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静かなる日常の狭間で



 


土方さんの監視下に置かれるようになって、数日が経った。


 


といっても、四六時中張り付かれているわけではない。


「副長としての任務が忙しい」という理由だろうか。

会話も、日に数度、必要最低限。


 


「茶を淹れて部屋まで持ってこい」

「この書類をまとめておけ」


 


それだけ。

そして、用が済めば、さっさと背を向けて去っていく。


 


……それでも、私のことを“見ている”のは感じる。


 


土方さんの視線は、あからさまではないけれど、隙のない気配がある。


斬ることも、生かすことも、あの人にとっては“選択”なのだ。

その“選択の材料”として、私は毎日見極められている。


 


怖くはない。


けれど時々、心の奥がじりじりと焦げつくような感覚になる。


何かが焼けて、煙になって、誰にも見えないまま消えていくみたいに。


 


 


朝と夕の支度は、変わらず山南さんと。


必要な会話を交わすだけ。


あの夜以来、山南さんの距離は一歩だけ遠くなった気がする。


気のせいかもしれない。

でも、あの夜のぬくもりを思い出そうとするたび――どこかに“線”を引かれたような気がした。


 


 


「……月夜魅さん、これ、拭いてもらえますか?」


 


朝の炊事場。山南さんの柔らかな声が、湯気の奥から届く。


彼は袖をまくり、手早く椀を洗いながらも、口調はどこまでも穏やかだった。


 


「はい」


私は桶の縁に布を浸しながら返事をして、丁寧に器の水気を拭き取る。


この手元の小さな作業が、今の私にとって唯一“落ち着ける時間”なのかもしれない。


 


静かで、穏やかで、湯気の温度が肌にやさしい――


それだけで、胸の奥のざらつきが和らいでいくような気がした。


 


「最近は、少し顔色がいいですね」


 


山南さんは、洗った器を静かに並べながら、ふっと目を細めた。


 


「そう……ですね」


 


思ったよりも素っ気なく返してしまったような気がして、

私はそっと彼の顔をうかがった。


けれど、彼は変わらぬ笑みを浮かべたまま、こちらを見ていた。


 


「沖田くん、最近元気ですか?」


 


……どうしてそれを、私に尋ねるのだろう。


 


「……最近、彼に対しての苦情がたくさん来ていましてね。私も困っているんです」


 


「苦情……?」


 


思いもよらない言葉に、器を拭く手がぴたりと止まった。


 


「沖田くん、最近はあなたの部屋で毎晩眠っているでしょう。……不思議に思いませんか? 彼が夜の見廻りに行かなくなったこと」


 


「そういえば……」


 


思い返してみれば、確かに。


以前は不定期に布団を持ち込んでいた彼が、今では私の部屋にそれを敷いたまま、夜になると当たり前のように帰ってくる。


まるでそれが、日常の一部であるかのように。


 


「……見廻りは、他の方が?」


 


「はい。永倉くんや平助くんに、うまく押し付けてるようですよ」


 


山南さんの声には、苦笑がにじんでいた。


怒っているわけでも、呆れているわけでもない。

ただ、静かに“事実”を伝える声音。


 


「私は、“情”を否定しようとは思いません。

でもそれが、“目”を曇らせることもある」


 


その言葉の奥に、ほんの少しだけ“重さ”があった。


思わず、私は彼の目を見つめる。


でも山南さんは、ただ変わらぬ穏やかさで――私を見ていた。


 


「沖田くんは……とても、優しい人ですから」


 


やわらかいけれど、どこか“距離を保つような口調”だった。


まるでそれ以上、踏み込まないという意志のように感じた。


 


……違う


 


そう思った。


“線を引かれた”のではない。


“私たちの間にある距離”を、山南さん自身がきちんと保とうとしてくれている。


 


そう思ったら、胸の奥がちくりと痛んだ。


 


「……私、迷惑……なんでしょうか」


 


