 ──アメリカ合衆国 メリーランド州ロックビル市


 二〇三一年一〇月一二日 午前四時二一分。


 街は、まだ夜の名残の中にあった。

 空気は湿り、街灯の光が靄を縫う。

 通りを歩くのは清掃員と、酔いを覚ますためにタバコを吸う男だけ。

 その足元、コンクリートの隙間に埋まった金属板──エアコンの室外機の下で、微かな震動が続いていた。


 殻の縁がひとつ、またひとつと裂ける。

 わずかな熱が内側から発せられ、湿った空気に白い湯気が立つ。

 濃緑色の粘液に包まれた幼体が、喉を震わせるように空気を吸い込んだ。


 ──体長三〇センチメートル程度。

 爬虫類にも魚類にも似た、しかしどちらにも属さない姿。

 四肢には膜状の水掻き。皮膚は未だ薄く、血管が透けているようにも見える。

 それは、生まれ落ちた瞬間から環境に適応していた。


 耳ではなく、空気の微圧変化で音を感じ取る。

 光ではなく、温度で空間を“見る”。

 そして、嗅覚に似た化学受容器官が人間の皮膚由来の有機成分を捉えた。


 次の瞬間、幼体は湿ったコンクリートの上を滑るように進んだ。

 尾を左右に振り、低い摩擦音だけを残して──。


──


 ──ロックビル市中心部・六階建て雑居ビル地下


 午前四時三七分。


 監視カメラの映像は、薄暗い廊下を映していた。

 深夜警備員イーサン・ウェルズが懐中電灯を持ち、廃棄物保管室の扉を開ける。

 床には、湿った泥の跡。

 それは下水から這い上がった何かの軌跡だった。


 イーサンは舌打ちし、懐中電灯を動かす。

 照射の先で、何かが光った──金属ではない、湿った鱗の反射。


「……猫か?」


 それが、最後に残された言葉だった。

 次の瞬間、映像は乱れ、レンズを覆うような液体が流れた。

 ノイズが走り、画面は真黒になる。

 解析チームが確認した最後の一フレームには、壁面を這い上がる灰緑色の影と、床に落ちた警備帽が映っていた。


──


 ──同市南部・住宅街


 午前五時五分。


 トイプードルがけたたましく吠える声が三分程続いた後、急に止む。

 庭には倒れた植木鉢と、縦に裂かれた防鳥ネット。

 犬小屋の中は空。血液反応は検出されなかった。

 代わりに、犬小屋の奥壁には乾きかけた粘液の跡。

 隣家の住人は夜明け前に異臭を訴えたが、警察が到着した時には何も残っていなかった。


──


 ──下水道第六流路・北区


 午前五時二三分。


 監視ドローンが送信した映像には、

 狭い管壁の中でうごめく影が記録されている。

 複数の個体が擦れ合うことで体表の粘液が共有され、瞬時にpHと温度が均一化する。

 それはまるで群体のような動きだった。

 一体の尾が他体の背を押し、列を作るように進む。


 電力ケーブルを伝って地上へ向かう個体も現れ、通気口から流れ出た排気の温度を感知して群れが分岐した。

 目的は単純だ。

 ──熱、匂い、振動。すなわち“生体”。


──


 ──ロックビル電力供給区画・メインライン制御室


 午前六時一五分。


 送電システムが突如シャットダウンする。

 原因は主電源ケーブルの断線だった。

 後の調査で、断線部付近から微量のカルシウムと鉄分が検出される。

 すなわち──噛み千切られていた。


 停電時間は一三分。

 この間、市内監視カメラの七二パーセントが記録不能となった。

