3-2
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うっすらと雪が積もり始める頃、昼食会は開かれた。
暖炉に赤々と火が燃える大広間には軽食を並べたテーブルが幾つか用意され、招待客はソファーに座って暖かな紅茶や給仕が運んでくる軽食を手に銘々挨拶や歓談にふける。
夜会ほど堅苦しくもなければ派手さもなく、酒も紅茶に垂らす程度だ。皇帝と皇太子はおらず、皇后主催の規模の大きい茶会に近い形式をとったのはオリガの指示だった。
(お困りにはなっていないかしら)
暖炉に近いソファーに座るオリガは入れ替わり立ち替わりやってくる招待客と会話をしながら、奥の席に座るヴェラを人々の隙間から見る。
最初に挨拶したときにはヴェラは不安気だったが、側にいる侍女のナタリアが上手くとりなしているようで問題はなさそうだ。
招待客も自分に気を使ってか、あまりヴェラの元では長居せず遠巻きに視線を送っては何やら話している。
(あまり居心地のいいものでもありませんわね)
昼食会は一刻足らずの時間ではあるが、慣れないヴェラにとってはもっと長く感じているかもしれない。
それから大きな問題も起きずに、昼食会が終わりを迎えた。
大広間から招待客達がのんびりと談笑しながら出て行くのを見送るオリガは、ほっとしながら侍女と共に最後まで残っているヴェラとふと、目が合った。
「本日は私のためにこのような場を設けていただきありがとうございます」
すぐ側までやってきたヴェラがかしこまる。
挨拶の時はすぐに離れてしまっていたからゆっくり顔を合わせるのはこれが初めてだ。
ヴェラはそれほど背は高くなく、オリガが少しだけ視線を上げる程度ぐらいしか変わらない。
編み込んで背に流した淡い亜麻色の髪は初めて会った時と変わらず美しく、硬質な面立ちを柔らかく見せている。華美すぎない薄紫のドレスは彼女の知的で落ち着いた雰囲気によく似合っていた。
つい最近まで市井で職人をしていたとは誰も思えないだろう。
「お疲れの所申し訳ないのだけれど、少しだけお時間よろしいかしら?」
オリガがそう言うと、ヴェラは戸惑った表情をしながらも言われるままに大広間のすぐ隣の小部屋へとついてくる。
この小部屋はいつもオリガが夜会などで、休息を取るのに使っていて横になって休める大きさの長椅子がひとつとその側にサイドテーブル、侍女が待機するための小ぶりな長椅子がひとつだけある。
オリガは侍女達に外で待つように言い、大きい方の長椅子へ腰を下ろす。
「こちらにいらっしゃって」
向かいの長椅子の方へと足を向けていたヴェラをオリガは隣へ誘う。
「……失礼します」
近すぎずかといって遠すぎない距離に腰を下ろしたヴェラの横顔は緊張している。
「どうぞ楽になさって。……わたくし、ずっとあなたとどう関わっていいか考えていたのだけれど、わからなくて。ずっと同じ場所に住んでいるのに、ゆっくりお話しすることもないのもなんだか不思議でしょう。だからもう思い切って一度ふたりきりでお話ししてみようと思いましたの」
昼食会の準備を進めながら、何度もヴェラとのことは考えていた。
やはりこのまま距離を置いた関係でいるのは、落ち着かなかった。
この先子供が産まれればイーゴルとは兄弟になるのだし、母親同士がお互いをいないふりをするような関係はよくないと思うのだ。
ライサには眉を顰めて皇后と側室のでは子供を含めて立場は違うのだから、上下関係を明確にしたいわけでないならこのままでいいと言われたものの自分の意見を押し通した。
「私も皇后陛下には一度だけでもきちんとお話ししなければと思ってはいましたが、何を話すべきかわからなくて……」
「わたくしもよくは考えていませんでしたわ」
お互い困り顔を見合わせて苦笑する。
「……毎日、書物の修復をなさっているそうですわね」
不意にヴェラの節くれ立った手が目にとまる。彼女が長く職人として過ごしてきた時間の全てが、そこに集約されているように見えた。
「他にできることもやることもないので……書物を読んでいるだけの時間が多い日もあります」
やっと会話の糸口が見えて、オリガはほっとする。
「何か、お勉強をなさっているの?」
「学ぶと言うよりは、文字を追っていると落ち着くのです。だから、歴史書でも料理の作り方でもなんでもただ読むだけです。子供の時からよく文字を食べていると皆に言われていました」
