第一三話 Outside the Biosphere
──アメリカ合衆国メリーランド州
国立生物災害研究所 第三隔離観測室
二〇三一年九月七日日 午前一時三五分
イーサン・ベルは、退屈を紛らわすように記録端末へ報告を打ち込んでいた。
冷却槽の温度、安定。放射線レベル、微弱。外気圧との差、正常。
日常の延長──それは、研究所における最大の安定だった。
だが、その静寂は唐突に破られる。
低く、鈍い振動。
床が揺れ、照明が一瞬で落ちる。
緊急警報が鳴り響き、赤い光が室内を点滅させた。
「……地震か? まさか、ここは安定帯のはずだろ」
イーサンが呟くと、冷却槽の計器が一斉にノイズを吐いた。
温度上昇。圧力異常。通信途絶。
彼は慌てて制御端末にアクセスするが、すべての系統が遮断されている。
その時、冷却槽の内部で何かが“泡立つ”ように動いた。
液体の表面に、淡い光が走る。
波紋が広がり、内部から黒い影が浮かび上がった。
「……ロザリー、03……?」
照明が明滅するたび、その影は形を変えていく。
脊椎のような線。短い手足。長い尾。
まるで冷却液の中で生まれた“新しい秩序”が、再び世界を探しているようだった。
イーサンが防護手袋をはめ、観測窓に近づく。
その瞬間──液面が弾けた。
強化ガラスが悲鳴のように軋み、蜘蛛の巣状に亀裂が走る。
「待て、まだデータが──」
言葉は、砕けた音にかき消された。
冷却槽が崩壊し、液体が床へ溢れ出す。
衝撃波に吹き飛ばされたイーサンは背中を強く打ち、視界が赤く滲んだ。その防護メットは叩き付けられた時に割れたのか、血を滲ませている。
その中から、何かがゆっくりと這い出てくる。
黒い体表はまだ未成熟なようで、まだ灰緑色をしている。
しかし肢体の形は明確で──“生きようとしている”ことだけは、誰の目にも明らかだった。
「……動いてる……」
イーサンの声に反応したように、ロザリー03の頭がわずかに動く。
呼吸を探すように、空気を掴むように、口を開閉する。
その度に、粘膜の間で小さな泡が弾けた。
次の瞬間、イーサンはその瞳を見た。
黒曜石のように濡れた、反射のない瞳。
──生物のそれだった。
ロザリー03は、静かに身を持ち上げた。
体液が滴り、冷却液に混じる。
そして、ほんの一瞬だけ周囲を見回した。
その腹が鳴った。
微かに、低く。
イーサンは一歩後ずさる。
その行動を、ロザリーは“反応”として捉えた。
餌の存在を確かめるための、生理的な探索。
──それは選択ではない。本能だった。
音もなく、ロザリーは床を滑るように動いた。
イーサンが逃げる間もなく、その身体が彼を包み込む。
抵抗の叫びも、報告の言葉も、冷却液に呑まれて消えた。
しばらくの間、部屋には何の音もなかった。
やがて、冷却槽の残骸の上で、ロザリーの体がゆっくりと動いた。
再び温度が上昇し、体表の光が安定していく。
──自己保温が始まったのだ。
呼吸。循環。代謝。
それらが、捕食によって回復していく。
その過程に“残酷”はない。そこにあるのは、ただ生きるための構造。
数分後、彼女はゆっくりと壁へ近づいた。
爪を掛け、垂直に登る。
通気口のカバーをその頭で押し上げ、爪を掛け捻じ曲げ、体を押し込む。
狭い金属の管を、静かに這い進む音だけが残った。
やがてその音も遠ざかり、第三観測室は再び沈黙した。
割れたガラスの上には、僅かな血痕とイーサンの防護手袋が一つ──。
そして、誰も使用することの無くなった記録端末が淡く点滅していた。
──国立生物災害研究所 中央監視室
同日 午前二時三六分
「……第三隔離観測室、通信断線。センサー応答なし」
当直オペレーターのサミュエル・グリーンが眉をひそめた。
通信ログには異常値が並ぶ。
電力供給ラインの不安定化、酸素濃度の急低下、そして放射線レベルの上昇。
「地震の影響か?」
「他のブロックは正常です。──異常はここだけです」
サミュエルは隣の端末を操作し、カメラフィードを切り替えた。
だが、第三観測室のモニターは真っ黒だった。
非常照明も作動していない。
ノイズ混じりの映像の中に、一瞬だけ何かが映る。
──黒い影。
わずかに光を反射する“目”のようなもの。
「……いまの、見たか?」
「見間違いじゃ……?」
サミュエルが指示を飛ばす。
「隔離観測チームを現場へ。放射線防護服を忘れるな」
報告を受けたセキュリティチームが防護装備を整え、通路を進む。
