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4-2

 ***


 真白い雪景色の中、薔薇達が鮮やかな橙の花弁を八重に広げ、柑橘に似た爽やかな芳香を振り撒く庭園を、オリガはひとり歩いていた。

 背後にそびえる赤茶の頑健な石造りの城は生まれ育ったアドロフ公家の城だ。

 不思議なもので、冬のたった二日しか咲かない薔薇はまるで自分を待っていたかのように毎年大輪の花を咲かせて出迎えてくれる。

 母を亡くした頃から、寂しさを紛らわせるためにさまざまな想いを薔薇に語りかけていた。

 鮮やかに咲き誇っていた花を散らせ、薬効の高い恵みの実を零し、瑞々しい緑の蔦を陽に煌めかせる姿は目を閉じずとも思い起こせる。薔薇達はいつだって静かに耳を傾けてくれている気がした。

「少しだけ、恐いの。エドゥアルト様がわたくしの所にもう帰って来こない気がして……」

 オリガはひっそりとつぶやく。

 エドゥアルトはあいかわらずヴェラの元で多くの時間を過ごしている。彼女が子供を産んだら王宮を出るつもりであることを思えば、それも仕方ない。

 ヴェラに王宮に留まって子供と一緒にいてもらうように説得できるのは、エドゥアルト以外にいないであろう。

 その後はどうなるのだろうと考えると不安ばかりが募る。

 皇帝と皇后という形式的なものはあっても、それ以外にエドゥアルトとの間に何が残るのか。彼にとって自分という存在は一体どういうものになるのか。

「でも、いいえきっと大丈夫。大丈夫よね」

 この十年、共に過ごした日々はまったくの無意味ではないはずだ。

「オリガ様、そろそろお入りになられませんか」

 庭の入り口から長兄の妻であるダリヤに声をかけられて、オリガはすっかり体が冷えていることに気付く。

 厚手の外套を着込んでも足下から体の芯へと冷気が染み込んできているのをはっきりと自覚すると、体が震えた。

「ごめんなさい。つい時間を忘れてしまって……」

 体をすくめながらオリガは城の方へ向かう。

 こんなことで体調を崩してしまったらまたみんなに心配をかけ、皇都へ戻る日程もずれて大勢が大変になってしまう。もっと暖かい季節に帰って来られればよいのだが、公務が立て込んでいるので帰省する時間と体力の余裕がない。

 体が弱い分心持ちぐらいは強くありたいけれども、この頃は気落ちすることばかりだ。

 城へと入るとふと物音がして視線を向けると、父らしき後ろ姿が二階の回廊に見えた。

「御館様がまだ外にいるのかと心配なさっていたのですよ」

 ダリヤに耳打ちされて、オリガはもう一度誰もいない回廊を見る。

 アドロフ公家当主である父は多忙で幼い頃からあまり一緒にはいられはしなかったが、いつも気にかけてくれていたのは知っていたから寂しくとも心細くはなかった。

 だから、会ったこともないエドゥアルトとの婚約を告げられた時も、父が選んだ人なら大丈夫だと確信していた。

 この城で初めて顔合わせをした十三の時、一目で彼に恋をした。

 ほんの少しでも彼に自分のことを知って欲しくて、彼のことを知りたくて時々手紙を送るようになった。

 返信を開く時の胸の高鳴り。父に会うため時々訪れていた彼への、短い挨拶ひとつに緊張していたこと。

 この城に戻ると思い出が鮮やかに蘇ってくる。

(わたくしは待つばかりだったわ)

 いつも父と会った後はすぐにエドゥアルトは帝都へとすぐに帰ってしまっていた。

 本当はもっと滞在してもらいたかったのだけれど、忙しげな彼を引き止めるには臆病な自分は断られるのが怖くてできなかった。父に頼むのもなんだか違う気がして、城の正門がよく見える窓辺からじっと見送ってはせめてもう一言だけでも声をかけたかったと落ち込んでいた。

 そんな逢瀬とも言えない対面が何度かあって、一緒に庭の薔薇を眺めることも叶わないまま嫁ぐ日がやってきてしまった。

(エドゥアルト様に想い人がいるだなんて考えもしなかったわ)