「だけれど、それだけ沢山読んでいると色々なことを学べるでしょう」
「どれだけ学んだとしても、知識を生かすことは難しいです。ただ、その知識を生かせる人に書物を残す修復士の仕事ができることは幸いです」
学ぶことすら大変だったオリガには知識を得た先というのは想像するのは難しかったが、ヴェラが修復士という仕事を誇りを持っていることはよく分かった。
それでも彼女は側室になることを受け入れた。
修復士としての仕事は王宮にいても出来るとはいえ、やはり工房にいるよりできることは少ないはずだ。
「修復に使う道具が足りないだとか、人手が欲しいなどありましたら、遠慮なく仰ってくださいね。読むための本ももちろん足りなくなったら新しいものを用意しますわ」
「今、用意していただいている物で十分です。私がさせていただいているのも、工房に回すのはいつでもいいものばかりですから。読む本もたくさんありますし、過分なご配慮を頂いております」
「……そうですわよね。エドゥアルト様が手配なさっているのだから、わたくしのできことなどとっくになさっているわ」
ひとりで空回りしているのが恥ずかしくなってオリガは縮こまる。
エドゥアルトなら言うまでもなく必要な物や足りないものは取りそろえてしまっているだろう。
「皇后陛下、お心遣いいただきとてもありがたく思っていますので……」
ヴェラが慌ててそう言うのに、オリガは自分は彼女と何を話したかったか余計にわからなくなってしまい沈黙する。
「……いけませんわね。誘ったのはわたくしの方なのに」
これではヴェラを困らせるだけだと落ち込む。
「私の方から皇后陛下にというのは難しかったのでお声をかけていただけただけで、助かりました。また次の機会に、お話ししたいことを考えておくのですが、よろしいですか?」
「ええ。もちろん。わたくしも考えておきますわ」
そうオリガが答えると、ヴェラが安堵した表情を見せながらもふと思案するように目を伏せる。
「……次は私の方からお声がけいたしてもよろしいでしょうか?」
静かに告げるヴェラの声には微かな陰りを感じる。
緊張しているような固さだけでなく、どことなく薄暗く沈んだ感情が表情や声の裏に滲んで見えた。暖かな陽射しの側にあるほんのり冷たい影のような寂しげな暗さだ。
「それは、もちろんかまいませんわ。あの、ひとつだけ、知りたいことがありましたの。……あなたは、ご自分の意志で側室になるとお決めになったのです?」
躊躇いながらも、オリガは疑念を口にする。
「はい。どうしても無理だと言えば、陛下はお許しくださったでしょうが、私はそうせず決断しました」
仕事の受注かのように淡々と答えるヴェラに、どんな感情も見えなかった。
「そうですのね。不躾なことを訊いてしまってごめんなさい。お誘い、お待ちしていますわ」
「はい。本日は本当にありがとうございました。失礼します」
ヴェラが丁重に挨拶して部屋を出ると、入れ替わるように侍女と使用人達が入ってくる。
「オリガ様、いかがでした? 何か失礼なことを言われたりしておりませんわよね」
ライサが心配げに傍らへやってくるのにオリガは頭を振る。
「むしろわたくしの方が失礼だったかもしれないわ」
使用人から紅茶を受け取って、オリガはため息をつく。
まともな会話を用意出来なかった上に、あまり触れてはいけない何かに踏み込んでしまった気がする。
(……大事なお話があるのかしら)
ヴェラが次は彼女の方から誘うと言った時の表情を思い出して、胸がざわつく。
あまりいい話題ではなさそうで気が重くなるばかりだったが、侍女達にはこれ以上気を揉ませられないとオリガは零れかけたため息を紅茶と一緒に呑み込むのだった。
***
昼食会からひと月近く経つ頃、冬が腰を落ち着けて雪は膝丈まで積もり、朝な夕などこからともなく忍び込んでくる冷たい空気が肌を刺すようになっていた。
「やっと顔色がよくなってきたな」
昼食の席で、エドゥアルトが安堵した顔を見せるのに、オリガはこくりとうなずく。
「心配をおかけしてしまって申し訳ありません」
昼食会の後十日もしないうちに体調を崩し、ようやく回復したと思えば月の触りが重くそれからすぐにまた数日熱を出しと十日以上は寝付いて、衰えた体力が戻るのに半月以上かかっていた。
この体の弱さはつくづく嫌になる。
「母上がお元気になられてよかったです」
体調が悪い間、何かと様子を見に来てくれていたイーゴルも嬉しそうだった。
「ふたりに、ひとつ知らせることがある。ヴェラが身籠もった」
