プロローグ
ディシベリア帝国皇后のオリガは、寝支度をすませて寝台に腰掛け夫を待っていた。
十年前、若干二十で北の大帝国を統べる皇帝となったエドゥアルトは多忙だ。ここ数日は夕餉を共にすることもなく、夜更けにふと隣で彼が眠っていることに気付くという日が続いている。
しばらくは遅くなるから待たなくていいと夫は言っていたが、できることなら疲れた夫に声をかけて眠りたかった。
とはいえ、眠気にいつまでも抗うこともできず、寝惚け眼で朝早く寝室を出て行く後ろ姿にいってらっしゃいませと言うのがいつものことである。
お互い王宮の中で一日過ごしているとはいえ、広大な敷地内で偶然すれ違うことなどない。政務が落ち着いている時は食事は一緒にできるが、このところはゆっくり話す時間もなかった。厳しい冬を前にしたこの時期に夫が忙しいのは、エドゥアルトの即位と同時に十五で結婚してから毎年のことだ。
(ちゃんとお休みになられているのかしら)
ただ今年は少しばかり夜遅く朝早い気がする。
オリガはあくびをひとつして、寝台に体を横たえる。今夜も先に眠ってしまいそうだと思ったとき、ゆっくり扉が開かれる音がした。
「エドゥアルト様」
寝台の側に置いてある燭台の灯は頼りなくぼんやりとしか見えなくとも、真っ直ぐな銀髪と涼やかな薄青の瞳をした夫の姿は眼裏に焼き付いている。筋骨隆々な大男ばかりのこの国の主であるにしては、エドゥアルトは細身である。
兄達は賢しいばかりで軟弱な男だととんでもない無礼を口にしていたが、オリガは一目で恋した。
そして今も、穏やかで優しい夫に変わらない気持ちを抱いている。
「まだ、起きていたのか」
「もう、寝てしまうところでしたわ。今日はお早いのですね。……どうされました?」
寝台の側に立ったまま動かないエドゥアルトに、オリガは首を傾げる。
「ひとつ、頼みがある」
結婚してから初めて聞いた言葉に眠気がどこかへ行ってしまう。
「わたくしにできることならなんでもいたしますわ」
居住まいを正して夫の返事を待っていると、彼は視線を一瞬だけ彷徨わせた後に躊躇いがちに瞳を覗き込んでため息をつく。
「……側室を持ちたい」
思いもよらぬ言葉にオリガは、きょとんとする。
「側室……」
鸚鵡返ししかできないでいると、エドゥアルトが寝台に腰を下ろす。
「子供がほしい」
「……イーゴルがおりますでしょう」
結婚した翌年には嫡子となる男児が産まれ、その子は九つになる。元気にすくすくと育ち、すでに身長は追い越されそうである。
「このままでは政をひとりで担うのは難しい。イーゴルに足らぬ所は、側近よりも直系の血縁が補うほうがいい」
確かに、イーゴルは勉学となるとからきし駄目だ。幼い頃はその内と楽観視していたものの、武芸の上達と相反してまるで伸びる気配がなかった。
「わたくしに似てしまったばかりに……」
昔から自分も難しいことは苦手だったと、オリガは落ち込む。
「それは言っても仕方ないことだ。誰にでも得手、不得手がある。側室を迎えることは分かってもらえたか」
「……ええ。そう、ですわね。わたくしが産めればよいのですけれど、それも難しいですものね」
子供はもう一人か二人は欲しかったが月の触りが不定期で体もさほど丈夫でなく、もうずいぶん前から諦めていた。
「すまないな。側室は小宮で暮らしてもらう。十日後には王宮へ入るが、顔をあわせることはあまりないだろう」
頼みというより決定事項だったらしいと、どこか他人事のようにオリガは聞いていた。
「側室となる方はお決まりですのね。わたくしも知っているお方、でしょうか」
側室とはいえ皇家に嫁ぐのだ。そうなると一度か二度は挨拶したことのある家の令嬢だろう。できれば親しく会話をしたことがない人がいいだろうか。それともよく知っている人がよいのか。
とりとめない思考は回るけれども、感情は喉奥でつかえて出てこない。
「いや、貴族ではないから知らないだろう。オリガよりもふたつ年上で結婚はしていたが、一年で夫を事故で亡くしている」
淡々と告げられることは驚くことばかりだった。
「……どうして、その方を?」
「側室、となると貴族同士の力関係に影響する。できれば立つ波は最小限に留めておきたい」
聞きたいことはそういうことではなかったのだが、オリガはもう一度訊く気力もなくそうなのですねとしか返せなかった。
「……突然で驚かせた。この話は、また明日以降にしよう」
子供をあやすように背を撫でられて、オリガは寝台に横になる。
今夜は眠れそうにないと思っていたのに、いつの間にか朝で暗い内に起きたのであろう夫の姿はとうになかった。