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オズの世界の歩き方  作者: 藍沢
【第三章】 真摯な木こり
50/51

─5 トトのこと①

***




 すっかり暗くなった夜の事。

 さっきまでのエンドレスデスクワークにやっと区切りを見つけ、帰路についている。重たいまぶた。肩に何かがずんとのしかかるような重み。足腰に来る鈍痛をかすかに感じながらひょこひょこと歩く姿は、他から見れば不気味なものを感じるだろう。

 いつもより幾分か早い時間に仕事を終えていたこの十九時台は、道がまだうっすら建物から溢れる光で明るく、ほんの数回、人とすれ違う事があるだけでも、少しばかり心細さが軽くなる。


 そしてこれは、いつかの実際に合った日を再現した夢だということをうっすら感じていた。


 家の近くに狭い区画の公園がある。といってもただの空き地に滑り台とシーソーがただ置かれているだけで、小学生数人が五、六人集まれば手狭になるような場所だ。帰りにその場所が視界に入ってくると、あぁ、やっと家が近づいてきたな、という実感が湧く。


 しかし今日は何かが違っていた。

 公園の真ん中、暗がりで何かがうごめていている。地面の土をカリカリと引っ掻き、途切れる小さな鳴き声と息遣い。

 俺は公園に近づきつつ手持ちのスマホのライトで目線の先を照らした。それが何なのか、はっきりと分かる位置に着くと、思わず口から声が漏れ出た。

 

「……い、犬? し、しかもこんな、縄跳びぐるぐる巻き……おい! 大丈夫か!」


 すぐに暴れる体を救出しにかかった。

 子犬だった。真っ黒な毛並み。地面の土にまみれて、ところどころ粘った液体がこびりついている。随分長い間もがいたんだろう。体全体が汗っぽく、見知らぬ俺が近づいても怯えて吠える事もできないくらい息が絶えだえだ。

 すぐに縄跳びを分解しようとするも、可哀想に、動物じゃ絶対解けないくらい固結びにされている。絡まった部分を苦しまない程度に隙間を開けて、足を潜らせるのを手伝う。子犬はぐったりとしていて、人間にされるがまま、身を委ねて震えていた。


「くそ……。こんなのさっさと切っちまいたいのに、ハサミも無いし、無理やり引っ張る訳にもいかないし。……一旦このまま連れ帰って──」

「何してるんですか?」


 不意に背後から声がした。びくりとして振り返ると、小柄な女性がこちらを目撃していた。周囲も暗く、表情は見えないが、手に持ったライトを片手に、ズンズンとこちらに向かってくる。

 ライトに照らされた俺の顔と、その手元にあるものを見て、女性は小さく呟いた。

「子犬……」

「あ、いや! その、犬が縄跳びに絡まって暴れてたから! 解いてやろうと思って……!」

 言い訳がましい事を口走ったが、状況を知らない者から見れば野犬を虐待している風に見られてもおかしくない。一切のやましい事はしていないはずなのに、焦りが生じる。


「丁度後ろを歩いていたので、あなたがこの子に酷いことをしてないのは知ってます!」

 キッパリと言い切って、にこりと微笑む女性。俺と同じく体をかがめ、いつの間にか懐から取り出したフカフカのフェイスタオルを広げた。震える犬の体に、怖がらせないようそっとタオルをかけてやり、その上から優しく撫でてやる。

 犬は吠える事もなく、ただ俺達の顔を交互に見て、徐々にその震えが落ち着いてきていた。


「あ、ありがとうございます。おかげで落ち着いてきたみたいだ。でもこの縄、今すぐ切ってやりたいんですけど、何か持って……」

「私、動物病院で働いてるんです。そこまで一緒について来てくれませんか?」


 俺が何かを言い切る前に、女性はとんとん拍子で話を進めていく。その流れに逆らわぬよう、分かりましたとだけ返事をした。

 俺は女性の代わりにタオルでゆっくりと犬を包み、赤ん坊を抱くように持ち上げる。

「あっ。ちょっと違います! こっちの腕をお腹の下にして、もう片方でお尻を包むように支えてください!」

「あっ、えっ、すみません……!」

 全く知らなかった正確な抱き上げ方のレクチャーを受ける。手に収まるおとなしい子犬に目を合わせると、何とも言えない幸福感を味わった気がした。

 気付くと女性は公園から出ており、すぐに小走りで追いかける。彼女の言う動物病院へと急いだ。


 ──マキモト動物病院。駆けて数分で辿り着いた建物の看板にそう書いてあった。診察時間はとっくに過ぎているが、建物の窓から中の蛍光灯がほんのりと光っているのが見える。

「要予約って書いてるけど……」

「院長優しいので大丈夫ですよ! 特に今日ばっかりは一大事ですから!」

 遠慮なく敷地内へ入っていく女性の後を追う。正面玄関から裏口へ回り、施錠もされていないドアを開けると、カランコロン、頭上から可愛らしいベルの音が、しんとした廊下にこだました。

