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「こんなに変わるものなのね」
それから数日後、ヴェラは小宮の来賓室が皇后を迎えるために整えられているのを見て感嘆する。
本宮へいくつもりだったものの、オリガが身重のヴェラが本宮まで行くのは大変だろうと、こちらへ来るというので急遽整えることになったのだ。
元より来賓室ではあったものの、調度品は色味のない簡素な物しかなかった。しかし今は、カーテンや絨毯など薄緑を基調にした明るくも落ち着いた雰囲気に変わっている。
無骨な真四角のテーブルは華奢な猫脚の楕円のテーブルに変わり、その中央に薄紅の小花を浮かべた玻璃の器が置いてあった。華美過ぎず、かといって質素すぎない絶妙な加減だ。
「ナタリアさん、ありがとう。いつも全部任せてしまって申し訳ないわ」
「いえいえ、これがわたくしめのお役目ですので。では、皇后陛下にお出しするお茶とお菓子の最終確認をいたしますのでヴェラ様は座ってお待ちくださいませ」
ナタリアが疲れた様子など微塵も見せずに、今にも鼻歌でも歌いそうな軽い足取りで退出する。
子供のための準備が本格的に始まり使用人は数人増えたものの、侍女は変わらずナタリアひとりである。
春先から贈り物や手紙の対応をしてもらっていて、仕事も増えたのでひとり侍女を増やすことをエドゥアルトに相談はしたが、ナタリア本人から必要ないと断られたらしい。
「人に何もかもしてもらうのは慣れないわね」
ヴェラは座面が広い布張りの椅子に腰を下ろし、ため息をつく。
そういうものだと分かっていても、日常のすべてを他人に任せきりでいるのはいまだに居心地が悪い。慣れるどころか、ここで一生を過ごすのは無理だとひしひしと感じるばかりだ。
じっと座っているのも妙に落ち着かなくなって、ヴェラは立ち上がる。
オリガと顔を合わすのは、やはり気が重い。
前回、オリガに招かれて話した時にまともに会話できなかったことを思い出すとなおさらである。
王宮を去る時は挨拶ぐらいはと考えてはいたのだが、その話をするには早過ぎる。共通の話題といえば、エドゥアルトのことぐらいで気まずい。
そんな調子で話すことも話せることもなかったので仕方なかったことではあるが。
「今日はあなたのことを話すのだから、話題はあるのだけれどね」
胎動を感じて、ヴェラは腹部を撫でる。
あてどなく部屋を歩いたり、椅子に腰掛けている内にナタリアがオリガの来訪を告げ、背筋を伸ばす。
「ごきげんよう。お招きいただいて、嬉しいですわ
三人の侍女に伴われてやってきたオリガが可憐に微笑んで、ぎこちなく少し身を屈めてオリガは一礼する。
「皇后陛下、ご多忙の中お越しいただき、まことにありがとうございます」
「堅苦しいご挨拶は疲れますわね。……外で待っていてくれるかしら」
オリガが苦笑して、侍女達を下がらせる。それから、先にオリガが椅子に座り、ヴェラが後に続くとすぐに使用人達が紅茶と菓子をもってきて下がる。
「つわりはもう落ち着かれたと聞いて安心しましたわ」
「ええ。やっとまともに食事ができるようになりました。……この頃、少しですが動くようにもなりました」
「まあ。順調に育っておりますのね」
オリガが明るい表情を見せる中、ヴェラは硬い表情のままうなずく。
「今日は、そのことについてお話をしたいと思い、皇后陛下をお招きしました。皇帝陛下から、私がいずれ王宮より出て行くことはお聞きでしょうが、私自身からも後のことをお願いしたく思いまして」
自分が側室になるときにエドゥアルトとした約束は、彼の方から少し前にオリガに話したと聞いている。
「ええ。わたくしとしては、お母様が子供の側にいた方がよいと思いますの。まだ、産まれるまで時間がありますわ。ゆっくりお考えになられたらいかがかしら」
「……私には子供を皇族として育てる術がありません。私の立ち居振る舞いにこの子はかえって混乱してしまうでしょう。皇后陛下のご宰領の元、側室が子供の養育に関わらないことはよくあることと聞いておりますし、母親としてできることは側にいるより何も手を出さないことぐらいだと思います」
そう告げると、オリガが困った顔をしながらそうねとつぶやく。
