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夜の帳が落ちる






 


夜の帳が、静かに京の町を包んでいた。


 


壬生屯所の奥。

自室に戻った私は、ぽつんと一人、座布団の上に座り込んでいた。


 


沖田さんは、もう見廻りに出たはずだ。


 


……言えた。


ちゃんと、自分の口で伝えた。


 


それなのに、胸の奥は、張り詰めた糸のようにきしんでいる。


 


灯りを落とした部屋は、妙に広く感じた。

隙間風が障子を揺らす音が、やけに大きく響く。


 


ふと、膝を抱え込む。


 


一人で夜を迎えるのは、何日ぶりだろう。


 


頭では分かっている。


これは、土方さんの命令、そしてなにより迷惑をかけてはいけないと私が望んだこと。


 


なのに、心は……それに追いつけていない。


 


 


小さな震えが、体の奥から湧き上がる。


 


 


……怖い


 


 


誰もいない夜が、こんなにも怖いなんて。


 


呼吸を整えようとするけれど、胸のざわめきは収まらなかった。


 


 


もう子どもじゃないのに。


 


――それでも


 


私は、たった一人で、この夜を越えられる自信がなかった。


 


 


そのときだった。


 


 


――コン、コン。


 


静かに、戸を叩く音がした。


 


「……?」


 


誰だろう。

沖田さんじゃない。彼は今、見廻りに出ているはず。


 


そっと立ち上がり、戸口に近づく。


 


 


「月夜魅さん」


 


 


低く、優しい声が、障子越しに届いた。


 


思わず、胸が跳ねた。


 


この声は――


 


 


「……山南、さん?」


 


 


戸を開けると、そこには、静かに佇む山南さんの姿があった。


 


彼は変わらぬ穏やかな微笑みをたたえながら、静かに言った。


 


 


「……夜分にすみません」


 


そして、そっと言葉を続けた。


 


 


「私の部屋で、お茶でもいかがですか」


 


 


 


 


その瞬間、胸の奥に張り詰めていた糸が、ふっと緩む音がした気がした。


 


 


山南さんは、気遣うように私を見つめている。


けれど、その瞳の奥には、確かに――


 


静かで、けれど確かな“責任”が宿っていた。


 


 


……あぁ


 


思い出す。


 


あの夜、芹沢に襲われたあの夜。


私は、山南さんの膝の上で泣きながら眠った。


 


あの時、彼は何も言わず、ただそばにいてくれた。


 


そして、今。


――守ろうとしてくれている。


今度は、絶対に。


 


 


言葉にならない感情が、胸の奥に満ちる。



ちゃんと、分かってくれている。


 


私が、どれだけ無理をして、

どれだけ孤独に震えているか。


 


何も言わなくても、きっと、全部。

 


私は、そっと顔を上げて。


 


 


「……はい」


 


小さく頷いた。


 


 


山南さんは、穏やかに微笑み、私に道を開けるように一歩退いた。


 


私は、静かにその隣に並び――


 


夜の冷たい空気の中、肩を並べて歩き出した。


 


 


小さな光が、胸の中に灯る。


 


この夜は、ひとりじゃない。


 


たとえ、誰かに頼ることが、弱さだと言われたとしても――


 


私は、今夜だけは、

その温もりに、甘えてもいいだろうか。


 


 


夏の夜風に吹かれながら、私はそっと、心の中で問いかけた。



 


月が、夜空に浮かんでいた。


 


壬生屯所の裏手、まだ人の気配が少ない細い道を、私と山南さんは並んで歩く。


 


言葉はない。


けれど、それを気まずいとは思わなかった。


 


むしろ、この沈黙が、優しくて――


 


足元に落ちるふたつの影だけが、そっと寄り添うように揺れている。


 


 


夜の空気は、生ぬるかった。


 


それでも、少し肌寒さを感じて、肩に羽織った上掛けをぎゅっと引き寄せると、

隣を歩く山南さんが小さく気づいてくれたのか、ちらりと視線を向けてきた。


 


でも、やっぱり何も言わなかった。


 