そうして昼食も終わりかけの頃、エドゥアルトがそう言って、沈黙が降りる。
喜ばしい報せである。ただ、すぐに言祝ぎはできなかった。
子供は難しいと諦めていたはずなのに、本当に自分には無理なのだともう一度深く胸に突きさしてくる絶望に声が呑み込まれてしまう。
「……おめでとうございます。イーゴル、あなたはお兄様になるのよ。産まれてきたら大事にしてあげて」
オリガは戸惑うイーゴルに気付いて、どうにか声を絞り出し微笑みを作る。
「もちろんです! 赤子はいつ産まれるのですか?」
初めての兄弟に喜びを溢れさせるイーゴルにオリガはほっとしながら、エドゥアルトを見る。
「冬籠もりの祭事の前の予定だそうだ。イーゴルは、良き兄になれそうだな」
「はい! 良き兄となるため、もっと強くなれるよう精進いたします!」
きっとイーゴルは言葉通り、兄弟を大切にする優しい兄となるだろうと思うと心が和んだ。ひとり息子の優しさと明るさは、いつも安らぎを与えてくれる。
「イーゴル、母上とふたりだけで話したいが、いいだろうか」
「はい。もちろんです。では、俺は街路の雪かきの手伝いに行ってまいります」
そうして食事も終えた時、エドゥアルトがイーゴルを退席させてその後に部屋の端に控える使用人まで部屋の外に出してしまう。
夫のふたりだけの空間はひとり息子の灯が消えて急に暗く冷たいものになった。
「とても、大事なことですのね」
いつになく、張り詰めた表情のエドゥアルトにオリガは不安になる。
「……ヴェラは、無条件で側室になってくれたわけではないんだ。ふたつの約束が守れるなら側室になってもいいと言って、俺はそれに応じた。ひとつは、一年以内に子ができなければ側室をやめること」
エドゥアルトが側室を迎えた最大の理由であるので、それは納得できる。
正直、別の側室をとなるとまた思い悩むことが新しくできるのでその約束が果たされなかったことはよかったと思う。
「もうひとつは、子供を産んだら、ヴェラだけ王宮から出ることだった。乳母も養育係もいるなら、貴族ですらない人間が下手に養育に関わらない方がいいだろうとな。子供が会いたいというなら、もちろん会うが自分からは望まないということだ」
淡々と告げながらも、エドゥアルトの表情は重い。
最初から受け入れがたい条件だったのだろう。それでも、ヴェラを側室に迎えるため約束してしまったのだ。
「……産まれる頃には気がお変わりになるのでは?」
子供が産まれてすぐに離ればなれになるなど、自分ならば耐えられない。イーゴルの時にも、乳母も養育係もいたけれど一日に何度も顔を見させてもらっていたことはいまだに良く覚えている。
産後に体調がなかなか回復せず、抱くことさえさせてもらえなかったけれど眺めて小さい指や柔らかい頬に触れるだけでも幸せだった。
初めて腕に抱いたときは腕が痺れるまで離せなかったし、できればもっとお世話もしたかったと未だに心残りがある。
「昔から融通がきかないからな。一度決めたら通すだろう。ヴェラからも、オリガにはすぐに約束のことを言うように釘を刺された。産まれるまでに一度オリガと話がしたいということだ」
そうは言っても、エドゥアルトが人払いをしてこの話をしているのは、ヴェラの気が変わることへの期待が透けて見えた。
(エドゥアルト様は、ヴェラ様にいて欲しいのね)
ひとつめの約束が果たされなくてもエドゥアルトはもう他に側室は求めなかっただろう。
夫にとってのヴェラの存在の重さをひしひしと感じて、オリガ視線を落とす。
「まだ、このお話は誰にもしない方がよろしいですわね」
「……そうだな。そうしてもらったほうがいい」
ヴェラが王宮から離れた所でエドゥアルトの思いは変わることはないのだ。
自分がエドゥアルトに出会った頃から恋を抱いているように、彼もまたヴェラを想い続けている。
(ヴェラ様はどうなのかしら)
何も感情が残っていなければ、エドゥアルトの子を産んでもいいとは思わないはずだ。
それでも彼女はエドゥアルトどころか、彼との子供からも離れようとしている。
(思いとどまっていただかないと)
産まれてくる子供の側に母親がいないことが一番の気がかりだ。
病で母を亡くして毎日泣いていた五つの頃の記憶が胸に押し寄せて来て、喉の奥が苦しくなる。
苦く息苦しい感情に波に溺れそうになりながらも、これから産まれてくる小さな命ができるだけ哀しい思いをしないように願わずにいられなかった――。