重ならない影
夏の風が、ジメジメと肌を取り巻く。
沖田さんと並んで歩く道のり。
土方さんの部屋を出てから、今は二人きり。
けれど、どうしてだろう。
この静けさが、少しだけ苦しかった。
「……月夜魅さん」
ぽつりと、沖田さんが声を落とす。
「うん?」
私が応えると、沖田さんはほんの少しだけ、歩幅を落とした。
「稽古、って言ったけど……」
「……?」
「僕が稽古してるの、横で見ててくれるだけでいいからね」
ふわっと笑いながら、そう言った。
私は一瞬きょとんとして、それから、ほっと胸を撫で下ろした。
……よかった。
“付き合う”という言葉に、ほんの少し緊張していた。
手合わせでもするのかと、どこか身構えていたから。
「それなら、私でも……」
静かに答えると、沖田さんは嬉しそうに微笑んだ。
けれどその横顔は、どこか遠いところを見ているようにも見えた。
……沖田さんは、何を考えているんだろう
胸の奥に、小さなざわめきが生まれる。
……でも、
私は、伝えなきゃいけない。
夜に言うつもりだった嘘。
「もう、沖田さんがいなくても、眠れる」という嘘を。
きゅっと、袖口を握りしめる。
上手く、言えるだろうか。
この空気を壊さずに、笑って。
嘘を、本当みたいに、言えるだろうか――
そんなことを考えながら、私は沖田さんの少し後ろを歩いた。
やがて、稽古場に辿り着く。
朝の稽古が終わった後らしく、広い庭の隅にはまだ数人の隊士たちが談笑していた。
沖田さんは、にこやかに手を振って、
「お疲れ様〜」
と声をかける。
そして、竹刀を手に取りながら、ちらりと私を振り返った。
「じゃあ、始めるね」
まるで、何でもないことのように、屈託なく。
私は、静かに頷いて、近くの縁側に腰を下ろした。
熱が籠った夏風が吹き抜ける。
その中で、沖田さんは、刀を振る。
――まるで、舞うように
柔らかく、しなやかで。
けれど、その一振り一振りには、鋭く研ぎ澄まされた“本物”の刃があった。
私は、ただ黙って、その姿を見つめた。
けれど――
沖田さんもまた、ちらちらと、こちらを気にしているのが分かった。
振りかぶった腕を止めると、ふと、何気ない顔で尋ねる。
「……月夜魅さんってさ」
「はい?」
「鬼の戦い方って、どんな感じなの?」
――
心臓が、びくりと跳ねた。
予想もしなかった言葉に
私は、そっと唇を噛んだ。
沖田さんは、何気ないふりをしているけれど――
その目は、真剣だった。
鬼の力。
鬼の戦い方。
それを、知りたい。
でも、私を傷つけないように、そっと触れようとしている。
……優しい人だ
だけど、それが余計に苦しかった。
私は、そっと呼吸を整えながら、返事を探していた。
沖田さんの竹刀が、さらりと空を裂く音。
その音だけが、静かに耳に残る。
私は、膝の上に手を重ねたまま、言葉を探していた。
"鬼の戦い方って、どんな感じ?"
その問いかけは、悪気のない、純粋な興味からだった。
分かってる。
分かっているのに。
……心臓が、少しだけ痛い。
私はそっと視線を落とし、乾いた縁側の板を見つめる。
やがて、静かに、口を開いた。
「……鬼は、基本、刀は使いません」
沖田さんの動きが、わずかに止まる。
「そうなの?」
私は、小さく頷いた。
「牙や爪……あるいは、力任せに……」
そこまで言って、ふと、言葉を濁す。
“力任せに人を裂く”
“血を浴びる”
“肉を噛み千切る”
そんな生々しい言葉を、口にすることが怖かった。
私は、ぎゅっと膝の上の手を握った。
「……けれど、人の中で生きるときは、刀を使うこともあります」
なんとか、そう締めくくった。
沖田さんは、静かに私の言葉を受け止めるように、黙って頷いた。
……それだけだった
質問を重ねるでもなく、哀れむでもなく。
ただ、当たり前のように、聞いたことをそのまま胸にしまうような顔。
それが、少しだけ、嬉しかった。
けれど――
沖田さんは、竹刀をくるりと回しながら、ふわっと笑った。
「じゃあ、月夜魅さんは?」
「……え?」
「どっちが得意なの?」
冗談めかした口調。
でも、目は、また少しだけ、真剣だった。
私は、短く息を吸い、答えた。
「……どちらも、得意ではありません」
正直な言葉だった。
力で押すのも、刀を振るうのも。
どちらも、私は好きじゃなかった。
沖田さんは、竹刀を肩に担ぎながら、ふっと目を細めた。
「そっか」
そして、子どもみたいに、いたずらっぽく笑った。
「――なら、強くなろうよ」
その声は、どこまでも軽くて、どこまでも優しかった。
「僕が、教えるから」
……心臓が、ぎゅうっと締め付けられる。