私は、黙って首を振る。


だいじょうぶ、と。


 


言葉にしなくても、ちゃんと伝わる。


 


そんな静かな安心感が、この短い道のりに満ちていた。


 


 


――あぁ、違うんだな。


 


ふと思った。


 


“気まずさ”とは、違う。


 


ここにあるのは、きっと、

互いを尊重しようとする、

ほんの小さな、でも確かなやさしさ。


 


夜の空に、遠くから聞こえる蝉の声。

風に乗って、川の水面がわずかにざわめく音。


 


そんな夏の夜の気配に包まれながら、私は少しだけ、背筋を伸ばした。


 


 


もう、大丈夫。


ひとりでも、歩ける。


 


そう、自分に言い聞かせながら――


 


でも、本当は。


 


隣にいるこの人の温もりに、静かに救われているのだと、胸の奥で、そっと気づいていた。


 


 


やがて、山南さんの部屋の灯りが、夜の闇にぽうっと浮かび上がった。


 


小さな、けれど確かな、帰る場所の光だった。





 


山南さんの部屋にたどり着いたとき、

戸の向こうから、ふわりと温かい空気が漏れてきた。


 


山南さんは、無言で戸を開ける。


私は、そっとその後に続いた。


 


 


部屋の中は、相変わらずきちんと整っていた。


机の上には、束ねられた文書。


角にきれいに畳まれた羽織。


そして――


 


ふたつ並んだ、布団。


 


 


私は、思わず立ち止まった。


 


 


布団が、ふたつ。


それも、自然に。


何の説明もなく、あたりまえのように。


 


 


――気づいてくれてたんだ


 


 


今日、私が、どんな気持ちで夜を迎えたか。


本当は、どれだけ無理をして笑っていたか。


 


全部、分かってくれていたのだと思った。


 


 


じわりと、胸が熱くなる。


 


あたたかいものが、心の中に、静かに満ちていく。


 


 


「……どうぞ。好きな場所に」


 


山南さんが、そっと声をかけてくれる。


 


私は、小さく頷き、控えめに部屋の隅の布団に腰を下ろした。


 


 


その間に、山南さんは手際よく湯を沸かし始める。


小さな火鉢に、手慣れた仕草で鉄瓶をかけた。


 


 


「眠くなったら、いつでも休んでくださいね」


 


そう言いながら、湯気を立てる鉄瓶に目を落とす山南さん。


その横顔は、どこまでも穏やかで――


私の心を、そっとほどいていく。


 


 


私は、部屋を見渡した。


 


きれいに整えられた机。


片隅に積まれた書類。


 


そして、あの夜。


 


――あの夜、私はここで


 


膝の上で泣いて、眠った。


 


 


その記憶が、胸の奥からふわりと浮かび上がる。


 


懐かしいような、痛いような、くすぐったいような――


 


そんな感情が、胸の内側をそっと撫でた。


 


 


私は、そっと膝を抱えた。


 


この人は、あの夜から、何も変わらない。


 


無理に踏み込まず。


無理に慰めず。


 


ただ、ここに居てくれる。


 


 


だから――


 


私は、今夜も、

この静かな温もりに、救われるのだろう。


 


夏の夜風が、障子をやさしく揺らした。


 


鉄瓶から立ち上る湯気が、ゆらゆらと揺れる。


 


その柔らかな空気の中、私は、そっとまぶたを閉じた。





 


ぽこぽこと、鉄瓶の中で湯が踊る音。


 


湯気が立ち上る。


その向こう側で、山南さんが茶器を静かに並べていた。


 


無駄のない動き。


小さな音も、ひとつひとつがとても静かで――


 


その音を聞いているだけで、心のざわめきが、ほんの少し和らいでいく。


 


 


「お待たせしました」


 


ふわりと立ちのぼる湯気越しに、山南さんの声。


 


私は、座布団の上で膝を正し、そっと頭を下げる。


 


「ありがとうございます」


 


 


受け取った茶碗は、じんわりと温かかった。


 


掌に伝わるぬくもりに、思わず指先をぎゅっと包み込む。


 