 唯一復旧直前に送られたフレームには、道路を横断する影が記録されていた。

 影の数、およそ一三〇。


──


 午前七時丁度。


 太陽が、昇る。

 市街地は、まだ静かだった。

 だが、街路樹の根の隙間、地下鉄通気口、ビルの配管。

 その全ての空洞に、灰緑色の影が潜んでいた。


 排気口の熱気に反応し、個体が尾を振る。

 電線の震えに反応し、個体が舌を動かす。

 そして──近くを歩く人間の靴音に反応し、群れ全体が微かに息を揃えた。


 もはや、それは研究所の出来事ではない。

 ロックビルという都市そのものが“生態系”に取り込まれたのだ。


 この日以降、ロックビル市は“第一侵食区域”として、地図上からその名を失うことになる。



────


 ──アメリカ合衆国メリーランド州 ロックビル市


 二〇三一年一〇月一三日 午後七時一九分。


 赤い夕陽が沈むころ、市の上空を低くヘリが旋回していた。

 “動物災害”という報道が流れてから一時間も経たないうちのことだった。

 警察の緊急無線は錯綜し、消防は現場に入れないままだ。


「下水が破裂した?」


「違う、何かが這い上がってきた」


「動いてるんです、先生、塊みたいな──」


 その断片的な通報が最後だった。


 八時を回るころ、市街地は完全に停電した。

 信号が一斉に消え、暗闇の中を車がぶつかり合う。

 燃料タンクが破裂し、炎が立ち上がる。

 炎が燃え上がる中で、人影がひとつ、またひとつと沈んでいく。


──


 ロックビル・セントラル駅の監視映像(記録番号A-13-0825)。


 列車が停車し、乗客が一斉に飛び出してくる。

 誰かが転び、誰かが叫ぶ。

 カメラの奥で、灰緑の影が壁を這い、次の瞬間、何かがぶつかり、レンズがひび割れた。

 最後に記録されたのは、湿った音と、鉄が歪む低い軋みだけだった。


──


 二〇三一年一〇月一四日 午前一時。


 消防、救急、警察の全通信が途絶した。

 政府はロックビル市を“第一侵食封鎖区域”に指定。

 境界線には、三重の鉄製バリケードが設置された。

 報道陣は撤退し、ドローン観測だけが続けられた。


 しかし、夜明けまでにそのドローンも、全機信号を失った。



────


 ──アメリカ合衆国メリーランド州 ロックビル市外縁 ダーンウッド地区


 二〇三一年一〇月二六日 午後六時四八分。


 空は鉛色で、風がほとんど吹いていない。

 境界線のテープは色を失い、何度も破られた形跡が見える。

 立入禁止の看板は半分崩れていた。

 若者たちは、そのすぐ脇に車を停めた。


「やべぇな……マジで誰もいねぇ」


「行くだけ行こうぜ。フォロワー一〇万いくって」


「撮れたらニュースに売るのもいいかもな!」


 彼らの声は軽く、真剣さのかけらもなかった。

 スマートフォンを三台、ライブ配信用に固定する。

 タイトルは“#ロックビル潜入チャレンジ”。


 コメント欄が瞬く。


“本物?”


“やめとけ”


“フェイク乙”──。


──


 午後七時二六分。


 カメラが住宅街に入る。

 アスファルトは乾き、街灯は一切点灯していない。

 しかし路面には、光を反射する灰色の筋がいくつも伸びていた。


「雨、降った?」


「違う。……これ、水じゃない。でも、濡れてる」


 靴の裏が音を立てた。


 “ズチ……ズチ……”


