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そうして、オリガが広い寝台でひとり眠り始めてわずか三日目のことだった。
「……エドゥアルト様、いらしてたのよね?」
夜半に寝台にもぐりこんでくる気配を感じつつも、起き上がることができずに夢かどうかの確認すらできなかった。
朝目覚めた時に隣に誰の気配もなく困惑するばかりだ。使用人に確認すると、夜明け前には政務に戻ったということなので夢ではないようだ。
エドゥアルトはヴェラが来てから、政務を小宮に持ち込んでほとんど一日中そこで過ごしているという。だからもうここには戻って来ないと思っていたのだが。
疑問の答はその日の午後、王宮の隣の兵舎に面したなだらかな丘陵地で行われている馬術試合を見学に来てようやく分かった。
かけ声と声援で賑やかな中、オリガは共に見学する貴族の夫人からこっそり耳打ちされたことに目を丸くする。
「……エドゥアルト様が声を荒げられたのです?」
思わず聞き返すと、ええ、と夫人がうなずく。
「御側室も陛下に対しして無礼な物言いで、おふたりで怒鳴りあっていたというお話ですわ」
夫人曰く、昨日の夕刻前にエドゥアルトとヴェラが口論になったというのだ。そしてヴェラの侍女はまだ年若くこの事態に動揺し、夫人の友人の友人の娘に困った事が起きたと相談したのだという。
多少話が大げさになっているのかもしれないが、あの優しい夫が声を荒げるなど信じられない。
「喧嘩の原因はお聞きなってはおりませんの?」
「さあ。そこまでは存じ上げませんわ。御側室は子供の喧嘩のようなものだから二、三日したら陛下は顔を見せると、侍女に仰ったそうよ。そうは言ってもあの温厚な陛下のご機嫌を損ねるなんてよっぽどのことでございましょう」
あの夫が子供染みた喧嘩を平民の女性とするなどまったく想像がつかず、ただ驚くばかりだ。
「……エドゥアルト様とは以前からのお知り合いなのかしら」
ヴェラの落ち着いた対応を聞くと、ずいぶん昔からお互い知っていたのではと思う。そうでなければ側室にという話も持ち上がらないはずだ。
思わず零したオリガのつぶやきに夫人が目を瞬かせた後、少し離れたところに控えているライサへと視線を送る。
「皇后陛下は、何もお聞きになっていらっしゃらないのです?」
「ヴェラ様のことは何もきいておりませんわ」
さらに声を潜める夫人にどうしようとオリガは戸惑う。
エドゥアルトとヴェラのことを自分が知りたいのかわからない。ただ、ライサがヴェラに関して一切触れなくなったのは、色々知った上で話さないと判断したのだろう。
「お知りになりたいなら、お話しできますけれども」
ここまできたら、何も聞かないのもずっともやもやしてしまう。でも知ってしまったらもっと苦しいかもしれない。
「……お聞かせくださいますか?」
オリガは迷いながらも意を決して訊ねた。
夫人曰く、ヴェラは帝都のすぐ近くの村の出自で、赤子の時に両親が事故死してから帝都の遠縁に引き取られたという。そして引き取られた親類が本の修復士で、王宮近くにある工房に務めていたという。ヴェラもそこで幼い頃から雑用を手伝いながら、職人としての技術を学んでいたとのことだ。
本の修復を依頼するのは主に王宮である。
「それでは、エドゥアルト様はそこでヴェラ様とお知り合いに」
「ええ。陛下は書物がお好きでしょう。だからよく工房にもお忍びでお出かけになっていたそうですわ。ちょうど陛下と年頃の近い子供が御側室だったから、遊び相手をなさっていたということですわ」
思い返せば、エドゥアルトから子供の頃の話を聞いたことはほとんどなかった。武芸が苦手で書物ばかり読んでいたことぐらいしか知らない。
(わたくしはエドゥアルト様のこと、全然知らないわ)
子供の時ばかりでない。この十年、夫が自分自身のことをあまり話さないことに今さらに気付いた。
「皇后陛下、イーゴル殿下の番ですわよ」
声をかけられて、周囲の喧噪が一気に耳に飛び込んでくる。
こんなにも騒がしいのに何も聞こえてこないほどに自分の思考に没入していたオリガは、慌ててイーゴルの姿を探す。
皇族以外の軍服は白なので、黒い軍服のイーゴルはすぐに見つかった。
イーゴルの方もこちらに気付いたらしく拳を高く上げた。
合図と共に一斉に十頭の馬が走り出す。
目指さす先には斧、槍、剣と幾種類か武器が置かれ馬上からそれを取って二組に分かれて騎乗戦に移る。
総大将を務めるイーゴルは自ら先陣を切り、器用に馬を操り次々と相手を打ち負かしていく。