 


二人、向かい合って座る。


でも、目は合わせない。


 


ただ、湯気の向こう、互いの存在を感じながら。


 


 


「……今日の夕餉、どうでしたか?」


 


山南さんが、穏やかに問いかけた。


 


 


私は、少し考えてから、ぽつりと答える。


 


 


「……そうですね。少し、賑やかでした」


 


 


そう。


屯所の空気は、どこか浮き足立っていた。


 



会津藩の命令による任務。

会津藩との繋がり。


 

噂が噂を呼んで

誰もが期待と不安で、胸を膨らませていた。


 


 


「皆さん、少し……浮かれていましたね」


 


私がそう言うと、山南さんはふっと目を細めて、茶碗に視線を落とした。


 


 


「無理もありません」


 


 


「……はい」


 


短い返事をしながら、私はそっと山南さんの顔を伺う。


 


彼もまた、表には出さないだけで、

きっとたくさんの責任を背負っているのだろう。


 


 


静かな時間が流れる。


 


湯気が、柔らかく二人の間を漂っている。


 


 


でも、分かっていた。


 


――本当は、これだけじゃない。


 


互いに、もっと別のことを考えている。


 


互いに、きっと。


 


 


私は、そっと茶碗を置く。


少しだけ、息を吐く。


 


そして、勇気を出して、口を開いた。


 


 


「……私、朝……」


 


 


ぽつり。


声が自然に漏れる。


 


 


「朝……?」


 


 


山南さんが、静かに促す。


 


 


私は、うまく言葉を続けられずにいた。


 


朝、沖田さんに「もう夜は来なくていい」と伝えたこと。


 


それで、今こうして一人になったこと。


 


 


でも。


 


不思議だった。


 


 


――孤独じゃなかった。


 


こうして、誰かがそばにいてくれるだけで。


 


たとえ、何も言わなくても。


たとえ、そっと寄り添うだけでも。


 


私は、救われるのだと知った。


 


 


だから、言わなくていい。


 


今は、ただ――


この静かな夜に、身を委ねたかった。


 


 


私は、小さく首を振る。


 


「……なんでも、ありません」


 


 


山南さんは、それ以上何も問わなかった。


 


ただ、優しい目で、私を見ていた。


 


 


その沈黙が、心地よかった。


 


無理に踏み込んでこない優しさ。


 


それは、きっと、どんな言葉よりも――あたたかい。


 


 


私は、そっと微笑んだ。


 


そして、もう一度、茶碗を両手で包み込んだ。


 


温かさが、掌から、胸へと広がっていく。


 


 


静かな夜。


 


淡い湯気の向こうで、

ふたりの時間だけが、静かに流れていった。






 


鉄瓶から立ちのぼる湯気が、ふわふわと揺れていた。


 


私は、そっと茶を啜った。


 


熱すぎず、ぬるすぎず――


湿った夜気にちょうど馴染む、そんな温度だった。


 


だけど、胸の奥には、ぴりぴりとした小さな緊張が残っていた。


 


 


「……月夜魅さん」


 


 


ふいに、山南さんが、ぽつりと私の名前を呼ぶ。


 


私は、そっと顔を上げた。


 


 


彼は、まっすぐに私を見ていた。


優しいけれど、決して甘くはない眼差しで。


 


 


「……ひとりの夜は、大丈夫ですか」


 


 


静かな問いだった。


 


けれど、胸に落ちると、まるで水面に小石を落とされたみたいに、

じわじわと波紋が広がっていく。


 


 


私は、咄嗟に言葉を探した。


 


 


「……はい」


 


 


それは、反射だった。


心がついてこないまま、口が先に動いた。


 


 


「そう、ですか」


 


 


山南さんは、それ以上は何も言わない。


 


 


私は、俯いた。


 


 


――嘘だ


 


 


本当は、怖い。


ひとりで迎える夜なんて、まだ、耐えられそうになかった。


 


でも。


 


でも、だからこそ、言えなかった。


 


 


これ以上、誰かに迷惑をかけたくない。


誰かの時間を、私のために奪いたくない。


 