 ほんの少しでも自分から彼の本心に踏み込む勇気が持てたなら、気づけていたのか。

 エドゥアルトを心変わりさせることができたのだろうか。

 考えてもしかたないとわかっていても、いくつもの『もしも』が頭をよぎってしまう。

「さあ、早く暖まりましょう」

 ダリヤに優しく背を押されて、オリガはうつむきかけた顔を上げる。

 そうして義姉と姪達と共にくつろいだ時間を過ごし、気鬱さはまぎれた。それから眠気を覚えて居室の長椅子でひとりうつらうつらとしていた頃だった。

「ただいま戻りました!」

 長兄のマラットとその息子達と共に近くの森へ狩に出ていたイーゴルが帰ってきた。

 よく通る声ではあるもの、どことなく覇気が薄い。いい成果をあげることができなかったのだろうかと、オリガは立ち上がり息子の顔を見るため部屋を出る。

「おかえりなさい。狩は楽しかった?」

 寒さに鼻の頭を真っ赤にしたままのイーゴルは神妙な面持ちだった。

 狩の成果が出なかった時はがっかりした顔をしていても、次こそはという気勢があるのだけれど今日は様子が違う。

「……伯父上が産まれてくる赤子と親しくしてはならないと仰るのです。自分から会いに行くのはいけない、向こうからやってきてもかまうなと叱られました」

 暖かい居室に入ったイーゴルが弱々しくこぼすのに、オリガは驚く。

 長兄はエドゥアルトが父に相談もなく、無位の職人を側室に迎えたことには憤慨していたもののイーゴルにそんなことまで言うとは思わなかった。

「イーゴルは、仲良くしたいと思うのならかまわないのよ。マラットお兄様の仰ることを気にすることはないわ」

「母上はお困りになりませんか?」

 この子がこんなにも思いつめた顔をするなんて長兄は一体何を言ったのか。

 オリガはマラットにむっとしながらも、顔には出さずにイーゴルの瞳を真っ直ぐにみすえる。

「わたくしはイーゴルが優しいお兄様でいてくれたら嬉しいわ」

 けして、イーゴルの澄んだ心が曇るようなことにはなってほしくはない。母は違えど兄弟である。慈しみ合っていけないことなどひとつもない。

「本当に、よいのですか?」

「ええ。後でマラットお兄様にもわたくしは何も困らないから大丈夫だと言っておくわ」

 そう言うとやっとイーゴルの固い表情が和らいでオリガは安堵したのだった。


***


 その夜、夕餉を終えたオリガは席に残るのが父と長兄夫妻だけになってからマラットへ苦言を呈した。

 長兄は自分が子供達には仲良くして欲しいという話には、ずっと厳めしい顔をしている。

「オリガ、こういうことは最初が肝心なのだ。兄弟と言えど、長子が主で下は従。ましてやあちらは貴族ですらない。イーゴルにはもっと皇太子としての自覚をもたせねばならん」

「だからといって仲良くしてはならないなんてことないでしょう。皇太子であるからこそ、わたくしはイーゴルが人を大事にできる子であってほしいのです。わたくしが困るだなんて、そんなあの子が悲しむことまで言って酷いですわ」

「それはだな。お前はあまりにも自分の立場に頓着がなさすぎるのだ。なにひとつ皇后に口出しさせないなどあの男はお前を軽視しすぎている!」

 マラットが拳を樫のテーブルに打ち付ける音と振動にオリガは思わず目を丸くするが萎縮することなく見返す。

「お兄様、それは陛下に対して失礼な仰り方です。それに、エドゥアルト様はわたくしのことはけして軽んじておられません」

 侍女達も、エドゥアルトが皇后に側室周りのことを任せないのは酷いことだというけれど、自分に側室を選ぶということは難しかっただろう。

「……皇帝の子の養育は母が誰であろうと皇后が宰領するものだ。それは皇帝といえど容易に踏み込んではならん。無論、お前が軽々しく口出ししていいものではない」

 マラットよりも先に父のパーヴェルが厳かにそう告げて、その場がしんと静まる。

 兄を諫めつつも、自分が思っているよりもずっと大きな責任を負っているのだと言い聞かせられている気がした。

「わたくしはただ、イーゴルが兄弟と仲良くしたいという気持ちを大事にしてほしいだけなの」

 一旦マラットが静かになったところで、オリガは父に目を向ける。

「お前がそうしたいのならそれに従うまでだ。イーゴルには、アドロフ公家の後ろ盾がある。マラット、それだけでは不足だと思うか?」

「そうは思っていません……」

 パーヴェルに言いくるめられたマラットが、むすっとしながらぼやく。

「結局、このひとはかわいい妹が大事にされているか心配なだけですのよ」

 静かに成り行きを見ていたダリヤがそう言うと、不機嫌な顔で酒をあおっていたマラットがむせこむ。

 どこか重苦しい空気はそれで多少は緩んだ。

「そ、そういう話ではない!」

「あら、そういうお話しでもあるでしょう。あなたオリガ様がいらっしゃるまでずいぶん気を揉んで事によっては自分が帝都まで行くとまで」

「嫁ぎ先で妹が不当な扱いを受けるのなら、断固抗議するのが兄たる務めだ。俺だけではない。他の兄弟もそのつもりだ。オリガ、何かあれば俺達はいつでも駆けつけるからな」

 マラットの強い言葉に対して、オリガは気持ちだけ受け取っておくと返答する。

 家族から大事に思われていることはよく分かってはいる。

 だからこそイーゴルがこれから産まれてくる兄弟を、大切に想っていることが嬉しい。

 ただそれだけのことなのに、身分や立場はいつも簡単なことをとても難しくしてしまう。

 オリガは最後に冷めた紅茶を一口だけ飲んで、おやすみなさいと一言だけ告げて席を立った。

 それから帝都に戻ってもよくも悪くも何もエドゥアルトとの間は変わらず、時ばかりが過ぎるのだった。

 

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