第一二話 The Seed of the End
──ミシガン州アナーバー バーンズ・パーク
二〇三〇年三月一六日、午後六時三九分。
雪解けの風が街路樹を揺らし、住宅街の空気を冷たく撫でていた。
アンドリュー・ウェルズ博士とジェイソン・リーは車を降り、静まり返った家の前で立ち止まる。
郵便受けには、二〇二七年七月二五日付の新聞。──スコット・イースタリングが、自ら命を絶った前日のものだった。
「……この家で、博士は最後の夜を過ごしたんですね」
「“最後の論文をアレクシア・クルーガー理事長室に置いた”──それが公式記録だ。
その日未明、彼は研究室で……な」
言葉を途切れさせ、アンドリューは扉を開けた。
薬品と紙の匂いが混じった空気が、一気に二人を包む。
生活の匂いは消えていた。そこにあるのは、観測者としての痕跡だけだった。
机の上にノートが一冊。
表紙には黒いインクでこう記されていた。
“Field Notes #47 – LISA”
ジェイソンがページを開く。
“ロザリーと呼ばれ始めた存在は、放射線を『発する』のではなく、内部に保持している。
崩壊を抑えるのではなく、利用している。
この現象は拒絶ではない。適応だ。”
ページの端に、震えるような走り書きが残っていた。
> “リサの採取した試料、いまだ反応を示す。
熱、圧力、時間のいずれにも依存しない。
……これは、生きている。”
「これが“ロザリー01”の細胞反応……」
「博士は、それを“死”ではなく“生”として見ていたんだな」
アンドリューが机の下を調べると、古い金庫があった。
鍵は掛かっておらず、少し錆びついている。
蓋を開けると、鉛製の小箱に入れられたガラス瓶が二つ見えた。
“Sample_L-01”“Water_Bay#4”とラベルが貼られている。
ガイガーカウンターの針が一気に振り切れる。
中には、灰緑色の泥のようなものが沈んでいた。微かに青白い光を放っている。
「……二〇年以上経っても、崩壊していない」
「いや、これは“崩壊”してないんじゃない。“維持”してるんだ」
アンドリューはノートの最後の一文を指でなぞった。
“We can’t contain evolution.(進化は封じ込められない)”
外で雷鳴が響く。
ジェイソンは小さく息を吐いた。
「……博士は、恐れていなかったんですね」
「恐れていなかった。観測者として、最後まで理解しようとしていたんだ」
二人は資料を鉛箱に戻し、慎重に封をした。
アンドリューは小さく呟く。
「スコット・イースタリング。
──彼は、“ロザリー”を殺そうとはしなかった唯一の科学者だ」
外では、雨が静かに降り始めていた。
────
──アメリカ合衆国ミシガン州 アナーバー大学・理事長室
二〇二七年七月二五日 午後一一時五三分。
大学は深い闇の中にあった。
警備灯がひとつ、またひとつと点滅を繰り返す。
スコット・イースタリングは、誰にも気づかれぬよう理事長室の鍵を開けた。
報告書の提出期限など、とっくに意味を失っている。
今日、スペリオル湖で行われた“何か”──それが失敗したことだけは、アレクシアからの連絡で分かっていた。
──対象、確認。
──攻撃、無効。
──……発光、拡散。
──退避不能。
ノイズ混じりの通信は、やがて沈黙したのだろう。
スコットは震える指で机に封筒を置いた。
宛名は、“To: Dr. Alexia Krüger”。
その中には二つの書類が入っている。
一つは正式な報告書。
もう一つは、博士としてではなく、人間として書いた覚書だった。
──
【Easterling Report:抜粋】
記録作成日時:2027年7月24日 22:04(UTC-5)
【概要】
・対象個体の反応、通常生物では説明不能。
・放射線量、最大900%を記録。
・視認個体“01”消失。
・作戦部隊との通信、同時刻に断絶。
【補記】
・対象は敵対反応を示していない。
・攻撃行為によって反応値が上昇。
・外部刺激を“捕食行動”に転化する可能性。
・対話不能。
──ただ、存在している。
──
【個人覚書】
アレクシア。
“ロザリー”と呼ばれた存在は、もはや観測ではなく、事実だ。
だが私はそれを恐れない。
理解するために観測した。
理解しようとした。
これは、終わりではない。
多分、人類にとって初めての“観測される側”としての始まりだ。
私はまだ君に伝えたいことがあるが──時間がない。
S.E.