 湿ったものを踏む音だけがその場に響く。

 レンズがゆっくりと地面を映す。

 そこには乾いたようでいて、どこか生温い粘液が連なっている。

 それらは筋のように連なり、遠くの排気口へと消えていた。


「なんだよこれ、誰か撒いたのか──」


 音声が途切れ、画面にノイズが走る。

 次のフレームでは、暗闇の奥から微かな反射がひらめく。

 青い舌のようなものが、画面を一瞬だけ横切った。

 誰かが悲鳴を上げる。

 カメラが地面に落ち、レンズの向こうで長い尾が蠢く。

 映像は、そこまでだった。


──


 翌朝、ドローンが送信した画像が届く。

 高架の上に三つのスマートフォンと、一つのジャケット。

 スマートフォンの液晶はひび割れ、乾いた粘液がこびりついている。

 そのレンズ越しに映るのは、──ビルの窓に産み付けられた、複数の卵塊だった。


 ロザリー03-βの侵食は、すでに都市の構造そのものへと及んでいたのだ。



────


 変化は、破滅の前触れではない。

 それは、ただ“次の秩序”が訪れたというだけの事実である。


─生態学者 エリオット・ヘインズ『形なき進化論』



────


 ──カナダ連邦 オンタリオ州 サドベリー北部


 二〇三一年一〇月一四日。


 北米大陸の北端で、連日のように“生物の消失”が報告された。

 最初に異変を訴えたのは、カナダ連邦オンタリオ州サドベリー近郊の酪農家たちだった。

 放牧地の柵は壊れておらず、足跡も血痕もない。

 GPSタグの信号は、ある瞬間を境に一斉に途絶え、以降二度と再起動することはなかった。


 ただ、朝靄の残る草地の上に、

 ぬるく沈んだ地面と、焦げたような匂いが残されていただけだった。


 当初、地方自治体は盗難や事故として処理した。

 だが同様の報告が隣接する地域からも上がり始め、政府の環境観測衛星は、サドベリー北部一帯の放射線量が平常値の二・八倍にまで上昇していることを検知した。


 現場に派遣された生物班の報告は、科学的冷静さを保ちながらも、どこか“異常な静けさ”を漂わせていた。


“物理的破壊なし。遺骸なし。電波異常なし。

 生体反応の途絶は瞬間的。

 現象的には“消滅”だが、質量保存が成立していない。

 この現象を“捕食”と呼ぶべきかは不明。”


 その文面を最後に、調査班の通信は途絶した。


──


 一〇月一七日午前六時三五分。


 牧場から乳牛が三頭、忽然と姿を消す。

 柵には損傷がなく、周囲の雪も踏み荒らされている様子は無い。

 ただ、地表が円形に沈み、淡い湿りを帯びていた。


「GPSタグ、反応なし。……昨日までは確かに全部動いてたのに」


 獣医の声が震える。

 電波を遮るものはない。ログは途絶し、記録は“無”になった。


 二日後、トナカイ飼育業者から通信が入る。

 八頭の識別信号が、同時に消えたのだと言う。

 残された個体たちは怯え、柵の隅から動かない。


“群れの行動が変だ。何かを避けてる”


