5-1
長い冬がやっと終わりを告げると、朝晩に冬の名残を引きずる春は瞬く間に過ぎ去っていった。
ヴェラはまだ涼しい内に小宮の周りを歩いていた。辺りは様々な緑が鮮やかな蔦や葉が盛況を迎えている。
深い緑の匂いに気持ちが落ち着くのは、昔から変わらずほっとする。ほんの十日程前までは、とにかく匂いに過敏でまいっていた。
真新しいインクの匂いに、花の匂い、それから肉の匂い。特にこのみっつは吐き気をもよおすほどで、日常に当たり前にあってなんの気にもとめていなかったものを体が拒絶することが衝撃的だった。
もちろん、つわりに対する知識はあった。人によって千差万別であることも知っていた。ただ実際に体験すると思って以上にしんどかった。
養母が知識は生きる助けにはしても、けして寄りかかりすぎてはならないと常々言われていたことを今、一番実感した。
写本もできず、本を読むにしても素材の匂いの混じり具合によっては駄目なものもありと気が滅入るばかりだった。
「……あともう少し一緒にいるのよね」
ヴェラは膨らみが目立ち始めた腹部に触れながらつぶやく。
いまだにこの小さな同居人に対する感情がよくわからない。どんな顔をしていて、どんな性格なのか早く知りたいと興味はあるものの、知人や書物の中の妊婦のような母性らしきものが見当たらなかった。
「こうなったら会うまで、よそよそしいのかしらね、私達。生まれも育ちも全然違うことになるんだけれど、でも、私から産まれるのよね……」
春先になってから、大規模な祭事や王宮行事があり自分は表に出ることはないものの、多くの祝いの品が届くようになっていた。
小宮の一室は贈答品で埋まり、別の部屋は赤子の居室として整えられ始めている。どれもこれも今までの生活には縁のない高価なものばかりで、説明されても呆気にとられるばかりだ。
そうして、今も近くについている護衛の兵もおなかの子のためのものだ。
だが、この子はこれが当たり前として生きていくのだろう。
(おくるみは送ってもらわなくてよかったわ)
シドロフ公領の家には機織りだった産みの母自身が織った布を使ったおくるみがある。結婚したときに養母から数少ない両親の形見であるそれを渡された。
亡くなった夫と、虫干ししたおくるみを眺めながらいつか使う日がくるんだろうねとぼんやりした未来を描いた日が懐かしい。
つわりが酷くなる前に仲のいい知人にしばらく帰れないので家の管理の頼むと詳しい事情は伏せて手紙を書きながら、おくるみのことを頼むか迷ったが結局やめておいた。
自分の子には、皇族として生きていくためのもの以外はない方がいい。それは、自分自身さえそうだ。
だから、産まれて体が回復したら家に帰るつもりだ。
(戻れるのかしら)
ヴェラは疲れてきて、小宮へと引き返しながら少しばかり不安に思う。
工房にも同じくしばらく帰れないとは連絡している。向こうからも養母が亡くなって大変だろうから、落ち着くまでいるといいと返答があった。
側室になったことは、誰にも告げていない。エドゥアルトにもあまり自分の存在を公にはしないでほしいと頼んでいるものの、自分の素性はすでに貴族達に調べ上げられている。子供が産まれる頃には、知人達にも伝わっているかもしれない。
「ヴェラ様、陛下がお越しになっております」
小宮に戻ると使用人からそう告げられたとおり、居室の長椅子ではエドゥアルトが座ったままうたた寝をしていた。
物音で半分目覚めてはいるのだろうが、彼は身じろぎをひとつして唸りつつうつむいて目を閉じたままだ。
「横になったら?」
よほど疲れているのだろうと声をかけると、エドゥアルトは首を横に振って目を開ける。
「いや、あまり時間がない。体は順調そうだな」
「もう十日も症状がないから、つわりは本当に落ち着いたみたい。産婆さんから体調が落ち着いたなら短い時間でも歩いた方がいいって言われたから、毎日散歩してる」
ヴェラはエドゥアルトの横に腰を下ろす。このところ忙しいらしく、顔を見るのは四日ぶりだ。近くで見れば目が少し落ちくぼんでいる。
「ちゃんと寝てるの?」
「昨日たまたま寝られなかったが、それぐらいだ。くそ、目先の利益ばかり追っている爺共め。くだらない小競り合いばかりで何も進まん」
エドゥアルトはこのところは政務や式典などで忙しくしているものの、五日と開けずにやってきては短い休養を取ったり、こうして愚痴をこぼしていく。
再会して半年あまり。時々幼い頃に戻ったような感覚に陥る。
まだ、彼に恋する前、お互いが唯一無二の友人だった頃。
「……あなたちっとも変わらないわね」
「あまりいい意味ではなさそうだな」
エドゥアルトが苦々しくぼやく。
「何もかもが思い通りでなかったとしても、悪いことばかりではないでしょう。なのにいつも不満そう」
帝位を手に入れる過程とその後の父親との関係も理想通りではなかったとしても、彼は確かに皇帝としての功績を刻んでいる。
十年前まで頻発していたしていた領主同士の揉め事や諍いは、お互いが私兵を出して小競り合いをするまで発展することはほどんどなくなった。そのせいで物の値が乱高下すること減り、放置されていた悪路も整えられて新しい道も築かれて市井の暮らしもましになった。
安定するにはまだ時間はかかるだろうが、エドゥアルトの治世はおおむね民には好意的に受け入れられている。