夏の空は高く澄んでいて。
目の前の人は、こんなにもまっすぐで。
私は、返事をすることができなかった。
ただ、胸の奥で、何かが震えているのを、必死で押し込めた。
沖田さんは、何も急かさず、ただ静かに私を待ってくれていた。
稽古場の隅、静かに竹刀を手放した沖田さんが、こちらに歩み寄ってくる。
私は、ぐっと拳を握りしめた。
いま、言わなきゃ。
夜まで待つつもりだった言葉を――ここで。
「……沖田さん」
意を決して、声をかける。
沖田さんは、少しだけ首をかしげて、優しい目で私を見た。
「ん?」
その何気ない仕草に、胸がきゅっと痛む。
でも、躊躇ってはいけない。
私は、唇を結び、勇気を振り絞る。
「私……」
震える声。
けれど、言葉を紡ごうとしたその瞬間だった。
「――今日はさ」
沖田さんが、ふっと笑った。
「夜、月見しようよ」
その笑顔は、あまりにも自然で、優しくて。
私は、一瞬、息を呑んだ。
……気づかれてる
私が何か言おうとしたことに。
でも、沖田さんは、あえてそれを聞かなかった。
聞かずに、ただ、この空気を守ろうとした。
……でも、だめだよ
私は、ぎゅっと手のひらに爪を立てた。
自分を叱るように。
こんな優しさに甘えちゃいけない。
だから。
「……沖田さん」
もう一度、声を出す。
沖田さんの笑顔が、ふっと揺れた。
でも、私は続けた。
「……もう、大丈夫です」
小さな、小さな声だった。
でも、それでも。
「だから……もう、夜は……来なくて大丈夫です」
やっと、言えた。
沖田さんは、わずかに目を見開いた。
ほんの一瞬だけ。
でも、すぐに――
ふわりと、いつものように笑った。
「……そっか」
柔らかく、優しく。
まるで、最初から分かっていたかのように。
私は、心の奥がじんわりと痛むのを感じた。
ああ、やっぱりこの人は、優しい。
こんな嘘だって、きっと全部分かったうえで、受け止めてくれる。
だからこそ、苦しかった。
沖田さんは、空を見上げる。
夏の空は、どこまでも高く、青かった。
「じゃあ……」
少しだけ、名残惜しそうに。
でも、軽やかに。
「今日はちゃんと、見廻り行くよ」
私は、頷いた。
それしか、できなかった。
「……はい」
本当は、喉が詰まってうまく声にならなかった。
けれど、それでも。
私は、笑った。
そんな私に沖田さんは、にこりと笑って、軽く手を振った。
「じゃあ夜に向けて隊士たちにきつい稽古つけてこようかな」
それだけを言って、くるりと踵を返す。
そして、夏の風の中に、軽やかに溶けていった。
残された私は、静かに目を閉じた。
――これでいい
そう、思った。
思おうとした。
でも。
胸の奥は、ずっと、苦しかった。
吹き抜ける風が、乾いた洗濯物を揺らしていた。
その音だけが、やけに耳に刺さった。
私は、そっと拳を握りしめる。
誰にも、悟られないように。
ひとり、静かに、胸の痛みを抱えたまま。
ただ、空を見上げた。
夏の、どこまでも高い空を。
朝。
沖田さんに「もう夜は来なくていい」と伝えた後――
私は、いつも通り、屯所の掃除に取りかかった。
縁側を拭き、廊下に積もった埃を払い、食器を整え、薪を割る。
そんな単純な作業なのに、指先に力が入りすぎて、何度も箒を取り落としそうになった。
心の中では、ずっと同じ思いがループしていた。
……私、わがままだったかもしれない
……あんなふうに言わなくてもよかったかもしれない
……沖田さんは、きっと、私を助けようとしてくれていただけなのに
ぐるぐると、答えのない後悔が巡る。
昼には、山南さんと一緒に、夕餉の支度をした。
「月夜魅さん、茄子を少し炙ってください」
「はい」
淡々と交わされる言葉。
山南さんは、いつも通りだった。
優しく、穏やかに。
でも、それが余計に胸に響いた。
こんなふうに普通に振る舞ってくれる人たちの中で、
私はたった一人、心を曇らせている気がして、つらかった。
夏の陽は、どんどん傾いていった。
赤く染まる空の下、屯所の中はどこか浮き立った空気に包まれている。
会津藩からの要請があった噂が、隊士たちの間に流れ始めていたからだ。
皆が未来に向かって歩き始めているのに。
私だけが、同じ場所に立ち尽くしているような――そんな感覚。
そして、夜。
陽の光が落ちて湿った空気だけが頬を撫でるころ。
私は、ひとり、小さな部屋の隅で膝を抱えていた。
隣に誰もいない夜。
こんなにも、広く、こんなにも、静かだなんて。
震える指先を隠すように、私は膝に顔を埋めた。
……これでよかったんだ
自分に言い聞かせても、
心細さは、心の奥まで滲み込んでくるばかりだった。