ぽつりと、思わずこぼれたその言葉に、山南さんは目を瞬いた。


そして、静かに――けれど確かに優しく、言葉を返した。


 


「月夜魅さんが、誰かの“隣”で心安らかに眠れることを……私は、とても良いことだと思っています」


 


その声を聞いて、少しだけ――心の奥がほどけた気がした。


 


けれどその“やさしさ”の奥には、

やはりどこか、決して踏み込ませない“距離”のようなものがあった。


 


湯気の向こうの山南さんは、どこまでも穏やかで。


でもそれは、“誰に対しても向けられる優しさ”なのかもしれないと、ふと感じた――





 




あの日、あの夜。


芹沢は、確かに恐ろしかった。


でも、それ以上に――


 


山南さんの膝の上は、あたたかかった。


 


心地よかった。


優しかった。


 


もう幼子でもないのに、涙が止まらなくて。


その温もりに、ただただ甘えて、そのまま朝を迎えてしまった。


 


“誰かの隣で、心安らかに眠れることを……”


 


山南さんは、そう言った。


けれど。


 


――私は


 


私の気持ちは、もっと矛盾している。


 


怖かったはずなのに。


助けてくれた人だから……そんな単純なものではない。


あの夜が、ここで過ごしたどの夜よりも、安らかだった。


まるで、胸の奥に、ぽつんと焚き火が灯ったような。


 


そんな感覚に、私はまだ戸惑っていた。


もし我儘を言っても許されるのであれば。

山南さんが言う、その“誰か”は――



何か物言いたげな私の視線に気付いた山南さんと、目が合う。

 




「……さて、朝の支度は終わりました」



「月夜魅さんは、洗濯物に取り掛かってください。私は、副長助勤としての仕事に戻ります」


 


何か言いかけたように見えた山南さんだったけれど――


 


すぐに視線を外し、濡れた手を拭きながら炊事場を出て行ってしまった。


 


その背中を、私はただ、見送ることしかできなかった。


 


 


――寂しい


 


自分でも、そんな感情を持ってしまったことに驚きながら。


急ぐように桶を抱えて、洗濯場へ向かった。


 



――――――――




 


「……あ、鬼の子」


 


パタパタと洗濯物を広げていた私の背後から、

気安い声が飛んできた。


 


この遠慮も気遣いもない呼び方――


 


「永倉さん、なんの用ですか」


 


振り返れば、案の定。


 


上半身裸で、肩に手拭いをかけた永倉新八が、立っていた。


 


永倉さんとは、洗濯の合間に、こうしてたまに言葉を交わす。


必要以上に馴れ馴れしいけれど、悪意はない。

思ったことをすぐ口に出す、無遠慮な人だ。


 


「ちょっと愚痴、聞いてくれよ」


 


「……その前に、その格好、寒くないんですか」


 


私が洗濯物を干しながら言うと、

永倉さんは平然と肩をすくめた。


 


「何言ってんだ、この暑い中寒いわけねえだろうが。そんでもって、夜の見廻り明けでさっきまで湯浴みしてたんだよ。

身体が火照って、仕方ねえ」


 


パタパタと手で扇ぐ仕草。


 


彼は、たしかに“馬鹿”だ。


けれど、そのがっしりとした体つきは、

そこらの女なら見ただけで顔を真っ赤にするだろう。


 


私は横目で流しながら、黙々と洗濯物を干し続けた。


 


「んなことはどうでもいいんだって。とにかく、聞いてくれよ、俺の愚痴」


 


「……はいはい、どうぞ」


 


洗濯の手は止めないまま、素っ気なく返す。


 


「最近よ、総司に夜の隊務、代われ代われって言われてよ。

心労が溜まってんだわ」


 


ぶつぶつ言いながら、永倉さんは傍にドカンと座り込む。


その手には、どこから持ってきたのか、酒瓶。


 


「だからって、ここで呑まないでください」


 


私は冷たく言い放った。


 