そんな思いが、喉元に絡みついて、言葉を押し殺していた。


 


 


静かな沈黙が、夜の空気に溶けていく。


 


でも、その沈黙は、けっして重苦しくはなかった。


 


 


――この人は、無理に踏み込んでこない。


 


ただ、そこにいてくれる。


 


そんな、静かな優しさ。


 


私は、そっと顔を上げた。


 


 


山南さんは、湯気越しに、穏やかな目をしていた。


けれど、責めるような色はどこにもない。


 


ただ、静かに、ただそこに――


 


 


「……月夜魅さん」


 


 


また、そっと名前を呼ばれる。


 


私は、ぴくりと肩を震わせた。


 


 


「眠くなったら、遠慮なく言ってくださいね」


 


 


ふわりと、そんな言葉を落とす。


 


それは、命令でも、指示でもない。


 


ただ、ひとりの人間として、

私の疲れを気遣うような、夏の夜風のようにやさしい声だった。


 


 


私は、こくりと頷いた。


 


そしてまた、茶を啜る。


 


 


鉄瓶から立ち上る湯気が、ぼんやりと、

蒸し暑い空気の中に溶けていく。


 


その向こうで、山南さんが、微笑んだ気がした。


 


 


この人は、私を“鬼”として見ていない。


“異形”として扱っていない。


 


たったそれだけのことが、どれほど救いになるのか――


 


私は、身に沁みて感じていた。


 


 


静かな夏の夜。


 


静かな時間。


 


言葉もなく、ただ湯気と温もりの中で、

私たちはそっと、同じ夜を過ごしていた。




 


火鉢の中で、炭がぱちり、と小さく弾けた。


 


その音に、私ははっと我に返る。


 


 


山南さんは、変わらず静かに座り、手元の文机に向かっていた。


 


筆をとり、さらさらと文字を綴っている。


 


小気味よく走る筆先の音だけが、部屋の中に穏やかに響いていた。


 


 


私は、膝の上で両手を重ねたまま、

その静かな光景をそっと見つめていた。


 


 


……邪魔しちゃ、だめ


 


そう思いながらも、どこか心が緩んでいく。


 


 


不思議だった。


 


誰かと一緒にいるのに、こんなにも静かで、こんなにも落ち着けるなんて。


 


 


私は、目を閉じた。


 


 


思い出すのは、あの夜。


 


芹沢に怯え、心が壊れそうになった私を、

この人は、無言で、受け止めてくれた。


 


 


あのときと、同じだ。


 


言葉はいらない。


 


ただ、隣にいてくれるだけで――


 


 


……あたたかい


 


 


胸の奥に、じんわりと染み渡るような温もりが広がった。


 


 


小さく息を吐くと、山南さんが筆を止め、ふとこちらを見た。


 


「……疲れましたか?」


 


やわらかな声。


 


私は、慌てて首を振った。


 


「いえ……大丈夫です」


 


 


すると、山南さんは、少しだけ笑って言った。


 


「無理は、禁物ですよ」


 


 


その何気ない言葉に、また胸がちくりと痛む。


 


 


……無理、してるの、分かってるんだ


 


 


それでも、責めない。


 


ただ、そっと気遣うだけ。


 


 


私は、言葉にできない何かを飲み込むようにして、

湯呑みをもう一度、手に取った。


 


冷めかけたお茶が、ほろ苦かった。


 


 


「……月夜魅さん」


 


ふいに、山南さんが声をかけた。


 


顔を上げると、彼は少しだけ真剣な表情で私を見ていた。


 


 


「今日、炊事場で少し話していましたよね」


 


「……はい」


 


 


朝のことを思い出す。


 


沖田さんのことで、山南さんと交わした、あの短い会話。


 


 


「実は、あのとき」


 


山南さんは、筆を置き、静かに続けた。


 


「あなたに、伝えたかったことがもうひとつ、ありました」


 


 


私は、思わず背筋を伸ばす。


 


 


山南さんは、炭火を見つめるようにしながら、

穏やかな声で言った。


 


 


