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「まったく、オリガ様に断りもなく側室を置くだなんてどういうおつもりなのかしら! これでは騙し討ちでありませんか!」
鏡台の前に座るオリガは、侍女のライサが緩やかにうねる銀の髪を結い上げながら憤慨するのを困り顔で聞いていた。
「……エドゥアルトは一番にわたくしに話してくださったわ。それに、子供だってわたくしにはもう無理でしょう」
「まだ二十五でそう仰るには早過ぎます。もっと陛下にご意見なさいませ。奥向きの采配は皇后陛下がなさるものだというのに、小宮を整えることも侍女の選定も全て皇帝陛下がご自身でお命じになるというではありませんか。よろしいですか、オリガ様はアドロフ公家の姫君なのですよ。こんな扱い御館様もお許しになりませんわ」
ディシベリアは十の部族が集まって出来た国である。初代皇帝は部族長のひとりで、武力でもって他の九つの部族を従えまとめ上げ帝国を築いた。残りの部族長の末裔は九公と呼ばれ、今でもそれぞれ皇帝に次ぐ権威を持っている。
そしてアドロフ公家は九公の中核的存在だ。ライサも代々アドロフ公家に仕えている侍女である。
「だけれど、偉いのはお父様であってわたくしではないもの」
父が賢くて強い立派なアドロフ公家当主ではあるのはわかっている。
だけれど。
(わたくしに何があるのかしら)
オリガは鏡に映る自分の翡翠色の瞳と目を合わせる。
大きく丸い目は瞳の色をよく褒められるけれども、幼い印象があって正直あまり好きではなかった。紅を塗り、銀の髪を結い上げてもどこか子供っぽい。
「皇太子殿下の母君でもあらせられるというのに、そんな弱気ではなりません。長子相続が絶対といえども、油断はなりませんよ。ことによってはイーゴル殿下のお立場にも関わる問題なのです。今からでも側室の侍女にひとりぐらいはアドロフ公家に近い者を置いておくことです」
五つの時から身の周りの世話をしてもらっている十歳年上のライサの小言を聞いていると、ますます自分が幼く思えて気落ちする。
「急がないとお約束の時間に遅れてしまうわ」
ライサの手は口と同じくらい忙しく動いているので、十分に間に合うと分かっている。この話をおしまいにしたいだけだ。
ライサが全てを見透かしたため息をひとつ落として口を閉じる。
愛する夫と子供と穏やかに暮らしていければ十分なのに、アドロフ公家の血筋と皇后という肩書きはそうさせてくれない。
オリガは来客を呼んでいる部屋へ三人の侍女に付き従われて向かう。
今日会うのは、長兄の妻の母の従妹にあたる伯爵家の跡継ぎだ。義姉に時々交流するようにお願いされて、嫁いでから月に一度はお茶をする間柄である。
(もうこれで最後なのね)
一定以上の領地を持つ貴族の跡取りは王宮に出仕している。彼女の長子も王宮に出仕してから七年になり、後を任せるに不足なしとなったので領地に戻って老齢の父親から爵位を引き継ぐのだ。
彼女の領地は遠く、この先も会うことは年に一度あるかないかぐらいになってしまうのは寂しい。
この十年、そんな別れは幾つもあったけれど慣れないものだ。手紙での交流が続いている人達も多いが、直接会ってお喋りしたくなる。
(もっと体が丈夫だったらよかったのに)
広い帝国の中で育ちながらも、あまり遠出ができない自分の世界はあまりにも狭い。子供の頃は生家の屋敷と周辺ぐらいしか知らず、嫁いでからも王宮の中ですらその全てを知らない。
だから、色々なことを聞けるので人と会うのは好きだ。皇后としても貴族達と交流を深めることも大事なことである。
(……側室の方はどうされるのかしら)
貴族ではない平民の女性。どんな思いを抱いて王宮という縁のない場所にくるのか。
自分なら不安で一杯になりそうだけれど、エドゥアルトが選んだひとなら未知の世界にを恐れることない強い人かもしれない。
胸がざわざわとしてきて、オリガは一度目を伏せてこれから会う客人へと気持ちを集中させる。
それでも胸の片隅に不安とも恐れともつかない感情が残り続けた。
***
それからオリガは相変わらず多忙なエドゥアルトとはあまり会話することもなく、自分から側室について聞くことも出来ないまま日は過ぎていった。
その代わりライサがあれこれと情報を集めてきていた。
まずは側室付の侍女の選定である。ライサは何かと手を回してアドロフ公家に近い家の者を置こうとしたが、エドゥアルトが自分の側近の孫娘をひとりだけつけた。
そして側室が暮らすことになる小宮についてである。王宮は最初に建てられた中央宮の裏側から放射線状に柱廊が延び、各所に大小八つの小宮が建てられている。その中でも一番小さな小宮で側室は暮らす。そこに大量の書物が運び込まれていて、本の修復道具まで用意されているという。
(やっぱり賢い方、ですわよね)
