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初恋  作者: 天海りく
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 小宮の書棚に囲まれた部屋で、ヴェラは写本をしていた手を止めてため息をこぼす。

 本に囲まれて朽ちかけた書物の修復をし、複製を作る作業に没頭していれば今までと大して変わらない日常を送れるかもしれないというのは甘い考えだった。

 まだここを住まいとして六日ほどだが、食事や身支度、掃除洗濯など今まで自分で全部やっていたことを何一つしないのに慣れない。

 全ては一月前、早朝に大神殿へ行ったことから始まった――。

 

***


 患っていた養母が亡くなり、家の片付けもやっとひと段落した日の夜明け前だった。

 ふと眠りから覚めて外の暗さに寝直そうと思ったのだが、眠れなかった。ひとり家でじっともしておられずヴェラは大神殿へ向かった。

 赤煉瓦で築き上げられた帝都はまだ闇の中で一瞬ひとり歩きを迷ったものの、肌に触れるひんやりとした空気の心地よさに躊躇いは消えた。次第に暗闇は薄らぎ、濃紺の空の下に大神殿の七つの尖塔が見えてくる。

 一日中解放されている広い礼拝堂には宿に泊まり損ねたり家を無くした者が、一晩中燭台の火が灯されている地母神像から離れた暗い長椅子で眠っている。冬前なのでそれほど人の数は多くない。

 ヴェラは眠るつもりがなかったので、できるだけ足音を立てないようにそろりと地母神像の近くに座る。

 ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎をぼんやりと目に映しながら養母を思う。

 両親を亡くして行く宛のない赤子だった自分を引き取り女手ひとつで育ててくれた養母は、書物の修復士の師でもあった。

 往復半年近くもかかる遠方の工房に行ってからこの十年余りで三度しか帰ってこれなかった。病に倒れたと聞いて慌てて帰りついた頃には状態は悪く、返しきれていない恩がまだ残っているというのに十日前に逝ってしまった。

 十年程前いくつかの工房から声が掛かっていたが、できるだけ帝都から離れていたくて一番遠い工房を選んだのだ。もっと近くにいればもっと養母になにかできていたかもしれない。

「ヴェラか?」

 地母神像へ目を移し、養母の魂の安寧を祈っていると不意に声をかけられた。

 声の方を見やって、ヴェラは息を呑む。

「エド……?」

 そこにいたのは帝都を離れた理由となった男だった。そしてもう気軽に愛称で呼ぶことができない相手だと思い出して、申し訳ありませんと小声で謝罪する。

 陛下、と続けようとする前にエドゥアルトが隣に座る。

「この場所じゃ、上も下もないからいいだろう。戻って来ていたのか?」

 神殿において俗世の身分はまったくの無意味となる。神官達は皇帝だろうと平民だろうと分け隔てしない。

「……母さんの容態が悪くて二ヶ月前にもどってきたんだけれど、ついこの間亡くなったわ」

「そうか。大変だったな。あの人はいい職人だった。子供の頃は俺達によく胡桃をくれたな」

「あなた、お前の母は子供を栗鼠だと思っているのかなんて言いながら人の分まで食べてたわね」

 エドゥアルトはよく下級貴族ぐらいの身形で工房に潜り込んできていた。彼の正体を誰ひとりもわからないわけがなく、どこぞの良家の子息のエド坊ちゃまと呼んで半ば見て見ぬふりで好きにさせていた。当然のように歳の近さから遊び相手に自分はされていた。

「懐かしいな。まだしばらく帝都にいるのか?」

「あと五日ぐらいしたら向こうの工房に帰るの。家も引き払うから帝都に来るのもこれで最後かも」

 幼い頃のいい思い出はたくさんあるけれども、それだけだ。すっかり向こうでの暮らしも慣れてここへ帰る理由がない。

「……結婚はしていないのか?」

「六年前に工房に荷物を卸してた人と一緒になったわ。でも、一年も経たない内に仕事から帰ってくる途中に、雪崩に巻き込まれて……」

 穏やかに夫と暮らした日々はあまりにも短かった。最後に見送った背中はまだ夢に現れる。

 そうだ、今日も目覚める前にその夢を見ていたのだとヴェラは思い出す。

 目覚めた瞬間には夢の内容は忘れて、彼を止めなければという焦燥とその先を知っている喪失感がない交ぜになった感情だけが残っていた。養母を亡くした寂しさもあいまってじっとしていられなかったのだ。