「これから、壬生浪士組は、大きな仕事に取り掛かることになります」


 


 


――会津藩


 


 


土方さんの部屋で、見たあの文書を思い出す。


 


 


「夕餉の支度中、皆さんが噂していた……あの話、ですか?」


 


 


私の問いに、山南さんは優しく頷いた。


 


「ええ。……月夜魅さんには、特別にお伝えします」


 


 


その言葉に、胸が熱くなる。


 


“特別”


 


そう言って、情報を共有してくれる。


私を、ただの“鬼”ではなく――


ここで共に生きる、仲間のひとりとして見てくれている。


 


 


「……ありがとうございます」


 


小さく呟くと、山南さんは微笑んだ。


 


 


私は、静かに耳を澄ませた。


 


 


夜は更けていく。


でも、今だけは。


 


この小さな部屋の中に、

私たちだけの、優しい時間が流れていた。







 


炭のはぜる音が、またひとつ小さく弾けた。


 


 


「……実は、今、壬生浪士組に、会津藩から依頼が来ています」


 


その言葉に、私は息を呑んだ。


 


「会津藩……」


 


思わず、胸が高鳴る。


 


土方さんの部屋で、ちらりと見た書状の文字が脳裏に蘇る。


 


「具体的には、御所警備と、攘夷派の動向監視です」


 


山南さんは、静かに続けた。


 


「最近、尊攘派の動きがあまりにも激しくなっていましてね。

特に、長州藩を中心とした攘夷志士たちが、御所周辺を狙っている。

会津藩としても、幕府の威信を保つため、力を貸して欲しいというわけです」


 


炭火を見つめながら、穏やかに語るその横顔は、どこまでも冷静だった。


 


「この任務は、壬生浪士組にとっても、大きな節目になります。

ただの市中警備隊ではなく、幕府直属の精鋭として、公に認められるかもしれない――そういう重大な役目です」


 


私は、ぎゅっと膝の上の布を握った。


 


壬生浪士組が――壬生浪士組の人たちが――


大きな時代のうねりの中へ、確かに足を踏み入れようとしているのを、ひしひしと感じた。


 


 


……こんな大事な話を、私に


 


 


土方さんは、ただ「掃除を続けろ」とだけ言った。


情報を伝えるどころか、まるで“部外者”扱いだった。


 


でも――


 


山南さんは、違う。


 


ちゃんと、“私”に語りかけてくれている。


 


まるで、最初から仲間だと信じてくれているかのように。


 


 


胸が、熱くなった。


 


 


「……壬生浪士組にとっても、節目になる仕事です。

月夜魅さんにも、無関係なことではない」


 


穏やかな声。


でも、その中には、はっきりとした信頼が滲んでいた。


 


 


私は、堪えきれずに、そっと口を開いた。


 


 


「……私も、力になれますか?」


 


 


自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。


 


山南さんは、静かに、そして優しく微笑んだ。


 


 


「もちろんです」


 


 


たったひと言。


けれど、その言葉が、心の奥底にじんわりと広がっていった。


 


 


私は、湯呑みを両手で包み込んだまま、静かに目を伏せた。


 


 


……この人に、心を許してしまいそう


 


 


あの日、誰にも頼れなかった私に、手を差し伸べてくれた人。


 


今もこうして、特別扱いするでもなく、腫れ物のように扱うでもなく。


 


“私”を、ちゃんとここに存在するひとりの人間として、受け止めてくれる。


 


 


怖いと思ったこともあった。


疑ったこともあった。


 


でも今は――


 


 


……この静かな夜に溶けるように。


私の心も、ゆっくりと、彼に寄り添っていくのを感じた。


 


 


私は、胸がきゅっと締め付けられるのを感じながら、小さく頭を下げた。


 


「……ありがとうございます」


 


本当に。


本当に、心から。


 


 


ふと顔を上げると、山南さんは、変わらず穏やかな目で私を見つめていた。


 


何も押し付けず。


ただ、そっと、そこにいてくれる。


 


 


私は、鬼だ。


人間たちの戦に巻き込まれ、ただ生き延びるだけの存在。


 