──
封筒を閉じる。
ランプの明かりが、机上の時計に反射していた。
時刻は午前零時を回っている。
スコットは静かに立ち上がり、理事長室を出た。
誰もいない廊下。
その足音が、やけに乾いて響く。
そして、第二観測室のドアがゆっくり閉まった。
──
二〇二七年七月二六日 午前二時二八分。
スコット・イースタリング、死亡確認。拳銃による自死。
机の上には論文控えと、娘リサの写真のみが残っていた。
──
二〇三〇年。
アレクシア・クルーガーの死後、大学の倉庫で一通の封筒が見つかる。
中の封は、開けられた形跡がなかった。
────
──アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
環境保護委員会(EPC)・特別観測局 第二研究室
二〇三〇年三月一七日 午前〇時三六分。
外は雪だった。
深夜の首都は静まり返り、ガラス越しに見える街灯の明かりが白く滲んでいる。
実験棟の中、稼働しているのはこの部屋だけだった。
電源を落とされた機器の群れが、墓標のように暗がりに沈む。
机の上に置かれたのは、鉛製の収納ケース。
“アナーバー大学理事長室・回収資料”
そう書かれた手書きの白いラベルには、かすかに擦れた文字が残っていた。
エリック・ハドソンは静かに息を吐き、手袋を外す。
“スコット・イースタリング博士”。その名を知る者は、いまではほとんどいない。
エリックはかつて、アナーバー大学で、イースタリング博士の下で生徒として研究していた。
あの日、EPCがスコットの研究を強制的に打ち切った時、彼もまた“別の研究室へ移動せよ”という通達を受けた一人だった。
──そして、二度と恩師と会うことはなかった。
いま、そのスコットが残した封筒が、彼の手の中にある。
封はまだ破られていない。
薄く変色した紙には、宛名が見える。
“To: Dr. Alexia Krüger”
“From: S.E.”
彼はゆっくりと封を開けた。
紙の擦れる音が、静寂の中にやけに大きく響く。
中から現れたのは二通の書類。
一つは公式報告書、もう一つは手書きの覚書。
ページをめくるたび、微かなインクの匂いと、時間の重さが立ちのぼる。
──
【Easterling Report】
記録作成日時:2027年7月24日 22:04(UTC-5)
【概要】
・対象個体の反応、通常生物では説明不能。
・放射線量、最大900%を記録。
・視認個体“01”消失。
・作戦部隊との通信、同時刻に断絶。
【補記】
・対象は敵対反応を示していない。
・攻撃行為によって反応値が上昇。
・外部刺激を“捕食行動”に転化する可能性。
・対話不能。
──ただ、存在している。
──
エリックの眉がわずかに動く。
その手が、もう一枚──個人覚書へと滑る。
ペンの筆跡が掠れ、紙面の端がわずかに焼け焦げていた。
アレクシア。
“ロザリー”と呼ばれた存在は、もはや観測ではなく、事実だ。
だが私はそれを恐れない。
理解するために観測した。
理解しようとした。
これは、終わりではない。
多分、人類にとって初めての“観測される側”としての始まりだ。
私はまだ君に伝えたいことがあるが──時間がない。
S.E.
──
読み終えたあと、彼は長い時間、動くことができなかった。
雪の落ちる音だけが、遠くに微かに聞こえる。
EPCが“ロザリー”を生物として公認するまで、実に三年もの空白があった。
だが──この報告書は、その三年前に書かれている。
誰よりも早く、誰よりも正確に。
そして誰よりも孤独に、スコットはそれを見たのだ。
エリックの喉が鳴る。
何かが胸の奥で軋んだ。
それは尊敬でも、悲しみでもない。
罪悪感に似た何かだった。
「……俺たちは、“恐怖”を科学で隠したんだな」
呟いた声が、蛍光灯の唸りと混じる。
机の上に置かれた報告書の端が、エアコンの風でわずかに震えた。
その時、彼は報告書の最下段に薄い鉛筆書きを見つけた。
インクではなく、あまりに弱い筆圧で書かれたそれは、
長年の経年で今にも消えそうだった。
──“She will continue the observation.(彼女は、観測を続けるだろう)”
エリックは言葉を失った。
“彼女”とはきっと──ロザリーのことだ。
スコットは最後まで、彼女を“脅威”ではなく“観測者”として見ていた。
机の上のランプが明滅する。
外で雷鳴が一つ、低く唸った。
エリックは報告書をそっと閉じた。
