表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/36

無言の観察者


 


朝の空気は、どこまでも静かだった。


まるで、何もなかったかのように。


 


――けれど、私の中では、まだ昨夜の影が渦巻いている。


 


陽が昇るよりも早く目覚め、私は顔を洗い、髪を結った。

昨日、山南が貸してくれた薄羽織を丁寧に畳みながら、

あの優しい声と手のぬくもりを思い出す。


 


……甘えてはいけない


 


彼は、組の中で偉い立場にいる人。

私のような“保護されただけの者”が、

心の支えを求めていい相手ではない。


 


炊事場に向かうと、すでに数人の隊士たちが食器を片づけ、

朝の流れを始めていた。


 


誰も、私の顔を見ようとはしない。

でも、誰かの視線が時折突き刺さるような気がして、肩が強張る。


 


そこへ、ひとりの足音が近づいてきた。


 


「……おはよう」


 


聞き慣れた声だった。沖田――


 


顔を上げると、彼はいつものように笑っていた。

けれど、どこかぎこちなくて、目元が曇っているように見えた。


 


「昨日は……寝られた?」


 


「……はい。山南さんのおかげで」


 


そう答えた私の声は、わずかに震えていたかもしれない。

沖田は、その言葉に小さく頷き、


 


「……そっか。なら、よかった」


 


とだけ言って、いつものようにふわっと笑った。


 


でもその笑みの奥に、沈んだ色があった。


それ以上、彼は何も言わず、

いつも通りに、歩き去っていった。


 


残された私は、その背中を見つめながら、

昨日、自分が彼の“隣にいなかったこと”が、

彼にとっても痛みだったのかもしれないと、初めて気づいた。


 


あたたかさの形は、人それぞれだ。

でも、彼の優しさはときに刺さるほど不器用で――それが、少しだけ、苦しかった。




 


朝から屯所に響く蝉の声。

白く眩しい夏の日差しが、瓦屋根をぎらぎらと焼いていた。


 


洗い場では、生ぬるい水が桶の底で静かに揺れていた。

その音を聞きながら、私は今日も食器を手に取る。


 


横には、山南が黙々と飯を炊いていた。

昨日と同じ時間、同じ場所――だけど、言葉は交わさなかった。


 


互いに、何もなかったように過ごそうとしている。

それが、返って痛いくらいに“昨日”を思い出させる。


 


彼の薄羽織を返してから、私は一言も山南と話せていない。


 


……私が勝手に、距離を置いているだけ


 


そんな自己弁護を心の奥で呟きながらも、肩の力は抜けなかった。


 


食器を洗い終えようとしたとき、不意に名前を呼ばれた。


 


「月夜魅」


 


ぴたりと背筋が凍る。


 


声の主は、土方歳三だった。


 


屯所に来てからというもの、彼とは必要最低限の言葉すら交わしていなかった。

それどころか、真正面から目を合わせたのも、これが初めてかもしれない。


 


「外出に付き合え」


 


それだけを告げられた。

理由も、行き先も、告げられないまま。


 


「……はい」


 


隣で様子を見ていた山南が、ほんのわずか眉をひそめた。

けれど彼も、何も言わなかった。


 


 


――


 


壬生浪士組に身を置いてから、初めて屯所の外へ出た。


 


それだけでも十分、心がざわつくのに――

隣を歩くのが、あの土方歳三という事実が、さらに息を詰まらせた。


 


無言で進む彼の足取りは迷いなく、無駄がない。


京の道は広く、にぎやかだった。


人の波、染物の暖簾、商人の声、子どもたちの笑い声――

山奥にいた頃の生活とは、すべてが違っていた。


 


「屯所の備蓄が足りない。薬草と保存食を補充しておく」


 


それが、私を連れ出した理由だった。

言葉にしてくれたのは、歩き始めてしばらくしてからだった。


 


「……どうして、私を?」


 


つい、口をついて出た。


 


「時間に余裕がある者を選べと言われただけだ。

それに――女の目のほうが、市場では役立つ」


 


言葉に棘はなかったが、どこか突き放すような響きだった。


 