「いいじゃねえかよ。

鬼でも花街の女たちに負けねえ顔してんだからよ。

朝っぱらから、いい肴だぜ?」


 


にやにやと笑う。


 


「お酌してくれてもいいんだぜ?」


 


「馬鹿言わないでください」


 


吐き捨てるように言って、私は洗濯物をぱん、と勢いよく干した。


 


それを見て、永倉さんはケラケラ笑う。


 


「相変わらず手ぇ早ぇな、鬼の子!」


 


「……永倉さんこそ、さっさと服を着てください」


 


くすくすと笑いながら、でも私は、

この何気ない朝の光景に、ほんの少し救われる気がした。



――鬼でも、ここに居場所がある。


そんな錯覚に、縋りたくなるような。


 


蝉の鳴き声が屯所に響く。

どこまでも、夏の匂いが深まる朝。


 







 

「……ほんと、聞いてくれるだけで助かるわ」




永倉さんはそう言いながら、どこからともなくもう一本、酒瓶を取り出した。





「永倉さん、まさか……それ、また?」




私は思わず眉をひそめる。




「へへっ、夜勤明けってのはな、これぐらいしねぇとやってらんねぇんだよ」





酒瓶を軽く振りながら、永倉さんは苦笑する。

その顔には、ふだんの無神経な軽さとは違う、妙な疲れが滲んでいた。


 


「だいたいよぉ……総司のやつ、最近は夜の見廻りもろくにやりやがらねえだろ。

俺なんか、夜勤だの門番だの、押し付けられてばっかりだぜ?」


 


ぱしん、と乾いた音を立てて洗濯物を叩く私の隣で、

永倉さんは延々と愚痴をこぼし続けた。


 


「それだけならまだしもよ、

“新八、門番よろしく〜”とか、あいつ、笑いながら言いやがんだぞ?

そんで次の日ケロッとしやがってよ、こっちが死にかけてるのに!」


 


「……大変なんですね」




乾いた返事しかできない私に、永倉さんは涙ぐまんばかりの勢いで訴え続ける。


 


「だろ!? 俺、最近思うんだよ……。

もしかして、あいつ、俺のこと嫌いなんじゃねぇかって!」


 

「それは……たぶん、違うと思います」




洗濯物を干しながら、私はそっとフォローを入れる。


 


「ほんとにぃ? 俺、ここだけの話、夜中にあいつの布団に塩撒こうかと思ったもん」


 


「……それはやめてください」


 


思わず溜息が漏れる。


だが、どれだけ愚痴をこぼしても、怒鳴り散らすでもなく、

こうして笑い混じりに誰かに話せる永倉さんは、やっぱり憎めない。


 


きっと、本当に鬱憤が溜まっているのだろう。

けれど同時に、沖田さんのことを、どこかで憎めずにいるのだろう。


そんなふうに思った。


 


 


――そんな時だった。


 


「なに、僕の悪口?」


 


ふいに、背後からさらりとした声がした。


 


「っ――」


 


驚いて振り向くと、そこには、にこやかに笑う沖田さんが立っていた。


 


「げっ」




永倉さんが、思わず素っ頓狂な声を上げる。


 


「悪口……なんて、そんな大それたこと……ただの、憂さ晴らしで……」


 


あからさまに目を逸らす永倉さん。


私はと言えば、洗濯物を手にしたまま、どう動いていいか分からなかった。


 


沖田さんは、ふわりとした微笑みを浮かべたまま、永倉さんの前に立つ。


そして――


 


「へえ、憂さ晴らし、かあ」


 


ぱしん、と軽く永倉さんの額をはたいた。


 


「いてぇ!」



「まぁ、少しは反省しますけど……」


 


沖田さんは、ちらりと私を見た。


その視線は、どこか拗ねたような、拗れたような――そんな曖昧な色を帯びていた。


 


「新八の文句を聞いてくれるのが、僕じゃなくて月夜魅さんなのが、ちょっと悔しいなぁ」


 


