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午前の朝議を終えたエドゥアルトは執務室に戻って、椅子に深く座ってぼんやりとしていた。
これといって議題もなく定例報告だけの朝議は頭を使うこともなかった。午後の朝議は朝からちらついていた雪が本降りになってきたので多くのの官吏と大臣は宿舎や屋敷に戻ったのでなくなった。
いくらか片付けないといけない書類はあっても、急ぎでもないのであまりやる気もしない。一昨日からオリガはイーゴルを連れて里帰りしているので、この後これといって予定もない。
冬時のぽっかりと空いた時間は何もかもが虚しくなる。
心身を削り政務に打ち込んでも、一体どれほどのものが自分が死んだ後に残るのだろう。イーゴルが成長するにつれて、その思いはどんどん強くなってきていた。
イーゴルは政に向かない。帝位と一緒に自分の作り上げた体制を引き渡すのは無理だ。
そうして、自分の期待通りでなかった子を持った父の気持ちがうっすらと分かると思ってしまう自分が嫌だった。
父である先帝は九公家を中心に諸侯達を纏めきれず、優れた武人として名を上げる場所もなく子供すら続けて夭折してしまい何もかもが上手くいっていなかった。そしてやっと五つの年を越えられた息子は武人としては落ちこぼれだった。
あらゆることが上手くいっていなかった父は常に苛立っていた。そしてことあるごとに武を重んじる父と、学問に打ち込む自分は意見がぶつありあった。
自分がイーゴルのように明るく素直であれば何か違っていたかもしれないが、あいにく可愛げというものがまったくなかった自覚は十二分にある。
武に頼らずとも国は纏められると示すために、反九公家派を主軸に人脈を広げ時には九公家派も取り込みながら父の足下崩していった。ついに帝位を手に入れてもなお、父は自分を認めようとしなかった。
ああはなるまいと思っていたはずだった。
それなのにどうしてそんなことも分からないのだろうとイーゴルに小さな苛立ちを覚え、アドロフ公に結局敵わなかった敗北の悔しさがさらに息子への感情を曇らせていた。
イーゴルへの眩いばかりの純粋な敬意と好意を受けるたびに、罪悪感に苛まれ自分自身の嫌悪が募る。
自分は父とは違うのだと言い聞かせているうちに、自分が本当に息子を愛しているのか自信がなくなってくる。
オリガに対してもそうだ。
望んだ婚姻ではなかった。政略などまるでわからずに嫁いで来て無邪気に自分を慕ってくる姿に最初に覚えたのは同情だった。
アドロフ公のことだから皇家に嫁がせるなら色々と入れ知恵して送り出すだろうと思っていたが、オリガ自身は本当に政など知らない様子だった。さすがに侍女達は厄介そうな者ばかりつけてきたが些末なことだ。
十年もすれば共に過ごした時間の分だけ愛情は積み重なりはしたが、よほど気が合わない相手でない限り長い時間を共に過ごせば誰に対しても自然と抱くような愛着だ。
オリガもイーゴルも純粋で善良だ。ふたりの期待を裏切らないいい夫、いい父親というのははたして本当の自分なのかわからない。
側近達や貴族に対してもそれぞれの求める君主像を演じていることもあいまって、時を経るごとに自分というものがよくわからなくなってきていた。
「……今日は小宮にいる」
エドゥアルトはやる気のしない書類を幾つか持ってゆるりと立ち上がり、執務室の外で控えている近衛に小宮へ行くことを告げた。
ひとたび廊下に出れば冷えた空気が肌をなぜ肺にまで入り込んでくる。後からついてくる近衛の足音が一本道に入った所で止まる。
自分の靴音しかしない廊下を黙々と歩いていると、どことなく夢の中にいるような感覚に陥る。
ある意味、これは夢なのかもしれない。過去に失ってしまったものが、この先にはある。
ヴェラと一緒にいたとき、誰を信じられなくとも彼女のことは信じられていたし、父に愛されていなくとも彼女から愛されていれば安心できた。
初めてヴェラに会った時、目的はたまたま目にした修復済みの書物の装丁の見事さに惹かれて工房へ忍び込んだのだ。工房は想像していたよりもずっと騒がしくて色々な匂いがしていた。
どたどたと重たい荷物を運ぶ足音や何かを打ち付ける音、紙やインク、皮に何かの油のようなよく分からない匂いが混ざり合う空間にわくわくした感情は今でも思い出せる。
そんな自分を最初に見つけたのがヴェラの養母だった。きっかけだった書物の修復を担当は彼女だったのだ。
名乗らずに工房の見学をしたいと申し出ると、彼女は非常に面倒くさいといった顔で自分を頭のてっぺんから爪先まで見て眉根を寄せて言った。
『かまいはしませんが、案内はつけさせていただきますよエド坊ちゃま』
一目で正体は知られてしまったが、かといって深くは訊かないという態だった。そうして彼女はヴェラを呼び、案内役にしたのだ。