甘える資格なんて、あるはずがない。


 


 


それでも。


 


今夜だけは――


 


少しだけ、この温もりに、すがってもいいだろうか。


 


 


蒸し暑い夏の夜。


 


火鉢の炭が、またひとつ、ぱちりと小さな音を立てて弾けた。


 


その微かな音だけが、しんと静まり返った部屋の空気を、やさしく揺らしていた。



 


炭火のぱちり、という音だけが、部屋の中に細く続いていた。


 


私は、湯呑みを両手で包んだまま、じっと座っていた。


 


山南さんは、筆を置き、今は静かにお茶を飲んでいる。


 


 


言葉はない。


だけど、気まずさなんて、少しもなかった。


 


……不思議だな


 


こんなに静かなのに、苦しくない。


隣に誰かがいるだけで、こんなにも心が安らぐなんて。


 


 


ふと、顔を上げると、山南さんがこちらを見ていた。


目が合った。


 


でも彼は、何も言わない。


ただ、にこりともせず――でも、やわらかく、私を受け止めるような目をしていた。


 


 


私は、何も言えなくなって、視線をそらした。


 


胸の奥で、音もなく、何かが小さく跳ねる。


 


 


「……眠くなったら、遠慮なく横になってくださいね」


 


ふいに、やさしい声が落ちた。


 


私は、はっとして顔を上げた。


 


「……でも、山南さんは?」


 


私が問うと、山南さんはふっと微笑んだ。


 


「僕は、大丈夫です」


 


湯呑みを置きながら、静かに続ける。


 


「明日の幹部会議の資料をまとめておかないといけないので」


 



「……眠らないおつもりですか」


 


私がそっと言うと、山南さんは目を細め、優しく微笑んだ。


 


 


「いえ、まとまったら私も眠りにつきますよ」


 


 


そして。


 


「……これは、月夜魅さんにだけ、特別にお話ししたことですよ」


 


 


さらりと、そんなふうに言う。


 


まるで、特別だと気負うこともなく。


 


 


私は、胸がぎゅっとなった。


 


 


“特別”なんて、そんなふうに言われたのは、初めてだった。


 


 


言葉にできない感情が、また静かに胸に満ちていく。


 


 


山南さんは、筆を手に取り、再び文机に向かう。


 


さらさらと、静かな筆の音。


 


 


私は、火鉢の赤い炭を見つめながら、そっと膝を抱えた。


 


生ぬるい夏の夜気が、障子の隙間から入り込み、湿った風が頬を撫でる。


 


でも、火鉢のぬくもりは、それとは違う。


 


じんわりと、確かに、身体の芯からあたためてくれる。


 


 


……大丈夫


 


今日だけは、きっと大丈夫。


 


この温もりがあるから。


 


 


私は、そっと目を閉じた。


 


まぶたの裏に浮かぶのは――


あの夜、膝の上で泣いていた自分ではない。


 


ただ静かに。


誰かと寄り添いながら、夏の夜を越えようとする、自分だった。


 


 


──ぱちり。


 


またひとつ、炭火が弾ける音が、優しく夜に溶けていった。






 


炭火が、かすかに色を変える。


ぱちり、ぱちりと弾ける音が、耳の奥に染み込んでいった。


 


 


私は、火鉢の前で膝を抱えたまま、しばらくじっとしていた。


 


目を閉じれば、山南さんの筆の音。


静かで、一定のリズムを刻みながら――

まるで子守唄のように、心をなだめてくれる。


 


 


こんな夜が、ずっと続けばいい。


 


ふと、そんなことを思ってしまった。


 


 


孤独でも恐怖でもない、ただ静かで、温かな夜。


それを隣に感じながら、心から安らげる夜。


 


 


……贅沢、だな


 


 


自嘲するように小さく笑った。


私は鬼だ。


本当は、こうして誰かと隣り合って過ごせること自体、許されない身なのに。


 


それでも――


 


今だけは、許してほしい。


この小さな安らぎに、少しだけ、身を委ねることを。


 


 


筆を走らせる音が、ふと止んだ。


 