その表紙に手を置き、静かに目を閉じる。
「博士……あなたは、もう“理解”の先を見てたんですね」
小さく呟くと、封筒を再び鉛箱に戻し、錠を掛けた。
その手は、ほんの少しだけ震えていた。
だが、その震えは恐怖ではなかった。
──人間が“観測される側”に立つ、その覚悟の証のように。
────
──アメリカ合衆国 ワシントンD.C. 連邦生物学研究センター
二〇三〇年六月二〇日 午前一時三六分。
夜勤室の灯はひとつだけだった。
エリック・ハドソンは、遮光ブラインドを下ろしたまま顕微鏡を覗き込んでいた。
観察台の上には、スコット・イースタリングの遺品──リサ・イースタリングが採取した試料が置かれている。
灰緑色の粘液が入ったガラス瓶。
封は三年経っても錆びず、開封した瞬間、微かに金属の匂いが広がった。
冷却装置の音だけが響く。
スライドに粘液を一滴垂らすと、光を反射せずに吸い込んだ。
顕微鏡の焦点を合わせる。
そこに、わずかな動きがあった。
「……生きてる」
細胞群が蠕動していた。
死んだはずの試料が、まるで呼吸するようにわずかに収縮を繰り返している。
蛍光照射を切り替えると、細胞壁が光に反応して変形した。
核構造が安定化──それどころか、外部の放射線を吸収し、構造そのものを再構築している。
数値が跳ね上がる。
ガイガーカウンターが「カチ、カチ」と細かく鳴り続けた。
だが、危険を示すはずの赤い警告灯は、点滅をやめていた。
放射線を吸収して、外部漏出を止めている。
「……放射線を、食ってる……?」
声は掠れ、息と混ざった。
冷たい汗が背中を伝う。
誰かに見せることも、報告することも許されない。
それでも、彼の指は記録ボタンを押していた。
モニターに映る細胞は、ゆっくりと形を変えていく。
単細胞から多細胞へ。
神経構造に似た線条が伸び、筋繊維を思わせるパターンが生まれた。
顕微鏡の向こうで、何かが“進化している”。
エリックは椅子を離れ、机の上のスコットの覚書を掴んだ。
そこに書かれていた言葉──。
「放射能は死ではない。それは継承だ。」
その一文を、彼は震える声で読み上げた。
そして、自分のノートに新たな言葉を書き加える。
“継承は、終焉の先に発芽する。”
瓶の中の灰緑の粘液が、わずかに震えた気がした。
まるで呼応するように。
彼はゆっくりと試料瓶を持ち上げた。
指先の皮膚が、わずかに熱を感じる。
中からかすかな“鼓動”が伝わってくる。
「……これが、彼の“継承”か」
囁くような声。
誰もいない実験室で、その言葉は空気に吸い込まれていく。
そして、エリックは口の中で小さく呟いた。
「違う……これは始まりじゃない。
──終わりの種だ」
その瞬間、制御盤のモニターが自動で反応した。
警告ではない。
観測プログラムが、未知の生体信号を“新規登録”として受信したのだ。
《NEW ENTRY: RZ-03》
《STATUS: ACTIVE》
エリックは画面から目を離さなかった。
恐怖でも驚愕でもない。
そこにあったのは──“理解した者”だけが見せる、静かな崇拝の表情だった。
────
──アメリカ合衆国メリーランド州 国立生物災害研究所 第三隔離観測室
二〇三〇年八月三一日 午後一時二三分。
室内の気圧は外気よりわずかに低い。
循環フィルターの低い唸りが、時間を測るように規則的に響く。
エリック・ハドソン博士は、冷却槽の前に立っていた。
内部では、光を吸い込むような黒い組織片が、液体中にゆっくりと漂っている。
顕微観測装置に接続されたデータラインが、複数のモニターに映し出されていた。
「マイナス一二〇度からマイナス八〇度までの昇温を完了。冷媒ガス、窒素からアルゴンへ切り替えます。
構造保持率、九二パーセント……代謝前駆反応あり」
助手の報告を聞きながら、エリックは冷却槽の制御端末に目を走らせる。
画面の隅では、極微量の放射線スペクトルが揺らめいていた。
それは、明確な崩壊曲線を描かない──“安定放射性補酵素”の特徴だった。
彼は小声で呟いた。
「まるで……熱を食ってる」
液体が淡く光を放ち、微細な繊維が束を作る。
それは単なる有機体ではなかった。
金属イオンの再配置を示す赤外反応、炭素鎖の伸長、未知のペプチド配列。
あらゆる“既知”のバイオロジーが、そこで静かに否定されていく。
モニターの一つに、細胞内エネルギー比のグラフが映る。
一般的なATP代謝の範囲を逸脱し、別のエネルギー源──放射線起因の再結合反応──を示唆していた。