「だけれど、そんなに難しくお考えになることはありませんわ。わたくしだって、武術もお勉強もできないから、イーゴルの教育は全て優秀な方々にお願いしていますのよ。わたくしができるのは見守ることぐらいですもの」
一点の曇りもなく微笑むオリガに、今度はヴェラの方が困ってしまう。
オリガ自身が何をせずともアドロフ公家という強大な後ろ盾があるのだ。何もない自分と彼女とでは取り巻く環境があまりに違いすぎる。
「わたくしは子供の頃からお勉強が苦手で、行儀作法も小さな頃は難しくてなかなか覚えられませんでしたの。できないことばかりで悲しくて泣いていると、お母様が抱きしめながら今日できた小さなことを褒めてくださったわ。皇族としてでなく子供として大事なのはそういうことだと思いますの」
ヴェラが言葉を迷っていると、オリガがそう続けた。
「……私は両親が亡くなった時、幼すぎたので実の母のことを何も覚えていません。育ての親である養母からは読み書きから修復士としての技術を教わっていました。だから、自分にとって母というのは師でもありました」
養母が写本をしているのを興味深そうに見ていると、板切れや工房の書き損じの紙の切れ端に字を書かせてもらえるようになったのが職人になるひとつのきっかけだった。
まだ三つになるかどうかぐらいの頃で朧気な記憶しか無いが、夢中になって母に文字の読み方や書き方を教わった。気がつけば養母に修復士としての教えを請うようになっていた。
「私は母のようにこの子に何も教えられません。正直、まだ母親になるという実感もあまりないんです。この子に母親として接することができるかも、よくわからなくて……」
「まだ、動き始めたばかりですもの。これからおなかが大きくなって、たくさん動くようになったらまたお気持ちも変わりますわよ」
たおやかで暖かく包み込まれるようなオリガの柔らかな表情に、ヴェラはまた考え込んでしまう。
はたして理屈っぽくて頑固な自分が、こんなにも穏やかな母になれるのだろうか。
「わたくしが王宮にあなたがいて欲しい理由の一番は子供のためではあるけれど、エドゥアルト様のためにいて欲しくもあるの」
うつむいて沈黙していたヴェラは、オリガの言葉に顔を上げる。
「それこそ、陛下のために私ができることなど何もありません。無意味なことです」
きっぱり言うと、オリガが悲しげに首を横に振った。
「エドゥアルト様が、度々人目を忍んで神殿にお通いになっていたのはご存じでしょう。わたくし、何も知らず早くからご政務をしていると思ってましたの。神官様に心の疲れを癒やしてもらうことはよいことです。ただ、あの方は神殿以外に心の拠り所となるものがなかったのです。わたくしは、王宮の中にもエドゥアルト様が落ち着ける場所がなければと思うのです」
自分がそうなりたかった。
言外に滲むオリガの絶望の深さに、エドゥアルトへの想いの強さなのだろう。
「陛下に必要なのは政に無縁な私や神殿ではなく、政に関わりながらも信頼できる相手だと思います。そうなりえるのは皇后陛下だけかと」
「わたくし、難しいことは分からないんです。エドゥアルト様が何かを悩んでいらしてもご相談にも乗れず、助言もできません。それに体が弱くていつも気づかっていただいてばかりで、何もできていません」
アドロフ公の娘というだけで政治的な役割が十二分にあることも、オリガはあまり理解していないようだった。
オリガの無垢さと、その後ろ盾の重さが不均衡すぎるのだ。
エドゥアルトはアドロフ公に隙を見せないよう体面を取り繕い、それと同時にオリガの体と精神の負担を減らそうと自分の殻に閉じこもりどうにも立ち行かなくなっている。
「皇后陛下ではなく、皇帝陛下ご自身が変わらなければならないのでしょうけれど、あの方も意固地すぎるので難しいですね」
「意固地……わたくしが知っているエドゥアルト様と、あなたが知っているエドゥアルト様は全く違うのでしょうね」
自嘲気味にオリガがつぶやく。
「それは、私と陛下が知り合った時お互い幼かったので自分自身をさらけ出す怖さがなかっただけのことです。皇后陛下にはご自身を非の打ち所ない所だけを見せたいのでしょう」
「……あなたは」
オリガがそう言いかけて、言葉を呑み込む。
そして、いくらか迷いを見せながらも意を決したようにヴェラを見つめる。