冗談めかして、でも、どこか本気で。


 


私は思わず目を瞬いた。


 


沖田さんは、朝の陽を背に、笑っていた。


けれどその笑みの向こうに、何か別のものが隠れているようで――


私は、うまく息ができなかった。


 






 


ふいに沖田さんと、視線が絡んだ。


 


彼は私の方を見たまま、小さく笑った。


けれどその笑みは――


どこか、子どもが欲しいものを我慢している時のような、そんな拗ねたものに見えた。


 




……最近、なんだか

 


胸の奥が、ざわりと揺れる。


 


以前の沖田さんは、もっと気まぐれだった。


ただ面白がって、ただからかうように私にちょっかいをかけてきた。


 


“監視対象”として。

“鬼”という興味本位で。


 


私は、ずっとそう思っていた。


 


けれど――今は違う。


 


夜、見廻りに出ることもなくなり。


まるでそれが当然かのように、毎晩、私の部屋に現れる。


 


私の隣で、何も言わず、ただ呼吸を合わせて眠る。


 


そんな日々が、もう当たり前になっていた。


 




……気のせい、だよね


 

自分にそう言い聞かせる。


 


だけど、今。

こうして、永倉さんと楽しそうに話していた私に向けられた沖田さんの表情を見てしまったら――


 


とても、気のせいでは済まされない気がした。


 


「……僕、さっきまで隊士たちに稽古つけてたんだよ」


 


沖田さんが、ふとそんなことを呟く。


 


「だけどさ」


 


その目が、また私をまっすぐに捉える。


 


「……君が楽しそうにしてるの、見えちゃったから」


 


ぽつり、と。


 


「後は“自主練”してろ、って言って、抜けてきちゃった」


 


にこりと笑ったその顔は、いつもの柔らかい沖田さんだった。


でも。


 


胸の奥に、ひりつくような温度が刺さる。


 




……そんな理由で、わざわざ


 

私は、何も言えなかった。


 




永倉さんは、バツが悪そうに頭をかきながら、


 


「お、おう……俺、そろそろ戻るわ!」


 


と、無理やり話を切り上げた。


 


「じゃ、後は若ぇ二人で仲良くやってくれ!」


 


そんな茶化すような言葉を残して、そそくさと洗濯場を後にする。


 


去っていく永倉さんの背中を、私はぼんやりと見送った。


 


そして――


 


二人きりになった空気。


 


朝の光の中で、沖田さんはすぐそばにいた。


距離にすれば、ほんの数歩。


でも、それがやけに近く感じた。


 


「……月夜魅さん」


 


その声に、私はゆっくりと顔を上げる。


 


「ねえ、僕……迷惑?」


 


ふと、そんな言葉を落とす沖田さん。


 


冗談めかして笑いながらも、その目は、どこか真剣だった。


 


迷惑――


 


そんなふうに思ったことなんて、一度もなかった。


でも。


 


……違う。そうじゃない


 


私は、まだ知らない。


 


沖田さんが、私に向けるこの感情の名前を。


 


それに、私自身がどう応えたらいいのかも。


 


ただ――


 



それは、私が“鬼”だからなのか。


それとも、あの夜、知らず知らずに変わってしまった何かのせいなのか。


 


答えの出ないまま、私はそっと目を伏せた。


 


そして、ただ静かに首を横に振った。


 


「……迷惑、じゃないです」


 


聞こえるか聞こえないかの声で、そう答えた。


 


沖田さんは、ふっと微笑んだ。


 


でも――その微笑みの奥に、また何かを隠したような影が揺れたのを、私は見逃さなかった。


 


朝の空に、湿った夏の風が吹き抜ける。


洗濯物が、ぱたぱたと音を立てた。


 


その音だけが、やけに耳に痛かった。






 


……気まずい。


 


さっきのやりとりから、言葉が続かない。


 


沖田さんは、隣でぽつんと立ったまま。


私も、手にした洗濯物を持て余してしまい、動くタイミングを見失っていた。


 