 それが、最後の現場記録となった。


──


 夜明け前、森の奥で何かが動く。

 それを“見た”という人は誰もいない。

 けれど、犬たちが一斉に吠え、風の中で家々の窓が震えた。

 翌朝、また一頭、消えた。

 空気は焦げたような匂いを帯び、

 地表にはぬるい湿りが一つ増えていた。


 ──その日を境に、サドベリー北部では、

 “生ぬるい風が吹くと生き物が消える”という噂が静かに増え始めていた。



────


 二〇三一年一〇月二一日。


 オンタリオ州北部からの報告を受け、州政府は環境庁と合同で現地調査を開始した。

 調査隊の衛星通信は、午前九時までは正常に稼働していた。

 しかし、午後一時一八分を境に、音声・映像データの両方が欠落していたのだ。

 記録の最後に残っていたのは、誰かの息を呑むようなノイズと、風の音に混じる“何かが這う音”だった。



 同日午後四時。


 サドベリー近郊の街で、初めて人間の行方不明者が出た。

 通報したのは、配送会社の同僚だった。


「彼のトラックはエンジンがかかったまま、道路脇に止まっていた。

 運転席には温かいコーヒーと、開いたままのハンバーガーがあった。」


 夜になり、州警察は周辺道路を封鎖。

 だが翌朝には、もう一人、また一人と人が消え、民間の防犯カメラには、レンズの端で揺れる影がいくつも記録されていた。


──


 ──オンタリオ州サドベリー郊外


 二〇三一年一〇月二四日。


 酪農地帯に設置された監視カメラが、

 真夜中に柵の外を低く滑るように移動する影を捉えた。

 赤外線映像では、体温の分布が均一ではない。

 中心部は高温、しかし外殻は著しく冷えていた。

 専門家はこの映像を「水陸両生の大型個体」と仮定したが、既知のいかなる分類にも該当しなかった。


“歩行痕、四肢の接地角から見て直立動物ではない。

 体表反射は異常なまでに滑らかであり、外気との温度差がほぼ無い──まるで“呼吸していないかのようだった。”


 報告書を受け取った生態班の研究員たちは、その夜、モニターの前で一様に沈黙した。


──


 そして一〇月二八日。


 サドベリーからおよそ一〇〇キロメートル離れたノースベイの防災センターが、未知の電磁波干渉を検知する。

 気象衛星の観測データが部分的に欠落し、夜間には街の通信網が断続的に不安定となった。


 翌朝、通勤途中の住民が撮影した映像には、黒い影が雪の上を滑るように通り抜ける瞬間が記録されていた。

 雪は踏み荒らされることもなく、ただ凹みだけが残っている。


 専門家はそれを「光学的錯覚」「衛星データの乱反射」と結論づけた。

 だが、人々の間ではすでに──それをこう呼ぶ声が広がっていた。


“ロザリー”


──


 一一月五日。


 オンタリオ州北部の地図には、侵食区域(Zone-R)の赤い線が引かれた。

 だが、その線はあくまで“想定”にすぎなかったのだ。

 実際には、線の外側でも動物の消失、通信異常、放射線の局所的上昇が確認され、科学者たちが描く“境界”は、常に現実の侵食速度に追いつけずにいた。


“この現象は、感染でも汚染でもない。

 我々が“新しい環境”に順応しきれていないだけだ。”


─カナダ生態学会・緊急声明より


──


 世界はまだ“それ”を理解していなかった。

 だが確かに、この時すでに──

 ロザリーの生態圏は、国境を越えて拡大を始めていた。



────


 ──カナダ連邦 首都オタワ 国家緊急対策本部(NEOC)


