3-1
オリガは鏡に映る自分の表情が硬いことにため息をつく。
十年一緒にいる夫に会うのに、初対面の時のような心持ちになる日が来るとは思わなかった。
「オリガ様ほど愛らしくたおやかな姫君など他にはおられないのですから、そんなお顔をなさらないで普段通り陛下とお過ごしなさいませ」
ライサから励ましと叱咤を受けてオリガは困る。
その普段通りというのが難しいのだ。
エドゥアルトが側室を迎えてひと月あまりになる。政務が落ち着いたらしく、この頃は親子三人で昼食をとることが多い。
側室がいなくてもここしばらく多忙だったので一緒にいる時間は増えているぐらいだ。イーゴルもエドゥアルトの元で実務を学ぶ時間が長くなっている。
だが、イーゴルは父親と一緒にいられる嬉しさ半分、学ぶ内容の難しさに疲れが半分といった具合だ。
十歳になったら任される予定の直轄領の運営は有能な代官がいるので時々報告書を確認するぐらいでよいらしいが、報告書の読み解き方が難しくて四苦八苦している。
朝議も見学だけしているものの、エドゥアルトと大臣達との議論の応酬は言葉が早くて内容も難しくまったくついていけないらしい。そして細々した皇帝の執務を横で見ていて、自分にできるか不安そうである。
エドゥアルトはまだ始めたばかりであるし、皇帝としての執務も改革途中なので自らやることが多いだけでイーゴルが跡を継ぐ頃にはもっと減っているとは言っているが。
(やっぱり補佐してくれる弟か妹が必要ね)
いつも元気な息子が学習時間が長い日にぐったりしているのを見ていると、補佐の必要性を実感する。
そんな調子なので、エドゥアルトもイーゴルには無理をさせすぎないよう一日中武芸に打ち込める日を設けている。今日もその日で、イーゴルは遠駆けに出ているので昼食はエドゥアルトとふたりきりだった。
いつも使っているよりは小さな部屋へと案内され、ますます気が重くなる。
柔らかな光が差し込む雪花石膏の嵌まった窓辺に、小ぶりな丸テーブルが置かれ銀食器と大きな白磁の皿が整列している。
気を利かせてくれてはいるのだろうけれど、今は夫とこの距離で会話することに身構えてしまう。
「すまない。待たせた」
しばらくして、エドゥアルトがやってくる。
「お忙しかったのでしょう。気になさらないで」
「思ったより朝議が長引いてしまったんだ。時間をかけた分、悪くない方針にまとまった」
政務が落ち着いたからなのか、それとも他の理由なのかこの頃エドゥアルトの表情は明るい。
「そうでしたのね。……それは少しでいいわ」
使用人が皿へパンと焼いた兎肉や塩漬けの野菜を少量ずつ置いていくのに、オリガは肉だけ減らしてもらう。
「寒くなると食欲が落ちるな」
「食べたいとは思うのですけれど、難しいですわ」
何気ない会話も夫が何を考えているのかよくわからなくて緊張してしまう。
食が細いことは嫁いで来たときからエドゥアルトは気にかけてくれていた。最初の頃は生家の料理と違う味付けになかなか馴染めなかったのもあって、本当に食べきることが難しかった。
王宮に馴染まなければと料理に進言しようとライサ達も止めたが、ひと月も経つ前にエドゥアルトが食事は全て皇后に合わせるようにと命じた。
そんなことをしたら今度はエドゥアルトの口に合わないのではと言えば、彼は好き嫌いはないから大丈夫だと微笑んだ。
エドゥアルトはずっと優しかった。王宮での生活が快適であるように、いつでも気にかけてくれていた。
けれども、エドゥアルトは彼自身の感情を表に出すことはなかった。
人は誰しも苛立ちや不安、哀しみというものがあるはずなのに、いつも穏やかに微笑むばかりだったと今さらながらに気付いてしまえば、エドゥアルトの本心がわからなくなってしまった。
その笑顔の裏で、彼は何を思っていたのだろう。
心の陰りを見せないのは優しさからなのか、それとも自分が頼りないからなのか。両方かもしれない。
「今年はスグリが豊作だったから、少しでも食欲が増すように色々と使ってもらうといい」
エドゥアルトは好物を覚えていてくれるけれど、自分は彼の好きなものはあまり知らなかった。
「ええ。昨日はお茶会にスグリのパイを頂きましたのよ。……あの、そろそろヴェラ様も社交の場にお出にならないのかと皆様方気になさっていたのですけれど」