「わたくし、ヴェラ様のお気持ちを聞いていませんでしたわ。あなた自身は、このままエドゥアルト様のお側にいたいと思われないのですか。ご身分のことなど関係なく、お気持ちを知りたいのです」
思わぬ問いかけに、ヴェラは目を丸くする。
「……私は、昔から陛下のお側にずっといるということは考えもしていませんでした。お互いの立場のことが理由のひとつでもあります。ただ、修復士という仕事は私の一部でもあります。弟子を取れる一人前の職人になることがひとつの目標でした」
いつか養母のような立派な修復士になりたい。
そんな思いから六つの頃には工房で働きながら学んでいた自分は、エドゥアルトに恋をしている間も彼の来る日を待ち侘びる暇もないぐらい仕事に没頭していた。
エドゥアルトと一緒にいられる時間は楽しかったし幸せではあったけれど、今、その時が満たされているのならいつ恋が終わってもかまわなかった。
「今も、昔も同じです。私は陛下のために自分の生き方すべてを変えることができない。……夫とは、出会ってから一緒にすごしている内にもし生涯を共にする人がいるなら、彼かもしれないと思いました。だから求婚されたときも、迷わなかった。残念ながら、あの人と夫婦として暮らせたのは一年もありませんでしたけれど」
そもそも結婚することは考えていなくて、工房を移った後に見合い話も何度かあったが気が乗らずに断っていた。
商人の夫とも、工房で荷の受け渡しで時々言葉を交わすだけの間柄で特別意識したことはなかった。祭りの日に一緒に行こうと誘われて、少し驚いたものの不思議と行く気になった。それがきっかけで時々一緒に出掛けることが増えた。
思えば、夫に恋をしていたかというと分からない。だけれどずっと彼と共に生きていくことは、養母のように独り身で仕事に打ち込むのと同じぐらい、いい人生に思えた。
実際、結婚生活は穏やかで優しい日々だった。
(あなたがいない毎日は物足りない)
夫を亡くしてから五年、ふとした瞬間にそんな言葉が浮かんできては日常の奥へと沈み込んでいく。
寂しいのも思い出があるからこそだから空虚感はあまりないけれど、夫と生きる時間が積み重なることがなくて物足りないと思ってしまうのだろう。
「私がここへ来てからもう半年にはなりますが、やっぱり私はここで陛下と一生過ごすことは考えられないんです。私がここに来たのはどうしようもなく困っている陛下を、私のできる範囲で力になりたかった、ただそれだけのことだと思います」
何度考えても、それ以外の理由は見つからなかった。
「……あなたはご自分をしっかりお持ちなのですね。エドゥアルト様があなたの側が安心できるのは、政に関係あるなしでなく、そういう所だと思いますわ」
オリガがひどく落ち込んだ様子でそう言って、ちいさくうなずく。
「ヴェラ様、色々、不躾なことを聞いてしまってごめんなさい。でも、子供のことはもう少しゆっくりお考えになって。その子を腕に抱いて、顔を見てから決めたほうがよろしいですわ」
ヴェラはオリガがそう促すのに、ええと返答を濁した相づちを打つ。
「わたくし、時々こちらにお伺いしていいかしら。乳母や養育係はこちらで手配いたしますけれど、ヴェラ様にも確認していただきたいですわ」
オリガが強張っていた表情を緩めて、声音も明るいものへと変える。
「はい。よろしくお願いいたします」
それから、いくらか言葉を交わす内容は子供のことだけになった。
性別や名前の話をされても、自分の中に自分ではない誰かが息づいている不可思議さばかりが勝つ。この子と対面した時、自分は何か変わるのだろうか。
(前途多難、ね)
オリガが退室した後、ひとりになったヴェラはため息をつく。
子供のことはもちろん、最後は無理に明るく振る舞っていたオリガのことも気にかかる。
「ちゃんと大事にしてくれる人がいるんだから、もっと素直に受け取ればいいんじゃないのかしらね。本当に面倒くさい人」
あれだけひたむきな献身を受けながら、自分で自分を孤独に追い詰めるエドゥアルトに呆れるばかりだ。
自分が王宮に居続けない理由がひとつ増えてしまった。
「……いますぐ、あなたがどうして欲しいか分かったらいいのに」
問いかけても、当然返答はなく、それどころか産まれてすぐに答えられるはずもない。
答えの出ない問いを繰り返すのは、昔からの悪い癖だ。
それでも考えずにはいられない自分に、ヴェラは苦く笑った。