……どうしよう



気まずさに耐えきれなくなったそのとき、


 


「……今日は、いい天気だね」


 


沖田さんが、わざとらしくそんな言葉を落とした。


 


え、と顔を向けると、

彼は少し気まずそうに、けれど無理に笑っていた。


 


「あ、はい……いい天気、ですね」


 


私は慌てて相槌を打つ。


 


空は高く、夏晴れ。


洗濯物が、カラカラと心地よい音を立てている。


 


けれど、心の中は全然、晴れなかった。


 


……この人は、いったい、何を考えてるんだろう


 


ただ、何気ない会話をしているだけのはずなのに。


たった数歩の距離が、やけに近く感じる。


 


言葉を選びすぎて、喉がこわばる。


 


そんな微妙な空気が、張り詰めた糸みたいに続いた、そのとき。


 


 


「月夜魅」


 


ピシッと、凛とした声が飛んできた。


 


「っ!」


 


驚いて振り向けば、縁側の縁に土方さんが立っていた。


 


無表情のまま、こちらを見下ろすようにしている。


 


「副長室の掃除、頼む」


 


それだけを、簡潔に言い渡された。


 


私は、思わず姿勢を正す。


 


「……承知しました」


 


深く頭を下げると、土方さんはそれ以上何も言わず、踵を返した。


 


その後ろ姿を、ただ見送るしかなかった。


 


けれど、その場に残った沖田さんが、ふっと苦笑して言った。


 


「……そんな仕事までやらされてるの」


 


小さな声。


 


「土方さんの世話役じゃないんだからさ」


 


まるで拗ねるような、でも優しさを滲ませるような口ぶりだった。


 


だが、その言葉を耳にした土方さんが、くるりと振り返り、


 


「黙れ。これも月夜魅の重要な仕事だ」


 


ピシャリと言い放った。


 


その声音には、容赦も甘えもない。


 


沖田さんは、やれやれと肩をすくめるだけだったけれど――


 


……助かった


私は、密かに胸を撫で下ろしていた。


 


あの気まずい空気を、一瞬で吹き飛ばしてくれた。


 


今だけは、土方さんの不愛想な命令に、心から感謝したかった。


 


秋の空は、どこまでも高く、洗濯物は乾いた風に踊っている。


 


けれど、胸の奥には、まだ小さなざわめきが残ったままだった。





 


私は頭を下げると、洗濯桶を置き、そっと土方さんの後を追う。


 


背筋を伸ばし、言葉もなく、ただ洗濯場を離れていく土方さんの背中。


それを、沖田さんが黙って見送っている気配が、ずっと背中に刺さっていた。


 



……何を考えてるんだろう


ちらりと振り返る勇気はなくて。


私はただ、無言で足を速めた。


 


 


副長室は、屯所の一角にある。

 


戸を開けると、そこは思ったよりも雑然としていた。


 


書類が机の上に積み重なり、畳の上にもちらほらと文書が散らばっている。


 


……これは……


さすが副長、と言うべきか。


いや、これは単に「片付けが苦手」という部類なのかもしれない。


 


私はそっと戸を閉め、静かに歩を進める。


邪魔にならないよう、隅から書類を集めて、分類し始めた。


 


筆遣いの荒い覚え書き。

折り目がついたままの出兵記録。

誰かに返すべき報告書。


 


一枚一枚に目を通しながら、丁寧に束ねていく。


 


 


……同じ副長でも


 


ふと、思い出す。


あの夜、一度だけ訪れた山南さんの部屋。


 


あの部屋は――驚くほど整っていた。


整然とした書棚。


無駄のない配置。


畳の上には、一片の埃さえなかった。


 


部屋って……性格が出るものなんだな


 


自然と、そんなことを思った。


 


 


そんなときだった。


 


「――総司が、仕事を他の隊士に押し付けているようだな」


 


不意に背後からかけられた声に、私はぴくりと肩を跳ねさせた。


振り返ると、土方さんが、机の向こうからこちらを見ていた。


 