時々茶会で話題に上った些細な困りごとなどはエドゥアルトに相談している。今日は話題が話題なだけに緊張する。
ひと月もすればヴェラが何らかの社交の場に出てくるだろうと、誰しもがいつなのか自分達が呼ばれるのかそわそわしている。
本格的に雪が降り積もる頃には社交の場はほとんどなくなってしまうので、痺れを切らした人々がやんわりとオリガにどうなっているのか訊ねてきていた。
「……やはりそういう話が出てくるか。侍女のナタリアと後で話してみるか」
「よろしければわたくしの方でもご趣味が会いそうな方に声をかけましょうか」
貴族であければ生家での繋がりが元々あるのでそこから交友関係を広げられるが、平民のヴェラにはとっかかりといえば伯爵家の孫娘である侍女だけである。
だがそこから人を集めても共通の話題となると生まれ育った環境が違いすぎて難しいだろう。
「長く話すより挨拶程度の方がいいだろう。人数も少なすぎない方がいいか」
「それなら、昼食会をするのはいかがでしょう」
「そうだな。雪が積もるまでに一度開くか。大まかに招待する人数と日取りを俺が決めた後、招待客の半分はオリガに頼んでかまわないか?」
「ええ。もちろん。ご年齢は近い方がよろしいかしら」
「年齢層は幅広い方がいい。……いつも助かる」
少し申し訳なさそうに言うエドゥアルトに、オリガは皇后として当然のことだからと微笑む。
ヴェラのことは正直、自分も気になっている。
最低限の関わりだけの方がいいと思ってはいたものの、最初の挨拶以降顔を合せていないのが現状である。
皇后という立場上、もっとヴェラの身の周りに気をつかった方がよいのだろうかとライサに訊ねると、侍女も使用人もエドゥアルトが全て決めてしまったのでやることがないとのことだった。
歴代の皇后と側室がどういう関係であったのかも、少し勉強してみたものの跡目争いの話が恐ろしすぎる上に、政に関わる部分が難しすぎてすぐに調べるのをやめてしまった。
結局、皇后として自分は役に立っているのか不安になっただけだった。
個人的にも、ヴェラがどんな人なのか知りたいという気持ちも大きくなっていた。気にしないようにと思えば思うほど、気になってしまう。
(ずっと以前から側室を探してらした)
最近になって、エドゥアルトが側室をずいぶん前から探していたようだという話が零れ出ていた。
最初は有力貴族の中から候補を立てていたものの、なかなか決め手になるものがなく頓挫しかけていていたという。
何も知らず気づきもしなかったものだから、その話を茶会の時に聞いた時には驚いた。その場は少し気まずいものになったが、どうにかやりすごした。
エドゥアルトが側室を必要としていたことは理解出来る。ただ、ヴェラは何を思い側室になることにしたのだろう。
皇帝の命を断ることなどよほどの貴族でも難しいが、エドゥアルトは無理強いなどしない人のはずだ。
側室になってからも一日中書物の修復をして過ごしているという話が流れてくるヴェラは、職人としての暮らしを続けたかったのではないのかとも思えるのだが。
「今年は雪が積もるのが遅いな」
昼食を終えて、執務に戻るエドゥアルトをオリガは途中まで見送ることになった。
「このまま春を迎えられたよいのですけれど、そうはいきませんわね」
「冷えが厳しくなってくるからな、体調には気をつけてくれ」
「エドゥアルト様もお体には気をつけて」
執務室がある棟へと続く長い廊下で、オリガはエドゥアルトの背中を見送る。
側室を迎えても変わらず優しく、気にかけてくれるそれだけ十分だと何度自分に言い聞かせただろう。
それなのに、会う度に心細さばかりが募る。
側にいても、言葉を交わしてもエドゥアルトの心の内に手は届かず、踏み込むこともできない。
見えない扉に触れることすら怖い。
怖いのに、エドゥアルトの本音が知りたい。
相反する感情に一歩も動けない内に、エドゥアルトの存在がどんどん遠くなっていく。
ひとりで広いベッドで眠るよりも、一緒にいるときの方がずっと寂しいことがあるとは思いもしなかった。
(わたくしは、まだあなたに恋をしているの)
初恋の終わりの気配から逃げるようにオリガは背を向け、侍女達の元へと戻って行ったのだった。