彼が本当に私を必要としているのではなく、

“様子を見るために連れ出した”のだと、直感した。


 


……私を、試している


 


道中も、彼はほとんど口を開かなかった。

それなのに、視線の端ではずっと“私”を観察していた気がする。


 


「人を斬ったことはあるか」


 


突然、土方がそう言った。


 


「……ありません」


 


「なら、喰ったことは?」


 


心臓が、ひとつ跳ねた。

それでも私は、動じないふりをして答える。


 


「……ありません」


 


「なら――鬼の力を使って、何を守った」


 


黙ったまま歩きながら、私は言葉を探した。


 


「……大切な人がいました。その人と、一緒に逃げました」


 


真実だった。

でも、土方がその真偽を測るようにこちらを見た瞬間、

喉の奥がぎゅっと閉じるように苦しかった。


 


きっと、この人は信じていない


 


でも、それでいいとも思っていた。

信頼を得るためにここにいるわけじゃない。


 


ただ、“今を生き延びる”ためにいるだけ。


 


――


 


町の端にある乾物屋で必要なものを揃え、

帰り道は、ほんの少しだけ夕陽が差していた。


 


それでも、土方は何も言わなかった。

終始無言のまま、私と並んで屯所へ戻っていった。


 


私は後ろからその背を見つめながら、

この人の視線が、刀よりも鋭いことを知った気がした。


 


そして――


 


その刀に、いつか試される時が来るのかもしれない。

そう思うと、ほんの少しだけ、喉の奥が乾いた。



 




屯所の敷居をまたぐ、その直前。


 


それまで一度も振り向くことのなかった土方が、不意に足を止め、

ふとこちらを振り返った。


 


「……今宵は、満月だな」


 


そのひとことだけで、全身がこわばった。


 


“満月”――その言葉が、ここでは“監視”と同義になる。


 


鬼の力がもっとも強くなる夜。

そして、力が制御しづらくなる夜。

だから私は、“警戒される”。


 


壬生浪士組に来てから、これで三度目の満月。


そのたびに私は、夕餉の支度からも外され、

月が昇る前には自室へ押し込められてきた。


 


部屋の前には、何人かの見張りの気配。

気配を悟らせまいとしているのだろうが、

鬼の感覚には、かえって際立って伝わってくる。


 


私が“隔離される夜”だ。


 


山南も、沖田も、芹沢でさえも――この夜だけは、誰一人近づいてこない。

……昨日のことを思えば、それだけでも安全と言えるのかもしれない。


 


けれど。


 


今宵は、違った。


 


部屋の灯を落とし、障子の向こうの空を見上げたとき。

空に浮かぶ、真円の月。


その冷たい光が、ゆっくりと私の身体を満たしていく。


 


胸の奥が熱を帯び、指先がじんじんと痺れた。


肩のあたりがむず痒く、血の中がうずくような感覚。


――変化の前触れだ。


 


それはもう、慣れた感覚のはずだった。

けれど、今夜はそれだけではなかった。


 


静かな廊下に、ひとつだけ現れた気配。


 


ぽつり、と。


 


ひとりだけ、他と異なる――張りつめた空気。


その“異物”の気配が、障子の向こうからじわりと迫ってくる。


 


姿を見たわけではない。

声を聞いたわけでもない。


けれど、この空気、この匂い――


 


……土方、さん


 


月明かりに照らされて、身体の中に眠る“鬼”の力が目を覚ます。

その力が、私に教えてくれた。


 


気配は動かない。

まるで私が“どう出るか”を、そこからじっと見ているかのように。


 


なぜ、今夜……?


 


問いかけたくても、声にはならなかった。


 


こちらから戸を開けるべきなのか。

それとも、開けてはならないのか――


 


わからない。


けれど、確かに感じる。

その気配は、刀を持ったような緊張と、

それでいて、ほんの微かに――

“興味”にも似たものを、孕んでいた。


 


息を詰めて、私はただ布団の中で月の光を浴びながら、

その気配の行方を見つめていた。





 


月の光が、障子の紙を薄く透かしている。


その向こう、廊下――いや、縁側か。


そこに立つ土方歳三の気配は、まるで動かない。


 


こちらも、布団の中でじっと息を潜めたまま、時をやり過ごしていた。


けれど、どれほどの間が経っただろう。


 


いや、“ひととき”か、“ふたとき”か――

正確には分からないけれど、肌感覚ではほんの数息のことだったのかもしれない。


それでも、この静けさの中では、ずっと永く感じた。


 


……このまま、夜が明けるのを待つの?