無表情。

けれど、ただの雑談ではないと、すぐに分かった。


 


……なぜ、それを私に


きっと、そんな疑問が顔に出てしまったのだろう。


 


土方さんは、わずかに目を細めた。


 


「本人にも言ったさ」


 


静かな声で、淡々と続ける。


 


「決められた仕事は、きちんとこなせとな」


 


私は、黙って頷いた。


それは当然のことだ。


 


けれど、土方さんはそこで言葉を切り、ほんの少しだけ――

言いづらそうに、次の言葉を吐き出した。


 


「……だが、言うことを聞かない」


 


わずかに、指先が揺れた。


 


「“お前のためだ”と、そう言う」


 


 


――どきり、と。


 


心臓が、音を立てた。


 


……私の、ため


 


それがどういう意味なのか。


考えまいとしても、考えずにはいられなかった。


 


……山南さんのもとに、苦情が来ているくらいなのに


同じ副長なら、当然、情報共有もされているだろう。


芹沢さんの一件以降、沖田さんの態度が変わったのを、土方さんもきっと察している。


 


だから、こうして――


 


私に、釘を刺しに来たのだ。


 


 


「……私に、どうしろと」


 


なんとか搾り出すように言うと、土方さんは僅かに眉をひそめた。


 


「お前からも、言っておけ」


 


静かに、しかし重みを持った声だった。


 


「このままじゃ、他の隊士たちに示しがつかない」


 


私は、しばらく言葉が出なかった。


 


お前から、言え。


 


そんなふうに命じられるとは思っていなかった。


 


沖田さんは、私にとって――


そんなことを、簡単に言える存在ではないのに。


 


「……はい」


 


ようやく小さく答えた声は、情けないほどに頼りなかった。


 


土方さんはそれ以上何も言わず、机の方へと目を戻した。


 


その背中が、やけに遠く見えた。


 


畳の上に、夏の光が強く射し込んでいる。


 


私は黙って、また一枚、散らかった書類を拾い上げた。


 


……伝えられるだろうか


 


指先に微かに力がこもる。


 



……沖田さんに


本当に、伝えられるだろうか。


 


その問いは、胸の奥に小さな痛みとなって、静かに沈んでいった。










沖田さんに、どう伝えたらいいのだろう。


……いや


 


考えたところで、きっと無駄だ。


あの人は、遠回しな言い方をしたところで、

きっと、笑って誤魔化してしまうだけだろう。


 


――だったら


 


今夜、はっきり伝えよう。


 


「もう、沖田さんがいなくても眠れる」と。


 


それが、たとえ嘘だったとしても。


 


……だって


このまま、私のために沖田さんが仕事を疎かにするなんて――


 


そんなこと、あってはならない。


 


壬生浪士組という“場”に、私はまだ居場所を与えられているにすぎない。


一人の甘えで、それを壊すわけにはいかない。


 


 


私は、膝の上にある書類に目を落とした。


 


何気なく手に取った、一枚の文書。


そこに、見覚えのある二文字があった。


 


――会津藩


 


思わず、息を呑む。


 


……会津藩?


 


尊王攘夷の嵐吹き荒れるこの京の町で、

幕府側の大きな後ろ盾とされる、あの会津藩が――


 


壬生浪士組に、何かを求めている?


 


 


「……土方さん、これ……」


 


手にした文書を、そっと差し出すように見せると、

土方さんはちらりと横目を寄越した。


 


そして、鼻で小さく笑った。


 


「これから、壬生浪士組はもっと大きくなる」


 


静かに、けれど確かな声で、彼は言った。


 


「俺は、そう確信している」


 


胸の奥が、ざわめいた。


 


「……このこと、他の方々はご存じなのですか?」


 


問いかけると、土方さんは机に広げた別の文書から顔を上げず、淡々と答えた。


 


「まだだ。知っているのは、局長と副長、上位幹部だけだ」


 