第三観測室の前に到着した時、扉のロックランプが消えていた。
「……開いてる?」
主任がカードをかざすが、反応がない。
磁気制御系が焼けていた。
扉の隙間から立ちこめるのは、焦げた冷却液と鉄の匂い。
防護マスク越しでも分かるほど濃密な臭気だった。
主任が小型ライトを向ける。
小さな光の先、床には破損した冷却槽、散乱した器具、そして僅かな血痕。
中央の床面には、何かが這いずったような滑らかな跡が残っていた。
床材がわずかに溶け、周囲には放射線焼けの痕がある。
「誰か……生存者を確認しろ! いないか! 誰か!」
だが返ってくるのは沈黙だけ。
機材の警告音と、遠くで滴る液体の音。
そして──。
「主任、これを……」
部下のひとりが拾い上げたのは、防護手袋だった。
焼け焦げ、指の一部が欠けている。
縫い目の内側に、識別タグが見える。
──ETHAN BELL
主任は小さく息を呑み、報告端末を握る手を震わせた。
「……対象生体、ロザリー03、脱走の可能性あり」
上空では、緊急用遮断シャッターが降下を始める。
赤色灯が回転し、施設全体に警報が響く。
その頃、通気ダクトの奥では、微かな音が続いていた。
金属板を擦る音。湿った呼吸。
まるで胎内で眠る何かが、ゆっくりと目を覚ますように。
通気孔を抜けた先、廃棄用処理室の影で、ロザリー03は体を丸めていた。
まだ完全に乾ききっていない皮膚から、水滴が床へ落ちる。
低い体温を維持しながら、わずかに頭をもたげた。
照明の光が、彼女の背をかすめた。
淡い青の紋様が、静かに脈打つ。
──それは心拍のようであり、光合成のようでもあった。
彼女はゆっくりと呼吸した。
空気に含まれる放射性粒子を取り込み、熱を感じ、動く。
ただ、生きるために。
誰もその瞬間を見ていなかった。
観測は終わり、記録も絶えた。
残されたのは、空虚なデータログと、静寂の中で続く“呼吸”だけだった。
──第三観測区画 廃棄処理通路
非常灯が断続的に赤く明滅していた。
床を流れる冷却液が霧を生み、視界の下半分を白く覆う。
その濃い霧の向こうで、何かが“這う”音がした。
擦れる金属と、湿った皮膚の摩擦音。
低い、湿気を帯びた呼吸のような音が、規則的に響く。
監視員は端末を掴んだまま、ゆっくりと身をかがめた。
ヘルメットのライトが霧を裂く。
その光の先で、何かの舌が閃いたような気がした。
一瞬だった。
濡れた地面を這うように、灰緑の影が滑る。
胴は長く、厚い鱗が光を吸い込み、脚は短く、しかし確かな力を感じさせた。
その青白い舌が再び空気を舐め、監視員の方を向く。
ロザリー03。
名を与えられた存在は、音を立てない。
ただ重そうな体を地面に押しつけながら、匂いと熱を辿る。
頭部がわずかに持ち上がり、横に広がる黒い瞳孔が監視員を映した。
その瞬間、ライトが乱反射する。
鱗の間から微かな青い光が滲んだ。
それは筋肉の収縮でも、怒りでもない。
──代謝の始まりだった。
監視員が後ずさる。靴が液体を蹴る。
ロザリーは音と動きに反応する。
四肢が床を押し、尾が滑らかにしなる。
動作は早くない。
しかし、止められない。
次の瞬間、霧が大きく揺れた。
足音も、息遣いも消える。
そこにはもう、静かな液体の波紋だけが残っていた。
──それが、冷却槽から出た直後の二度目の“捕食”だった。
────
──アメリカ合衆国メリーランド州
国立生物災害研究所 第3隔離区通気ダクト
二〇三一年九月九日 午前一〇時一八分。
監視セクションに、微細な異常波形が記録された。
気圧センサーの値が微かに振動している。
通常なら換気システムの誤差として処理される範囲──だが、その数値は周期的だった。
「……生き物か? いや、そんなまさかな」
警備主任のローレンスが眉を寄せる。
彼の背後では、放射線管理端末の警告灯が断続的に点滅していた。
β線量の上昇。
しかも、研究区画の外──通気ダクト内部からだ。
「点検チームを出す。ガイガーカウンター、カメラ持っていけ」
三人の作業員が防護服を着込み、金属製の梯子を登っていく。
廊下の天井、古い通風口を外すと、防護マスク越しにも分かるほどの焦げたような臭いが、乾いた空気と共に流れ出た。
「……なんだ、この臭い……?」
先頭の作業員、ミラーが懐中灯を差し込む。
光が奥に吸い込まれるように消えた。
カメラの映像がモニターに送られてくる。
そこには──蠢くものがあった。
黒く湿った体表。