 


見張りとしての役目なら、そうだろう。

けれど、何の声もかけず、何の動きも見せず、ただそこに“在る”だけの存在。


その“無言の存在”が、かえって胸を締めつけた。


 


私は、そっと身を起こす。


足音を忍ばせ、障子のすぐそばまで歩み寄る。


 


満月の光に照らされた私の影が、薄く紙に映る。


そしてその向こうにも、かすかに立つ人影の揺らぎがあった。


 


「……あの」


 


一瞬、喉が渇いて、言葉が出なかった。


でも、逃げない。


 


「わたし、これまで幾月か……この屯所で過ごしてきました」


 


声が震えていないか、少しだけ不安になる。


それでも続けた。


 


「けれど、よく言葉を交わすのは……山南さんと、沖田さんくらいです。

それ以外の方とは、ほとんど――」


 


土方の影は、動かない。


 


「……満月の夜は、長いです。

黙って監視を続けるのも、きっと、お疲れでしょう?」


 


自嘲のように、少し笑ってしまった。


 


「わたしのことを“監視対象”として見るのは、当然のことです。

でも、今夜だけ……ほんの少しだけでも構いません。

土方さんの目に映る“隊士たち”のこと、教えていただけませんか」


 


静寂が落ちた。


 


障子越しの向こうは何も言わず、何の反応もなかった。


 


……調子に乗りすぎた


 


そう思って、私は黙って頭を下げ、背を向ける。


布団へ戻ろうと、歩きかけたその時――


 


「……新八は、口が軽い。要らぬことばかりベラベラ喋る」


 


不意に、低く通る声がした。


 


え……?


 


足を止めて振り返ると、障子の向こうの影はそのままだった。


でも、続けられた声は、どこかほんの少しだけ柔らかかった。


 


「左之助は馬鹿だ。が、あいつほど裏表のない奴もいない。

総司は……厄介だな。普段は飄々としてるくせに、どこまで考えてるのかわからん。俺ですら読めんこともある」


 


次々に語られる、隊士たちの姿。


その口ぶりは、明らかに“噂話”でも“報告”でもなかった。


ただ土方という人が、見たままを語っているだけの、静かな“素の声”だった。


 


胸の奥が、じんと温かくなる。


 


話してくれている……


 


それは、ただの監視ではなく、“人と人として向き合った一歩”のように思えた。


私はそっと、障子の前に座り込む。


まるで、そこに確かな“距離”を感じたまま、ぴたりと寄り添うように。


 


静かに語られる、隊士たちの話。


それは、月の光が滲む夜にだけ聞こえる、小さな物語だった。





 


「……斎藤は無口だ。話さなくても通じると、そう思ってる節がある」


 

障子の外から落ちてきた声は、変わらず低く、感情の起伏がない。


それでも、その一言には、妙な温度があった。


 


「平助は……よく笑う。歳相応の馬鹿さもあるが、人の痛みには敏い。

井上さんは……頑固だな。けど、芯がある。年長者として口うるさいのも、俺たちを守るためだろうよ」


 


短く、端的な言葉。


そこには、愛想も飾りもないのに――なぜか、重みがある。



ぽつり、ぽつりと名前が出てくるたび、

私は心の中に“隊士たちの輪郭”を描き始めていた。


今まで関わることのなかった人たちの、“中身”を。

誰かの視点を通して知るのは、なんだか不思議だった。


そうして土方さんの言葉は、まるで私もその人たちを知っているかのように錯覚させる。

 




「近藤さんは……まあ、見ての通りの人だ。

でかくて、暑苦しくて、お節介焼きで……それでも、あの人についていきたいと思う奴は多い。

俺も、あの人がいたからここにいるようなもんだ」


 