会津藩からの要請。

その内容と、これからの動き。


それを知る者は、組の中でもごくわずかしかいないのだ。


 


「この後、幹部の会議で詳細を詰める」


 


――だから


 


「……だから、黙っておけ、ということですね」


 


私の言葉に、土方さんは無言で頷いた。


 


「そもそも、お前は隊士ですらない」


 


今度ははっきりと、突き放すように。


 


「隊士ではない者が知るには、過ぎた話だ。

黙って掃除を続けろ。……仕事の邪魔だ」


 


ピシャリと、断ち切るような声だった。


 


……分かってる。


 


私は、ただ“保護されているだけ”の存在。


正式な仲間ではない。


 


でも――


 


……私の生活に、関わることだってあるのに


心のどこかで、そう思ってしまった。


 


掃除を頼んだのは、土方さん、あなたでしょう。


胸の奥に、じくじくとした小さな不満が滲む。


 


けれどそれを、言葉にすることはできなかった。


 


私は、そっと目を伏せて、

再び散らばった書類を丁寧に束ね始めた。


 


朝の光は、どこまでも清々しいというのに――


胸の中には、拭いきれないざらつきが、そっと降り積もっていった。






 


私は、黙々と掃除を続けた。


 


土方さんの冷たい声が、まだ耳に残っている。


 


――隊士でもないお前には、関係のないことだ。


 


分かっていた。


分かっていたはずなのに。


 


畳を拭く手に、力が入る。


 


……やっぱり、私は、ここでは“よそ者”なんだ


 


胸の奥が、じんわりと冷たくなる。


 


どれだけ朝夕の炊事を手伝っても。


どれだけ誰かの隣で眠れるようになっても。


 


この世界で私は、所詮“異物”なのだ。


 


 


細かく積もった埃を拭きながら、そんなことばかり考えていた。


 


そして、ようやく、掃除を終えた頃。


 


私は、立ち上がり、そっと土方さんに近づいた。


 


「……掃除、終わりました」


 


淡々と、報告する。


 


土方さんは、机の文書から目を上げることなく、


 


「ご苦労」


 


たったそれだけ、短く言った。


 


……やっぱり


 


胸の奥が、また小さく痛んだ。


 


それでも、頭を下げ、部屋を出ようとした、そのとき。


 


 


「土方さんの世話役さんに、ちょっと用事があるので、お借りしますね〜」


 


 


軽やかで、少しだけ棘を含んだ声が響いた。


 


振り向くと、戸口に立っていたのは沖田さんだった。


 


にこやかに笑いながら、どこか土方さんに対する皮肉を滲ませるような口調。


 


土方さんはちらりとだけ、私を見た。


 


その視線は、冷たくもなく、優しくもなく――ただ、静かだった。


 


何も言わず、ただ、無言の許可のように視線を逸らす。


 


私は、思わず胸をなで下ろした。


 


 


沖田さんは、私に向き直ると、いつものように柔らかく笑った。


 


「今日は非番なんだ。……だから、稽古、付き合ってよ」


 


「え……稽古?」


 


戸惑う私に、沖田さんはふわりと微笑む。


 


「うん。……それに、ちょっと気になってたんだ」


 


そう言って、私の袖を軽く引っ張る。


 


「土方さんに、意地悪されなかった?」


 


 


その言葉に、思わず目を見開いた。


 


冗談めかしているけれど、その目は真剣だった。


 


私のことを、ちゃんと気にかけてくれている。


 


胸の奥に、小さな温かいものが灯る。


 


 


……だけど


 


私は、伝えなければならない。


 


「もう、隣にいなくても眠れる」と。


 


その嘘を、ちゃんと飲み込んだまま。


 


私は、小さく微笑んで、頷いた。


 


 


「……はい。稽古、お供します」


 


 


夏の空は、どこまでも高く澄んでいた。


でも、胸の奥に広がるざわめきは、まだ消えそうになかった。














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