最初は年下の少女の子守を押しつけられたようで不満だったが、貪るように本を読み膨大な知識を持つヴェラと話すのは面白かった。いつの間にか工房に行くのはヴェラに会うためになっていた。
知識を分け合い、議論を戦わせしょうもない雑学で笑って過ごしていた頃のことは今でも忘れられない。
この十年、何度工房へ向かおうとしただろうか。ヴェラがいないと分かっていても、もしかしたらと思う気持ちはぬぐえなかった。
そして、代わりに通い詰めていた神殿でヴェラに再会できた。
エドゥアルトは衛兵が守る皇家の居住空間へ続く扉を抜け、さらに小宮へと続く廊に繋がる扉をくぐる。
小宮は歴代の皇帝が側室のために作ったもので、王宮の裏からそれぞれの小宮へ雪除けの木製の帳が降りた柱廊が続いている。緩やかだった足取りがやっとしっかりしてくる。
工房へ向かっていた子供の頃を思い出す。いいことがあった日も、腹立たしいことがあった日も、無性に寂しい日も真っ先に思い浮かんでいたのはヴェラの姿で、彼女と話したかった。
衛兵ひとりが護る扉の向こうへ行き、音もなく使用人達が動く気配を感じながらエドゥアルトは冷たい空気を忍び込ませぬように、奥の部屋の扉を素早く通る。
「もう昼食の時間?」
暖炉前の長椅子で本を読んでいるヴェラが顔も上げずに問うてくる。
「……木材の奉納記録か。一体いつのだ」
エドゥアルトはその隣に腰を下ろして本を覗き込む。
「二百三十八年前ね。母さんが昔、修復したのよ。……ほら、表紙の隅に母さんの印が入ってる」
ヴェラが表紙を向けて修復の年の横にある独特の崩し文字が一字ある。職人は名前は書かないものの、それぞれ自分の記号を持っているという。
「良く見つけたな」
「背表紙の処理が母さんっぽいなと思ったら当たりだったの。……駄目ね。全然集中力が持たなくてまだ半分も確認できてないわ」
ヴェラがため息をついて椅子に深くもたれかかる。その瞼は眠たげに落ちている。このところなにをしていても途中で眠くなるとぼやく彼女の腹はまだ薄く、まだ子供ができたとはにわかには信じられない。
「……王宮にある本を全部読むまでいないか?」
「そんなの一生かかるでしょう。約束は約束よ」
「あいかわらず融通が利かないな」
「あなたもあいかわらずわがままね」
いつもなら冷ややかな眼差しを向けてきそうなヴェラは、今は眠気にぐずる幼子のような顔つきでエドゥアルトはつい笑ってしまう。
「俺はそんなにわがままだったか?」
言いたいことはなんでも言う子供だった覚えはあるが、いまひとつしっくりと来なかった。
「なんでも自分の思い通りにしないと気がすまなかったでしょう。自分がこうしたいと思ったら、絶対に譲らないし、やりとげるのは、まあすごいとは思ってるわ」
でも、とヴェラは続ける。
「どうしたって思い通りにならないものはあるんだから、いつまでもこだわるのはよくないわ」
ゆるやかに突き放す言い方だったが、エドゥアルトはかまわずヴェラに肩を寄せる。
「……それでも、俺の望みを叶えてくれただろう」
条件付でも側室になることを受け入れてくれたのだから、期待するなというほうが無理だ。
「あなたの欲しいのはこっちで、それとこれとは別。……ここに赤ちゃんがいるの不思議だわ。自分の中に違う人間がいるのを考えると少し怖くもあるわね」
ヴェラは自分の腹部を撫でながら怪訝そうな顔をしている。
「変に考えすぎる癖も変わらないな。まだ昼食まで時間があるから、寝るか?」
ヴェラが考え事をしながらも舟を漕ぎ始めてエドゥアルトは腰を上げた。
彼女の方こそ自分の考えを他人の意見でやすやすと曲げないのをよく知っているからこそ、これ以上話を引き延ばすのは無駄だと分かっている。
まだ物言いたげだったヴェラは眠気には勝てなかったらしく、そのまま長椅子に体を横たえる。エドゥアルトは隅に置いてあったクッションをヴェラの頭の下へ置き、膝掛けにしていた毛布を着せかけた。
困っているのを放っておけなかった。
ヴェラが申し入れを受け入れてくれた理由はそれだけしか語らなかった。彼女自身、そんな理由で重大な決断をしたことに戸惑っている様子だった。
だから期待してしまう。時間をかければ昔のようなふたりに戻れるかもしれないと。
(わがままといえばそうか)
政を引き継げる子が必要だとか、貴族同士の軋轢を生じさせないためだとか、表向きの理屈をいくら並べ立てたところで結局ヴェラに側にいて欲しいだけなのだ。
だけれど、よくわからなくなってしまった自分自身のことで確かなことなどそれぐらいしかない。
ヴェラと、これから産まれてくる子供。十年前にぼんやり思い描いていた先と同じようで、何もかもが違う。
エドゥアルトはやる気のしない書類を机に投げ出し、椅子に座ってヴェラの寝顔を眺める。
もう一度手放すなど無理だというのに、止める術は思いつかずやるせないため息がこぼれ落ちるだけだった。