「まあ素晴らしい。やはり皇太子殿下は武芸の才が飛び抜けておありですわね」
「ええ。強くて優しい子ですわ」
オリガは仲間達と勝利を喜び合うイーゴルに目を細めた。
だが明るい心持ちになったのはその時だけで、王宮へ戻る馬車の中オリガは物思いにふけっていた。
エドゥアルトとヴェラはこれまでも頻繁に会っていたのだろうか。結局馬術試合の話題に移って後は夫人に何もきけなかった。
「まったくお喋りな方ですわね。オリガ様、側室の素性をお聞きになりましたね」
向かいに座るライサは全てお見通しで、オリガは力なくうなずく。
「どこまでお聞きに?」
「エドゥアルト様とヴェラ様は子供の頃からのお知り合いだと……」
ライサが全て知っていて話さなかったのは確実なようだと、オリガはうなだれる。そうなると自分の耳に入れたくないことがあったのだ。
「オリガ様がご心配なさっているようなことはございませんよ。側室はオリガ様がお興し入れされる一年前には、帝都からシドロフ公領の工房へと移っていますから」
帝都から三ヶ月近くかかる遙か遠方で、頻繁に会うのは難しい距離である。
「わたくしとの結婚があったからかしら」
「そうやってオリガ様が気に病まれるからお話ししなかったのです。よろしいですか。オリガ様と陛下のご結婚は決まっていたことなのです。どのみち陛下と平民では釣り合いが取れていなかったのです。それをいまさら側室にするだなんて」
「シドロフ公領からヴェラ様をお呼びになるなんてよほどのことではないの?」
結婚式の日、ただただ幸せでいっぱいだった自分の横で夫は何を思って微笑んでいたのだろう。
「陛下が呼び寄せたのではありません。育て親が病で帝都に戻ってきていたのですわ。お亡くなりになって、片付けを済ませたらあちらへお戻りになるつもりが、陛下と偶然大神殿で再会なされたということですわ。それさえなければ側室だなんて」
「待って、ライサ。エドゥアルト様は大神殿になんの御用事で? お体が悪いわけではないわよね」
人々が神殿に行く理由は心か体を癒やすためである。俗世と切り離された神殿では身分に関係なく等しく神官が悩みを聞き、医術を施す場である。この頃忙しくしている夫を思うと、後者であるかもしれない。
「……それほどお体が悪いということでもなさそうです。大神殿に行かれるときは大抵夜明け前の人のいない刻限が多いので御政務でのお疲れを神聖な場所で癒やされたいのでしょう。オリガ様に何も仰らないのは心配をかけまいとしてのことですよ」
ひとまず体調に問題がないことに安堵しつつも、朝早くに寝所から出て行く理由が政務ばかりでないことを初めて知って口を引き結ぶ。
本当に、自分はこの十年、夫の何を見ていたのだろう。
仕事熱心でいつでも優しいエドゥアルトが自分の知っている全て。それ以上のことを知ろうともしなかった。
その日の夕餉は久しぶりにエドゥアルトも同席することになったのだが、オリガは素直に楽しむことができなかった。
イーゴルの馬術試合の報告を嬉しそうに聞いてうなずき褒める様子。
そろそろ実務を学ばせることや直轄領の管理をする準備を進めるという話を聞かされたイーゴルが、苦手な勉強をせねばならないと身構えるのに苦笑しながらもゆっくりやればいいと優しく諭す姿。
和やかな父と息子の様子はいつもなら幸せを感じるはずなのに、今は感情がぼやけてしまっている。
「オリガ、大丈夫か?」
食事が進まないでいると、エドゥアルトに心配されてイーゴルも不安そうにするので、慌てて笑顔を作る。
「お話を聞くのに夢中になってしまって。大丈夫ですわ」
ここ最近多忙だったエドゥアルトと一緒にゆっくり食事をとれることを喜ぶイーゴルのおかげで、夕餉の時間が長くなったのでなかなか喉を通らない食事を片付ける時間はたっぷりあった。
そしてエドゥアルトは政務に戻ることも小宮に行くこともなく、いつも通り同じ寝所で眠ることになった。
ヴェラとはまだ和解できていないのだろうか。
「もう少し、仕事が落ち着いたら昼食を一緒にできる時間はとれそうだ。……すまないな。無理を通してしまって」
エドゥアルトの言葉に、オリガはか細く気になさらないでと答えることしかできなかった。
疲れているのかエドゥアルトはすぐに眠ってしまった。
自分はこれまで夫から与えられるばかりで、与えることなどなかった。
だから、この寝所ですらエドゥアルトにとって安らぎの場所にはならなかったのかもしれない。
目を閉じると、涙が一筋だけ伝った。