 


「……月夜魅さん」


 


呼ばれて、そっと顔を上げる。


 


 


山南さんは、変わらない穏やかな表情で、私を見ていた。


 


 


「もう、夜も更けました」


 


静かな声でそう言うと、彼はゆっくりと立ち上がった。


 


 


「そろそろ、休みましょう」


 


 


私は、少しだけ迷った。


もっと、こうしていたかった。


まだ、胸の奥には、手放したくない温もりがあった。


 


でも――


 


それ以上、わがままは言えなかった。


 


 


「……はい」


 


小さく頷くと、山南さんはにこりと微笑んだ。


 


「では、布団をご用意しますね」


 


 


彼は、隣に並べていた二組の布団を、手際よく整えた。


 


まるで、最初からこの夜を用意してくれていたかのように。


 


 


私は、その様子をぼんやりと見つめながら、

心の奥で、またひとつ小さな灯が灯るのを感じた。


 


 


――ありがとう、山南さん


 


言葉にはしなかったけれど。


 


 


私は、そっと布団に体を滑り込ませた。


 


柔らかな温もりが、肌に触れる。


 


 


……大丈夫


 


 


小さく息を吐いた。


 


夜の冷たさに震えることもない。


孤独に潰されることもない。


 


 


私は、静かに目を閉じた。


 


隣では、山南さんが文机に向かい直し、また筆を走らせ始める気配がした。


 


 


炭火の温もりと、筆の音。


 


ただそれだけの夜が、こんなにも優しい。


 


 


私は、いつの間にか、そっと眠りに落ちていた。





 


――カサ、カサ。


 


何かが揺れる小さな音で、私は目を覚ました。


 


薄明かりの中、天井がぼんやりと見える。


 


 


……あれ


 


頭がまだぼんやりする。


でも、すぐに思い出した。


 


私は今、山南さんの部屋にいるんだ――と。


 


 


静かに体を起こすと、隣の布団はきれいなままだった。


 


山南さんは、夜通し、あの文机に向かっていたらしい。


 


 


私は、そっと顔を向ける。


 


 


そこにいた。


 


文机にもたれるようにして、山南さんが静かに眠っていた。


 


 


灯された蝋燭は、もう細く頼りない炎になりながらも、まだゆらゆらと揺れている。


 


夏の夜明け前、窓の外では早くも蝉の声がかすかに聞こえ始めていた。


 


その薄青い空気の中、山南さんの寝顔は、いつもより少しだけ幼く、静かだった。


 


 


……山南さん


 


 


胸の奥が、きゅうっとなる。


 


こんなにも穏やかな寝顔を見たのは、きっと初めてだった。


 


 


手元には、夜中に書き続けたらしい書状や記録が山積みになっている。


 


こんなにも、自分を犠牲にして働いている。


誰に知られることもなく、誰に褒められるわけでもなく。


 


それでも、黙々と――


 


 


私は、そっと立ち上がった。


蒸し暑さをはらんだ夏の夜気の中、足音を忍ばせて、部屋の隅に置いてあった薄手の毛布を手に取る。


 


 


そして、静かに、静かに。


 


山南さんの肩に、ふわりとそれを掛けた。


 


 


――カサ。


 


毛布の端が揺れる音。


 


でも、山南さんは目を覚まさなかった。


 


深い、深い眠りの中で、静かに呼吸を続けている。


 


 


私は、ほんの少しだけ微笑んだ。


 


 


……守られてばかりじゃ、いられない


 


心の奥で、そっと呟く。


 


この人が、ここまで私たちのために背負ってくれているのなら――


 


私も、何かできるようになりたい。


 


 


たとえ小さなことでも。


たとえ誰にも気づかれなくても。


 


 


山南さんに、壬生浪士組に――


ここにいる、みんなに。


 


 


私は、そっと布団へ戻った。


そして、再び静かに目を閉じる。


 


 


薄明るい空の下、障子の向こうでは、蝉が本格的に鳴き始めていた。


 


夏の朝が、静かに、でも確かに、始まろうとしていた。






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