「今は、ひとりなんだな」

「うん。向こうの工房はいいところだし、母さんみたいに仕事をしながらひとりで生きてくのもいいかなって思ってる。あと三年ぐらいしたら弟子も取れるし」

 工房の他の職人もいいひとばかりでひとりと言っても寂しいわけでもないのだ。

「ヴェラなら、いい職人を育てられそうだな。……俺の方は厳しいな」

 疲れ切ったため息に、ふと目を向けたエドゥアルトの横顔は、蝋燭の弱い光の中でもずいぶんやつれて見えた。

 そもそも彼は何故ここにたったひとりでいるのか。

「……神官様とは話さないの?」

 神官達は悩みや苦しみを聞いてくれる。必要とあらば薬湯なども処方してもらえる。

 エドゥアルトのような立場の者でも俗世から切り離されたここでなら何を話しても大丈夫なはずだ。

「ひとりでいたいだけなんだ。と言っても近衛の二、三人は勝手についてきているがな。それでもここまではついてこない」

 そう言うのならば声をかけてこなければよかったのにと、ヴェラは思いながら口には出さない。

「……私は、そろそろ帰るわ」

 そのかわりエドゥアルトの側を離れようと腰を浮かす。

「ヴェラ、もう少しだけ、いてくれないか?」

 だけれど、手を握って止められてしまう。

「神官様に相談したらいいわ。私があなたにできることは何もないから」

 大きな声にならないように、感情を抑えてエドゥアルトを諭すが、彼は手を離してくれなかった。

「……昔もそう言って行ってしまったな」

 人目もあるのでヴェラは仕方なしに腰を下ろしてため息をつく。

 あの頃はお互い納得ずくの関係だったはずだ。

 いつか終わるとしても、自分の気持ちにもエドゥアルトに対しても何ひとつ嘘を吐きたくなかった。

 向こう見ずな恋だった。

 それでも始めたことも、想像以上に痛みを伴いながら終わらせたことも後悔はしていない。

「例え婚約を破談にできても一緒にいるのは難しいってあなただってわかっていたでしょう」

 エドゥアルトは皇家と九公家との力関係を正すためにアドロフ公家との縁談を破談に持ち込むつもりだった。

 だが、アドロフ公が上手だった。

 数年前に先帝との間での取り決めで婚約していた息女との婚姻を早め、そして嫡子を次期皇帝と定めて九公家との関係の均衡を取る。その条件をもって九公家の中核を説き伏せ、エドゥアルトは九公家を押さえられなかった先帝から玉座を奪った。

 表向きにはアドロフ公家との縁組みを主導的に進めたのはエドゥアルトであったが、実際はアドロフ公が書いた筋書きだ。

 当時、先帝とエドゥアルトの対立は切迫していた。

 先帝の暗殺という強硬手段をとるべきだとする皇太子派と、その皇太子派を一掃しようとする先帝派と。先帝派を押しとどめていたのはアドロフ公で、エドゥアルトはアドロフ公と協議を重ねていた。

 その中でアドロフ公の方から婚約の破談を申し入れてくるように目論んでいたが、結局アドロフ公家の血を受け入れざる終えなかった。

「すぐには無理でも、帝位について政情が安定したらどうにかできると俺は思ってたいたよ。……今、側室を迎えることを考えている」

「なんのために?」

 すでに嫡子がいる上で側室となれば、アドロフ公家との対立してしまうのではないのだろうか。まだ先帝によって混乱していた内政は安定しきっていない。

 今から余計な火種を作るのは得策ではないはずだ。

「イーゴルはオリガに似て素直で優しい子だ。武芸の才覚もある。俺もあんな子供だったら父上に愛されていたかもしれないな」

 自嘲するエドゥアルトは子供の時と、何も変わらない。

 エドゥアルトには兄と姉がいたが、彼が生まれる前に夭折している。そのせいもあってか先帝は強い子を望んだ。

 だがエドゥアルトは体格に恵まれず武芸は不得手で先帝の期待に応えられなかった。その代わり勉学に打ち込んでいたがそれも先帝は気に入らなかったらしい。

 最初は武芸の稽古から逃げてエドゥアルトは工房に来ていたのだ。母親の方は健やかに育てばそれでいいとしてくれていたようだが、それでも彼にとって王宮は居心地が悪かったようだ。

 彼が十二の時に母親が亡くなってからは先帝との対立が深まるばかりだった。

 結局、九公家をまとめられず国を腐敗させていた先帝を武力でなく、智慧でもって玉座から引きずり下ろすに至ったのだ。

 それから数年で先帝は亡くなったがエドゥアルトの変わらない様子を見るだに、最後までお互い歩み寄ることはなかったのだろう。

「だが、イーゴルは素直すぎる。人を疑うことを知らない。学問も不得手だ。このままいけば九公家に限らずあらゆる貴族達に振り回される。俺が今やっていることを後に引き継ぐのは難しいだろうな」

 お人好しで賢くない上にこの帝国での最高権威を持つとなれば、確かに先行きが不安になるのはわかる。

 皇后との間に第二子がいればまた話が違ってくるのだろうが、皇后はほとんど王宮から出ず歴代の皇后のように皇帝の代わりに地方を巡行することもないので、あまり体が丈夫でないと噂されている。