「生命活動が……放射性崩壊の再利用をしてる?」
助手が震える声を出す。
エリックは頷かず、ただ冷却槽を見続けた。
徐々に、構造が変わり始める。
光を反射する繊維状の層が幾重にも重なり、表層に脊椎様の影が現れる。
その形は、爬虫類とも魚類ともつかない。
だが確かに“意図的な設計”を感じさせる秩序を持っていた。
「サイズ変化、開始しました。──一一センチメートル、一二……一五……」
記録用カメラが連続撮影を続ける。
冷却槽の温度が上がるごとに、組織の蠢動が速くなり、液面の振動が増す。
やがて、微細な尾がゆっくりと動いた。
粘膜の内部で、青白い光が幾筋も流れていく。
「電子軌道が安定している……まるで細胞核そのものが、放射線に対して“位相適応”してる」
エリックは息を呑んだ。
計測値のすべてが、生物としての“恒常性”を示している。
彼は小さく呟く。
「これが……“The Seed of the End(終わりの種)”。
崩壊を拒み、死を定義し直す生命だ」
助手の誰も言葉を返さなかった。
ただ、ガラス越しに見つめる目の中で、“科学”が“信仰”へと変わる瞬間を、誰もが理解していた。
その時、冷却槽の奥で、尾がもう一度だけ静かに動いた。
光は一瞬、心拍のように脈打ち、再び沈黙する。
エリックは計器のログを保存し、最後に短く記した。
──“再構成体 03、安定状態に達す。以後、観察継続。”
だが彼の視線はもう、画面を見ていなかった。
ガラスの向こう、微かに開いた瞳孔の奥──そこに宿る“観測者”の意志を、確かに見た気がした。
────
──アメリカ合衆国メリーランド州 国立生物災害研究所 第三隔離観測室
二〇三一年六月二日 午後一一時五四分。
冷却槽の表面に、細かな気泡が浮かび上がる。
温度計がマイナス一二〇度からゆっくり上昇し、透明な液体の中で“それ”は、まるで眠りから覚めるように動き出した。
ロザリー03。
全長一メートル一二センチメートル。
体表は濡れた黒曜石のように滑らかで、反射光を吸い込む。
四肢はすでに完全な関節を持ち、指の先には小さな水掻きが形成されていた。
頭部は細長く、わずかに後頭部が盛り上がっている。
眼は暗く、瞳孔は存在しない。
ただ、“こちら側”を確かに見ていた。
エリック・ハドソン博士は、手元の計器に目を落とす。
「体温、安定。脈動反応、周期〇・九秒。
──代謝、完全再構成を確認」
助手が固唾を飲む。
槽内の水が僅かに濁り、ロザリーの体がゆっくりと揺れた。
筋肉反応。
尾が動き、鰓孔のような開口部から小さく気泡が吐き出される。
「エネルギー源は……やはり外部熱ではない。
内部放射の再結合反応。
生体内で核種を安定化してエネルギーに変えている……」
エリックは呟き、冷却槽の端末に指を滑らせる。
餌試料として小型魚の入ったカプセルが槽内へ投下される。
次の瞬間、ロザリーが動いた。
尾が水を切り、瞬時に魚へと突進。
顎が開く。
金属音のような咀嚼音がマイクを震わせる。
僅か三秒──魚は跡形もなく消えた。
モニターの線が跳ね上がる。
「摂食行動、確認。
代謝率、一・七倍……放射線スペクトルが安定値に戻った。
まるで“燃料補給”だ」
助手が震える声で呟いた。
エリックは何も答えず、ただ見つめる。
ロザリーは、再び動きを止めた。
だがその顔は、観察ガラスの方向を向いたままだった。
指のような前肢が、ガラスの内側にゆっくりと触れる。
その爪の先から、静電反応が走る。
「……いまの、偶然ですか?」
助手が問う。
エリックは僅かに首を振った。
「いいや。あれは“視て”いる。
記憶を持っているんだ。──ロザリー01の、捕食学習を」
ロザリーが再び口を開いた。
呼吸ではない。
その開口は、人間の咽喉のように“声”を探す仕草に見えた。
だが、何も響かない。
エリックはその光景を見つめ、静かに記録を残した。
“個体03、捕食反応および視覚認識行動を確認。
人間体温に対する熱追跡反応が出現。
本個体は明確に“哺乳類”を餌として認識している可能性が高い。”
ロザリーの瞳が、ガラス越しにわずかに光を返した。
まるで理解しているかのように──。
助手の一人が、息を呑む声を上げる。
エリックは小さく呟いた。
「……ようこそ、“終わりの種”。
私たちは、君を観測し続けよう」
その言葉に応えるように、ロザリー03はゆっくりと頭を傾けた。
尾が静かに揺れ、水面に薄い波紋が広がる。
それは心拍のように脈打ち、やがて消えていった。