ふっと笑ったような気配がした。

けれど、障子越しではその表情は分からない。




「あの人は……強い人だ。近藤さんが“強く在ろうとする理由”を、俺は知ってる」



それが何なのかは、言われなかった。


けれどその一言だけで、深く信頼しているのだと伝わってきた。






「山南は……」


 


そこで、土方はわずかに言葉を切った。


 


「……あいつは、穏やかすぎて損してる。

何があっても表に出さない。怒りも、疑念も、全部胸にしまって、“優しさ”で包み込もうとする。……あれは、あいつの強さであり、脆さでもある」


 


その声に、責めるような響きはなかった。

むしろ、遠くを見つめるような、静かな響きだった。





昨夜のこと――きっと、山南は土方に報告したのだろう。


けれど、芹沢の名も、暴力のことも、一切語られなかった。



ただ、山南という人間の本質だけを、土方は語った。


 


「そういう性分だから、時に公平であるべき判断にも、私情が混ざる。

見たものより、信じたいものに寄ってしまう」


 


――?


 


その言葉の意味までは、私には分からなかった。


ただ、“それでも山南は信用できる人間だ”と、

土方がそう断じているような確かな響きがあった。




 


……優しいんだ、この人


 


意外だった。


もっと無骨で、冷徹で、

“判断だけの人”だと思っていた。


けれど――仲間たちの話をするときのこの人は、

どこかあたたかく、

一人ひとりをちゃんと“見ている”目をしているのだと、声で分かった。


 


私は、静かに息を吐いた。


そのとき――


 


「……で、お前は?」


 


はっとして、目を上げる。


障子の向こう、土方の影は微かにこちらを向いていた。


 


「山から下りてきて、ここに来て。

何を見て、何を考えてる?」


 


その言葉は、詰問ではなかった。


けれど、試されているような感覚がした。


 


どう答えればいいのか、分からなかった。


でも――この人は、今、私の声を待っている。


 



私は、ゆっくりと口を開く。


 


「……怖いと思っていました。

ここに来た初日から、ずっと。

人の視線も、声も、空気も。

何をすれば斬られるか、何が怒りに触れるのか、分からなくて……」


 


自分でも、こんなふうに話すつもりはなかった。


けれど、言葉はぽろぽろとこぼれていった。


 


「でも……誰かの隣にいると、少しだけ、怖くなくなるんです。

山南さんも、沖田さんも。

皆さんがどんな人たちなのかを、知れたら……

もしかしたら、わたしは、ここで生きていけるのかなって」


 


沈黙が落ちた。





 


風が、そっと部屋の空気を撫でた。


 


戸がわずかに揺れる気配に気づき、顔を上げる。


満月の光が差し込む廊下に、人影が浮かんでいた。


 


――土方さん。


 


声をかける前に、彼の目がこちらに向けられる。


静かな月の光に照らされて、その姿はどこか幻想めいて見えた。


この人は、こんなにも“美しい”のか――


そう思ってしまった自分が、少し悔しかった。


 


「……それが、“鬼”の姿か」


ぽつりと、土方が言った。


その声は冷たくはない。ただ、淡々と、事実を確認するように。


 


――はっ


 


気づいた。


いま、自分の“角”も“髪の色”も、

この男の視界に、すべて映っている。


胸の奥が、ずくんと痛んだ。


まるで“人ではない自分”をさらけ出されたような、胸のざわめきだった。


 


満月の夜、鬼としての力が強まるこの夜に。


髪は血のように赤く、瞳は微かに光を宿している。


角が、額の奥に浮かび上がるように存在し――


 


見られた……


 


まるで“異質なもの”としての輪郭だけをなぞられた気がして、心が乱れる。


 


けれど、土方は部屋には入ってこなかった。


一歩も、敷居をまたごうとはしない。


まるで、そこに“結界”のようなものを張るように。


“お前と俺の間には、距離がある”


そんな無言の意思が伝わってくるようで――


それが、少しだけ、悲しかった。


 


「芹沢は、怖いか?」


 