男は強く、女は賢くあらねばないないというのがディシベリア帝国である。ただオリガは勉学が大の苦手だった。幼い頃についていた家庭教師の苦々しい表情を思い出すと、未だにいたたまれなさに泣きたくなる。
幼い頃は父に勉強は嫌だとよく駄々をこねたものだ。父が困った顔で、これはお前にとって必要なことだかと言われたことは、今になって身を持って実感している。
それでも、会話に困らないのは長兄の妻のおかげだった。義姉は会話のコツや苦手な政の話題を上手く躱す手段を教えてくれた。幸い人と話すのは好きだったので、なんとか切り抜けている。
しかし今し方終わった年の近い子供を持つ貴族の夫人同士の茶会のように、小難しい話題でなく子供中心の話の方が気楽で楽しい。
ただ、この頃は会う人皆、自分達は貴方様の味方ですと、そんな意味合いの言葉を最後に告げるのだ。
まるでこれから必ず側室と対立せねばならなくなると脅されている気分になる。
侍女に付き従われ自室に戻る道すがらオリガは無意識のうちに、うつむきがちになっていく。
廊下に敷かれた藍色の絨毯を見つめながら歩いていると、どたどたと慌ただしい足音が聞こえてきて顔を上げる。
「母上!」
よく響く元気な声に沈んでいた心は浮き上がって、オリガは声のした方へ微笑みを向ける。
ひとり息子のイーゴルが、満面の笑みで駆け寄ってくる。皇族の証である黒の軍服を纏った体は九つには見えないほど縦にも横にも大きい。
つぶらな瞳の穏やかな雰囲気は自分に似ているとよく言われるが、それ以外は夫にも自分にもあまり似ておらず一番似ているのがイーゴルから見て伯父にあたる長兄で血の繋がりとは不思議なものである。
「狩は上手くいったのね」
今日は狩に行くのだと朝から勇んでいたイーゴルが瞳を輝かせてうなずく。
「はい! 大きな猪を仕留めました。明日の夕餉は母上がお好きな猪肉のシチューです!」
「まあ、それは楽しみね」
体は大きいがまだまだ無邪気なイーゴルを前にすると、もっとしっかりしなければと思う。
イーゴルも側室の話を聞かされ、子供心ながらに複雑そうではあった。まだちゃんとしたことがわからずとも、ただでさえ政務で忙しい父と一緒にいられる時間が減ってしまうと落ち込んでいた。
それ以上に母が寂しいのではないのかと、夫のいないところでこっそりと心配させてしまった。
寂しいという言葉に胸を締め付けられたものの、息子の優しさに安堵もした。
(心配させてはいけないわね)
今一番に考えるのは、イーゴルを不安にさせないことだ。
そのためには側室とは直接関わることは最低限にして、これまでと変わらずにいる方がいい。
そうやって気を取り直し、ライサの噂話を聞き流しながら忙しくはないものかといってやることが何もないわけでもなくぼんやりと日々は過ぎていく。
そしてオリガは王宮の一角にある広間への入り口となる両開きの樫の扉の前にいた。
この先に側室となる人が小宮に入る前に挨拶をするために控えている。
そわそわする気持ちを落ち着かせるように、扉に彫刻された蔓を下から上に目線で追いながら使用人が扉を開けるのを待つ。
「皇后陛下のおなりでございます」
ついに、その時が来てしまった。
扉が開かれると春の花畑を模した絨毯だけが敷かれた広い空間の奥で両膝をつき頭を垂れる女性がふたりいた。
少し手前にいる方が側室で、後ろにいるのは侍女だ。侍女の方は見覚えのある顔だ。
(きれい……)
左右の壁面には大きな硝子窓があり、そこから差し込む光を受けてきらきら輝く淡い亜麻色の髪にオリガはついみとれる。
「初めまして。顔をお上げになって」
できるだけ堅苦しくなりすぎないよう声をかけたものの、自分の緊張が伝わってしまったのか側室が体を固くするのが見てとれた。
「……お初にお目に掛かります、皇后陛下。本日より皇帝陛下にお仕えすることとなりましたヴェラでございます」
柔らかな髪色と打って変わって、その面立ちは硬質だった。
澄んだ水色の瞳は冴え冴えとして、賢そうな印象を受けた。一瞬幼い頃ついていたの家庭教師を思い出して、怯みかけるもオリガは笑顔を保つ。
「今までの生活と何かと違うことが多くて大変でしょうけれども、何か困りごとがあったら遠慮なくなんでも仰ってくださいね」
「お優しいご配慮、いたみいります。皆様方にご迷惑をおかけしないよう、務めます」
ヴェラの淡々とした声の中に、不安や緊張が感じ取れた。
「そう難しくお考えにならくても大丈夫ですわよ。では、もうここはあなたの家なのだからくつろいでお過ごしになって」
あまり長時間向き合うのはお互い疲れてしまうと思い、オリガは対面を切り上げてヴェラに背を向けた。
(……エドゥアルト様に少し似ているわ)
ほんの短い時間、瞳を見て声を聞いて夫がヴェラを選んだわずかに理由が分かった気もする。
これから本当に夫と寝所を共にすることはないかもしれない。
(わたくしは、イーゴルがいるから、大丈夫)
ひとりぼっちではない。あの子のためなら心は強く持てるはずだ。