筋肉ではなく、粘液と繊維が織り合わさったような質感。
目のような器官は確認できない。
ただ、光を避けるように動く。
「……映像、これ生きてるぞ」
次の瞬間、映像が乱れた。
何かがカメラに飛びついたのだ。
画面の中で、金属音と共に防護服の布地が破れる音。
そして短い叫び。
ローレンスが即座に通信を取る。
「応答しろ、ミラー、どうした!」
応答はなかった。
ただ、かすかな呼気のようなノイズが入り混じる。
モニターを解析していた技術者が、震える声で言った。
「主任……ガイガーカウンター、振り切れてます……」
天井の奥で、何かが“這う”音がした。
金属と爪が擦れ合うような、湿った音。
次の瞬間、別の通風口が“内側から”破られた。
そこから落ちてきたものは、全長およそ一メートル。
アオジタトカゲを思わせる、滑らかな鱗と長い尾。
しかしその眼は黒く、どこにも焦点を結ばない。
防護服の作業員が反射的に後ずさる。
ロザリーは音を立てなかった。
ただ、ゆっくりと首を傾け──彼の方向へ、舌を一度だけ動かした。
その直後、身体が弾けるように飛んだ。
金属床を蹴る音。
人影が倒れる。
悲鳴ではなく、空気が抜けるような音。
ローレンスは咄嗟に制御盤へ走った。
「隔離シャッター、全部降ろせ! 通路を封鎖しろ!」
赤い警報灯が点滅し、厚い防爆シャッターが閉まり始める。
だがその瞬間、別の通気口の中で複数の影が動いた。
「……まさか、一体じゃない……?」
モニターに映し出された熱反応は、三つ、四つ──いや、それ以上。
ローレンスの指が止まった。
汗がヘルメットの中を流れる。
「……やられたな。もう、巣になってる」
天井の上、ダクトの奥で、無数の爪が金属を引っかく音がした。
焦げた匂いと血の匂いが混じり、空調が止まった研究棟に、ただその音だけが響いていた。
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──アメリカ合衆国メリーランド州 国立生物災害研究所
二〇三一年九月二三日 午後九時四七分。
停電は三度目だった。
非常電源が入るたび、わずかな照明が通路を淡く染め、次の瞬間にはまた闇が押し寄せた。
誰かが低く呻く。金属を擦るような、どこかで何かが這う音。
それは、天井裏だった。
「……冷却槽エリア、応答なし。第三観測室のドア、閉鎖不能です!」
通信士の声が震えていた。
ガラス越しの観測ルームには、まだ複数名の職員がいたはずだ。
だが、カメラの映像はノイズ混じりに乱れ、赤外線スキャンも役に立たない。
画面にはただ、ゆっくりと蠢く黒い影だけが映っている。
「何体だ……何体いる?」
「わかりません。三体、いえ──五体以上。ダクト内部にも反応があります!」
換気ダクトの金属が、内側から押し広げられる音が響いた。
焼け焦げたような臭気。腐蝕した空気。
誰かが喉を押さえ、咳き込む。
それは腐敗ではなく、焦げた有機物と金属が同時に熱せられた匂いだった。
「通気口を閉じろ! 急げ!」
警備主任が叫び、ライフルを構える。
しかし、次の瞬間、頭上のグリルが音を立てて外れた。
何かが落ちる。
青黒い体、光を吸い込むような鱗、そして──赤く濡れた口腔。
叫びが上がるより早く、それは跳ねた。
金属床を滑る音、骨の軋み、鈍い衝突音。
一人の研究員が喉へと食い付かれ、声も出せないまま引きずり込まれる。
アオジタトカゲのような頭部がその肩口に噛みつき、上半身を呑み込む。
血ではなく、唾液に似た粘液が床を覆う。
「β群だ! β群が……繁殖してる!」
誰かの悲鳴が、無線のノイズと一緒に途切れた。
通路の両端からも異音が聞こえる。
換気ダクトの中で何かが這い、壁の裏を移動している。
生きた建物。
研究所そのものが、内部から食われ、巣へと変わっていく。
非常灯が一瞬点く。
その赤い光の中で、誰かが見た。
ガラスの向こう、床下から這い出た一匹の一メートルほどの個体──それが、もう人間を“恐れの対象”としてではなく、“餌”として見ている瞳。
「……逃げろ!」
誰かが叫ぶ。
だが、すでに遅かった。
シャッターが自動的に閉まり、出入口がロックされる。
金属音の向こうで、ロザリー03-βたちの蠢きが一斉に響く。
焦げた臭い。
水が蒸発する音。
そして──静寂。
最後に残った警備ログには、短い一文だけが残されていた。
“第三隔離区、生命反応ゼロ。建物全域で放射線量急上昇。
……ここはもう、生物圏の外だ。”