突然の問い。


思いもしなかった名前に、空気が変わる。


 


どきり、と胸の奥で嫌な音がした。


月明かりが冷たく揺れる。


 


私は、何も言わず、小さく頷いた。


 


「鬼の力があれば、たかが人間。本気を出せば、息の根を止めることなど、容易いだろう」


 


障子の外から落ちてくるその声に、私は言葉を返せなかった。


 


――なぜ、そんなことを訊くのか。


いや、分かっている。


それが“試されている”と気づかぬほど、私は愚かではない。


 


沈黙が落ちる。


それでも、土方は続けた。


 


「……あの夜、芹沢の顔に傷をつけたと聞いた。

だが、それだけで終わった」


 


声に責める色はない。


ただ、静かに、淡々と。


それが却って、問いの本質をえぐってくる。


 


「鬼の力なら、もっと容易く……腕の一本くらい、奪えただろう」


 


私は、拳を握りしめた。


襖一枚隔てた向こうの男は、

きっと今も、私の小さな吐息一つまで聞き逃すまいとしている。


 


「……それは、わたしが……」


 


声がかすれた。


それでも、言わなくてはならないと思った。


 


「……人を殺したくないと、思ったからです」


 


静かな夜に、自分の声が驚くほど脆く響いた。


 


「わたしは……昔、一度だけ……人を喰ったことがあります」


 


心臓が、ぎゅうっと縮んだ。


思い出すたびに、指先が冷たくなる記憶。


 


「その時のことを、忘れることはできません。

匂いも、感触も、あの瞬間の自分の心も。

全部……消えてくれないんです」


 


どれだけ綺麗な布を羽織っても、

どれだけ丁寧に言葉を紡いでも――


一度“血”を口にした鬼は、人ではないと。


この世界では、そう定義される。


 


「……でも、もう二度と、誰かを傷つけたくないんです。

たとえ、自分が壊れそうになっても」


 


沈黙が落ちた。


 


どれほどの時が経っただろう。


 


外から、土方の声が再び落ちてくる。


 


「……俺は、情に流される奴が嫌いだ」


 


その言葉に、息が詰まる。


 


「目の前の涙や、震える声に“真実”があるとは限らない。

人は、どんな顔をしてでも、嘘を吐けるからな」


 


冷たい。


そう思った。


けれど、その言葉はどこか――哀しみを孕んでいるようにも聞こえた。


 


「だから俺は、斬るときには、斬る。

たとえそれが誰であっても、だ」


 


私は、息を飲んだ。


 


「……だが、斬らないと決めたなら――

徹底的に“見極める”必要がある。

ただの情けで、命を預かるわけにはいかないからな」


 


土方の声は、低く、静かにそう続いた。


 


「だから、俺はお前を“見に来た”。……それだけだ」


 


その言葉のあと、廊下の気配はふと静まり返った。


でも完全に消えたわけではない。


 


戸が閉まる音も、足音もない。


ただそこに、張り詰めたままの空気が残っている。


月夜に溶け込むように、土方の“存在”はまだそこにあった。


 


私は障子越しのその気配に向かって、そっと視線を落とした。


感謝ではない。


けれど、ほんの少し――何かに気づきかけていた。


 


……あの人は、“私”を見ていたわけじゃない


 


語りかけたのは、名前も持たぬ“監視対象”にすぎないこの身体。


心の内を引き出すために、手のひらを差し出したにすぎない。


 


それでも、あの静かな語りには、嘘だけではないものが宿っていた気がして――


私は、余計に分からなくなった。


 


ただ、ひとつだけ分かったのは。


 


――私はまだ、この人には“認められていない”。


 


鬼だから?

それとも、人を喰った過去を持っているから?

それとも、何も語らず生きてきたから?


 


理由なんて、分からない。


けれど、その影はきっとまだ、私を“外”の存在として見ている。


 


それが、痛いほどに分かった。


 


 


こうして、満月の夜は静かに更けていく。


眠れぬまま、言葉も交わさず、

ただ、同じ闇を、違う距離感で共有しながら。


 


心は、近くて遠いまま――


それでもどこか、静かに揺れていた。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