 二〇三一年一一月二一日午前九時一八分(UTC-5)。


 大型スクリーンには、オンタリオ州北部の衛星画像が映っていた。

 緑の森林地帯の中に、赤いマーキングが点々と連なっている。

 それらは“異常捕食報告区域”を示していた。


「最初の報告は九月一八日。酪農地帯の牛三一頭が一晩で消失。

 翌日にはトナカイ牧場でも同様の事例。

 ですが──二〇日以降、人間の行方不明が急増しています」


 報告書を読み上げるのは環境生物局の主任分析官、マシュー・リード。

 ドローンが捉えた現地映像がスクリーンに映る。

 荒れた草地、散乱した飼料袋。

 血痕も骨も、何も残っていない。


「捕食痕は皆無。掘削も無い。

 ──しかし、赤外線観測で地表下に“熱源の移動”が確認されています」


 会議室の空気が凍りつく。

 夜間赤外映像には、地面の下を滑るように動く複数の熱の線。

 生き物が土の中を泳いでいるようだった。


「温度は三八度から四〇度──哺乳類の体温に近い。

 ただし移動速度が異常。分析班の仮説では、地中の凍土層を這う“未知の大型生物”」


「……つまり、捕食対象を変えたということか?」


 生態学顧問ヴァネッサ・グレアムの声が震える。


「はい。野生動物が減少した地域で、人間の失踪が始まっています。

 パターンは明確です──“効率の良い餌”への選択です」


 沈黙。

 政府高官の一人が、誰にともなく呟いた。


「……あれが、また動いているのか。

 “ロザリー”──スペリオル湖事件の、あの存在が」


「はい。データ上、同一系統と見て間違いありません。

 ただし、個体群は複数。

 現在確認できるだけで一〇体以上、行動域は連邦全域に拡大中です」


 スクリーンに映る地図が、ゆっくり赤く染まっていく。

 誰かが呟く。


「……これが、Contamination Zone(侵食区域)か」


 対策本部長シドニー・マクリーンが深く息を吐いた。

 彼女は疲れ切った目でスクリーンを見上げる。


「……こんなもの、記者にどう説明すればいい。

 “動物に似た何か”が、人を食っている、とでも?」


 誰も答えなかった。

 それでも報告会は続く。

 ドローン映像、GPSの消えた識別タグ、行方不明者リスト。

 その全てが、“存在していた証拠”だけを残していた。


 最後に映し出されたのは、匿名で送られた映像。

 夜明け前の道路、林の向こうを横切る黒い影。

 光を反射する青白い舌が、確かにカメラに映っていた。


 誰かが小さく言った。


「……どうすれば、止まる?」


 そんな力無い言葉に、マクリーンが答えた。


「止まらない。

 我々は失策を恐れるが、自然は選択を恐れない。

 ──いま、地球は“より効率の良い命”を選んでいるだけだ」


 その瞬間、誰も何も言わなくなった。

 冷たい沈黙だけが、国家会議の空間を支配した。


 スクリーンの隅には、新たな赤い点がひとつ。


 ──オタワ南端、人口三万の街リドー・フォールズ。


 その座標が、ゆっくりと点滅していた。



────


 ──カナダ連邦 オンタリオ州サドベリー


 二〇三一年一一月二一日 午後四時三九分(EST)。


「──こちらはCBCニュース。現場のサドベリー市北部鉱山地帯からお伝えします。

 この地域ではここ数週間、地盤の沈下と家畜の大量失踪が相次いでおり、環境庁による調査が続いています──」


 吹き荒ぶ冷気の中、記者のエイミー・フォスターがマイクを握る。

 背後には立ち入り禁止の黄色いテープが目にも鮮やかにひらめいている。

 雪解けの地面が、不自然に隆起していた。


「──住民によると、夜になると地面の下から“呼吸するような音”が聞こえるとのことです。

 現時点で、警察は地滑りやガス漏れの可能性を調査していますが、現場の温度計は平均より一五度も高い値を示しています」


 その時、カメラがわずかに揺れた。

 雪面が震えたように見えたが、風ではない。

 記者の足元を、雪が“内側から持ち上がる”。


 音は──なかった。

 ただ、低周波のような圧がマイクを歪ませた。


「──いま、地面が……!」


 映像が乱れた。

 フレームの隅に黒い影。

 何かが、雪を割って通り抜けた。

 わずかに映ったのは、光を反射する青白い舌──。

 エイミーの悲鳴が響き、カメラマンやスタッフがエイミーを呼ぶ声、そしてそれが悲鳴へと塗り変わっていく。


 やがて、映像は完全に途切れた。


──


 ──CBCトロント本局・編集デスク


 同時刻。


「中継が切れた? サドベリー支局と通信が途絶えました!」


「熱源の異常値確認! 現地温度、零下五度の環境で四一度の移動体温!

 ──これ、人間じゃありません!」


 編集室がざわつく。

 スクリーンに映る衛星熱画像には、雪原を這うように連なった複数の赤い線。


「これは地熱じゃない……何かが“生きてる”」


 スタジオのキャスターが、カメラの前で言葉を失う。


「──ええ、現地との通信が途絶えました。

 繰り返します、サドベリー市北部で取材中のスタッフと連絡が取れていません。

 ただいま政府は状況の確認を──」


 背後のスクリーンが一瞬、ノイズを走らせた。

 中継カメラの最後の静止画。

 地面に落ちたマイクと、そのすぐ向こう──雪の中に、青白く光る瞳が二つ。


 スタジオが沈黙する。

 全カナダ、数一〇〇〇万人の視聴者がその沈黙を共有した。


 誰かが小さく呟いた。


「……“ロザリー”が、北を歩いている」

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