「……誰も彼もが俺が隙を見せるのを待っている気がして落ち着かないんだ。毎日、毎日、あいつ等が腹の底で何を狙っているのか考えているのに、思うように事は進まない。不満しかないさ」
「エド、そういう所を変えないと、身がもたないわ」
エドゥアルトがこの十年で疲弊しきっているのは明らかで、いつまでもこんな状態ではその内張り詰めている糸が切れてしまう。
「……どうしていいのか俺自身にもわからない。生きてる間にどれだけ国を整えられるんだろうな。その子に後を託せるなら少しは楽になる気はするんだ」
エドゥアルトの視線がヴェラの腹部に向けられる。
「この子があなたの理想通りでなかったらどうするの?」
彼が望んでいるのは、政に秀でた子だ。
そうでなければ、この子はこの王宮でどんな生き方をするのか憂いはあった。
「それはそれで仕方ないさ。父上のようにはならないから安心してくれ。……不安ならここに残って俺を見張ってくれてもいいぞ」
「あなたが子供を蔑ろにするとは思ってないわ。それに、約束でしょう。私はここにはいられない」
「いたってかまわないだろう。側にいてくれるだけでいいんだ。昔も、今も」
「……だから、一緒にいられないのよ。ここにいる以上はそれだけではすまないでしょう。私は修復士なのよ。それ以外の仕事はする気はないし、できもしないわ。今だってこの子のための贈り物の礼状すら書けないのよ」
貴族達からの贈り物への礼状は、侍女のナタリアが全て引き受けてくれている。身重である事が第一の理由ではあるものの、相手の顔も立ち位置も知らない自分はいずれにしても誰かに文面を考えてもらわねばならない。
後ろ盾となる血脈もなければ、幼い頃から貴族として生きて身に染みついた慣習というのは自分にはない。それはいくら知識を身につけても付け焼き刃でしかなく、空回るのが目に見えている。
書物の修復や写本にかける時間を潰してまで、貴族社会に馴染もうなどという気も起こらなかった。
「今、後悔していないか?」
「……後悔はこの先もしないんだろうなとは思ってるの。私が側室になることが正しい選択だったとは思わないわ。あなた、駆け引きに疲れて、一番自分が楽な選択したんだもの」
「手厳しいな。駆け引きにうんざりはしてたが、あの時、本当にヴェラしかいないと思ったんだ。それに、あのまま二度と会えなくなるのも嫌だった」
あの時、側室の話を断っていたならきっとそうなっていた。
そうしてエドゥアルトが疲れて困り果てた姿がずっと頭に残り続けて、後悔していたかもしれない。
彼はこれまで生きてきて出会った大事な友人や同僚達と同じように、会うことがなくとも幸せに生きていて欲しいと願っていた。
(なのに、なにも変わってなかった)
自分があのままエドゥアルトの側にずっといたところで、今の状況が変わったとは思えない。
結局、彼自身が変わろうとしなければどうにもならないのだ。
「ヴェラ、また面倒くさいこと考えてるだろう」
エドゥアルトがヴェラの沈黙に何か察したらしく、おもしろくなさげに言う。
「そうね。あなたのこと、考えてる。一番面倒なこと」
一瞬、適当にはぐらかそうかと思いながらも、正直に答えるとエドゥアルトは苦笑した。
「ひどい言い草だな。いいさ、面倒でもなんでも、ヴェラが俺のことを考えてるならいい」
「そんなこと言って可愛げがあるのは子供だけよ。まったく、いい歳してしょうもない人ね……あら、動いてるのかしら」
呆れかえっていると、おなかの辺りでざわざわした奇妙な感覚があった。ここ数日時折感じるこれは産婆曰く胎動らしい。
「まだ、俺には分からないか」
エドゥアルトがそっと腹に手をやりぼやく。その表情からは自分がそうあって欲しいと願っていた、満ち足りた顔をしている。
ただ、この表情を直に見ることはないと思っていた。
お互いそれぞれ自分の道を歩いて、上手くいくこともいかないことも折り合いをつけてそれなりに納得の行く人生を歩んでいけるつもりだった。
実際自分はそうであったし、エドゥアルトも皇帝の評判を耳にするかぎりやりたいことをしながら充実した日を送っているかに思えた。
「エド、前にも言ったけれど私は昔をやり直したいわけじゃないの。今、困っているあなたを助けたかっただけ。この子もあなたの思い描いていた道の先にあるわけじゃないのは、ちゃんとわかってる?」
「……わかってはいる。でも、俺はヴェラと一緒にいられた道を諦めきれないんだ」
「この話、ずっと平行線ね。……近い内にこの子のこと、皇后陛下ともお話ししたいからご予定を伺ってくれる?」
言外に自分は王宮を出る意思は変わらないことを含ませつつ、ヴェラは話題を変える。
皇帝の子の養育の権限は皇后にある。とはいえ何も言わずに子供を置いていくというわけにはいかない。
体調も安定してきたので、そろそろきちんと向き合わねばならない頃合だ。
「……明後日までには公務も一度落ち着く。何日かは休養期間に入るが、体調も崩しやすいから予定通りにはいかないかもしれない」
エドゥアルトは淡々と答えて、ため息をつく。
「仕事に戻りたくないな」
「そうしたらって言っても、行くんでしょう」
「そうだな。俺は真面目だからな。……また、来る」
そんなことをうそぶいて、エドゥアルトはうだるげに出て行ったのだった。