 やはり手を振り解いてでもここを立ち去るべきだったと、ヴェラは眉根を寄せる。

「……ヴェラ、俺の側室になってくれないか」

 今からでも遅くはないと今度こそ立ち上がろうとするが、エドゥアルトが口を開く方が早かった。

「なれないわ。家同士の対立関係の問題が解決するには確かに妥当だけれど、それだけのことよ。もっと落ち着いて考えたら、あなたならいい相手を見つけられるわ」

「この半年飽きるぐらい考えた。何人か候補は立てたが、誰を迎えても上手く行きそうにない。側近達もこの頃自分と縁故のある者ばかり勧めてくる。油断も隙もなくて嫌になってくるよ」

 自棄になった物言いは昔を思い出させる。

 相変わらず彼は誰も信用できていない。先帝が貴族達に丸め込まれているのを側で見てきて、その中で上手く取り入れなかった者がエドゥアルトにすり寄って来る。

 父親との不仲に加えそんな毎日で、エドゥアルトは王宮を抜け出して工房へ来ていた。

 逃げる先が今、神殿に変わっただけだ。

 彼はあの頃の孤独を手放さずにいる。

「ヴェラ、俺を助けてくれないか?」

 縋る瞳にどうしていいのかわからなくなる。

 放ってはおけないと思ってしまったものの、彼の願いを聞くのは到底正しいとは思えなかった。

「……私の条件をふたつ、聞いてくれるなら」

 迷った末にヴェラは条件付で承諾する。

「条件はなんだ?」

「ひとつは、一年経っても子供ができなかったら私は王宮を出る。それと。もうひとつは――」

 

 ***

 

「ヴェラ様! 陛下がいっらしゃいました! お通ししてもよいですか」

 写本の手を止めて記憶を反芻していたヴェラは、侍女のナタリアの慌てた声に顔をあげる。

 伯爵家の孫娘であるナタリアはまだ十六。立ち居振る舞いは深窓の令嬢であるが、子兎のような溌剌さに妙に親しみを覚える少女だ。

「駄目といってもどうせくるでしょう」

「そ、そうでございますね。陛下またいらっしゃってよかったです。ヴェラ様の仰ったとおりですね」

 ナタリアが言っているのは三日前の出来事だ。

 エドゥアルトが昼この小宮で執務をして夕刻に朝議に行った後、夜半遅くにいつの間にか隣で寝ているので仕事が落ち着くまでここへ来るなと追い出したのだ。

 別に迷惑をかけているわけではないからいいだろうとごねる彼と、本宮から遠く離れた小宮への移動の時間は休息に使えと揉めたのを何やらナタリアは大げさに心配していた。

「言われた通り、仕事が一段落して来たから追い返すなよ」

 ナタリアと入れ替わりでエドゥアルトが部屋に入ってきたが、ヴェラは視線を机上に向けたままっだった。

「追い返しはしないけれど、あと一頁だけ待って」

 切りのいいところまですませたくてヴェラは残りの紙面に向かう。

 写本も本の修復もすぐに工房に回す必要がないものばかりをやらせてもらっているので急ぐ必要はなにもないのだが、自分の中で区切りのいいところまでやらねば気が済まない。

「あいかわらずだな。一体どれだけ頭の中に入ってるんだ」

 エドゥアルトが原本にまったく目を通さないヴェラの様子に、楽しげに微笑む。

「全部覚えてるのは作業が終わるまで。後は概要しか覚えていないわ。前にもこんな話をしたわね」

 自分の特技は見た本を一字一句記憶できることだ。本当は装丁を修繕する作業の方が好きなのだが、急ぎの写本を任されることが多い。

「そうだったか。概要だけでも本を探すのに十分役に立つだろう」

「あなたに昔よく本を探させられたわ」

 エドゥアルトには欲しい知識が載っている本がどれか聞かれたものだ。

「ヴェラは工房にある本を端から読んでいる変わった子供だったな」

 そういうエドゥアルトも面白い遊びを教えてやると数式を書き始めた妙な子供だった。

 ヴェラは最後の一文字を書いてペンをを置き、立ち上がる。

「……お茶は自分で入れないものだったわね」

 作業終わりの癖も抜けず、ヴェラは振り返ってエドゥアルトの顔をやっと見る。

「すぐにこの暮らしにも慣れる。……全部覚えてるよ。あの頃のことは忘れたことがない。戻れるなら戻りたいぐらいだ」

 エドゥアルトが歩み寄ってきて、ヴェラは思わず一歩後退るが後ろは机で腰がぶつかった。

「私も、忘れたことはないわ。でも、戻りたいとは思わない」

 人一倍疑り深くて孤独だった少年時代のエドゥアルトを愛していた記憶は、もうただの思い出だ。

 エドゥアルトの手がヴェラの頬に添えられる。真正面にある彼の瞳は、ほんの少し寂しげだった。

 口づけられて、ヴェラは瞳を閉じる。

 最初の接吻は覚えているけれど、最後は記憶が曖昧だった。

「……俺はまだ、愛しているよ」

 抱きすくめられ、耳元で囁かれる言葉に何も返せなかった。

 今のエドゥアルトを自分がどう思っているのか分からない。

 それは体を重ねても分かることはなかった。

 

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