「お、お邪魔しまぁす……」

「院長! 一大事です!」

 俺の遠慮気味の挨拶をかき消さんばかりに、彼女のまっすぐな声が中へ響き渡った。

 間髪入れず歩く彼女に遅れを取るまいと俺も中へ侵入する。一切の迷いもない進路の先、診察室と書かれた部屋には、大きなあくびをしている最中の、おそらく院長がパソコンの前で座っていた。


「おやぁ緑ちゃん! さっき帰ったばかりじゃなかったかい?」

 こちら二人を見るなりきょとんとした顔をした、見た目がかなりご年配の院長は、自身の顎マスクの下に生えた髭をすりすりとなでた。あと、この女性の名前はみどりさんだという事が分かった。


「そうなんですけど、ちょっと診て貰いたい子がいて、急いで戻ってきました!」

 ハキハキと喋る緑さんはひょいと体を横に移動し、俺が抱えた子犬の姿をあらわにする。院長は小さく、ほぅ、と息をついて、腰を労わりながら立ち上がった。近くにあった診察台をガラガラと引き寄せ、子犬を預かる両腕をこちらに差し出しながら、ゆったりした声で尋ねる。

「君が見つけてくれたのかい? えっと、お名前は……」

「お、俺……、いや、僕は、灰野って言います。こっちの子犬は、近くの公園で見つけて……」

 こくこくと頷きながらタオルごと子犬を受け取った院長は、そっと診察台に寝かせた後、優しく背筋を撫でてやる。そして、どこからともなく小さなハサミを取り出して、数回パチパチと音がした頃には、撫でている最中の手が全ての縄を払い除けたのだ。


「人間がしたのかな? それとも、落ちていた縄跳びで遊んでいたのかな? どっちにせよ、しんどかったねぇ、よしよし」

 優しい手つきに子犬はうっとりとしており、今にも眠ってしまいそうだった。


「あとは基本的なところを調べて、必要そうであればレントゲンを取ろうかね」

「すっごく大人しい子ですね、この子。それに珍しいですよ、色々と」

「うんうん、今まで緑ちゃんが連れてきた中でもとびきり……」

「あ、あの!」


 俺の一声で二人に割り込んでしまい、視線がチラと注がれた。そのまま言葉を続ける。

「突然、すみませんでした。色々助けていただいて……」

「いやいや、いいんですよぉ。こういうのは日常茶飯事だからねぇ」

「そうです! それに灰野さん、大変なのはここからなので!」


 へ。と呆気に取られる。それもそのはず、病院での治療、警察への届出、今後この子犬をどうしていくかの対応について、考えなければいけない事が盛りだくさんだからだ。


 そこから俺はそれらの対応で慌ただしく動き回ることになる。その間、院長と緑さんはずっとこの病院で子犬のお世話や、俺にどうすべきかの指南をしてくれた。嫌な顔ひとつせず、ただこの子犬が元気になれるよう、ひたむきに尽くしてくれたのだ。


 全ての手続きが終わる頃には時間が深夜0時を回っていた。

 なんと今日のところは、緑さんが泊まり込みで院長と一緒に子犬の様子を見るという。流石にそこまでしてもらうのは気が引ける、と言いたいところだが、何の知識も無い俺が自宅で預かるより、この人達にお世話をしてもらう方が結果的に子犬の為になるだろう、という事で、明日の早くに、再度この病院に来ることを約束して一旦解散することにした。


「この子、雑種ではあるけど、多く特徴に現れてるのは結構珍しい犬種なんですよ」

「そうなんですか?」

「そうだねぇ。ケアーン・テリア。気が強い性格なんだけど、初めましてでこんなに落ち着いた、肝の据わった子はお目にかかった事が無いよ」

「ケアーン・テリアと言えば院長、名前は『トト』ですよね!」

「緑ちゃん、勝手に名前つけちゃダメっていつも言ってるだろう」

「……? よく付けられる名前なんですか?」


 あどけない表情を浮かべた、院長お墨付きの大人しい子犬。別れる前に一度頭を撫でてやると、すりすりと手の腹にすりつけ返してきた。


「早く飼い主、見つかるといいな」


 黒い子犬のふわふわした首元に、きらりと光る青のクリスタルの首輪。


 その反射光が突然強くなって目に入ってくる。思わず顔を背けた。しかし、眩しい──。目を固く閉じているのに、ずっと眩しい。




***


「おい、起きろっつってんだろ」


 ドスのきいた言葉に、意識が徐々に覚醒していく。

 うっすら開けていく視界。目の前にはあの声の主がいるはずなのに、なぜか真っ黒だった。

 ぴちゃ、と俺の額に湿ったものが擦れた。濡れた場所に、若干生暖かい息がかかる。


「何……だ──」

 目線を上にすると、信じられないものが目に飛び込んできた。


「──トト?」


 ここにいないはずの、いや、今はその姿は無いはずの──。


 いつもの日常のトトが、俺の目の前で大人しく座っていた。

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