一之二
「鴣鷲がいなくて残念だったなぁ、与次郎!」
与次郎と並んで駆けていた陸吾が突如、うきうきと弾むような大声で叫んだ。
途端、慣れた様子で快調に山道を駆けていた巨大な白狐が珍しく足を踏み外し、その場でずるりとこけそうになった。
与次郎が体勢を崩した拍子に、白狐の背に跨っていた幽鴳が、危うく転落しそうになった。
「────っ、ばっ……かやろうっ! あぶねえじゃねえかっ!」
幽鴳が大声で叫んだ。
駿府に向かう道中であった。
巨大な白狐姿の与次郎、神獣の姿に変化した陸吾、白狐の背に跨る幽鴳の少し先に、瑞獣の姿になった狡と、狡の背に跨る蒼頡の背中が見えていた。
「……残念とは────どういう意味で」
体勢を立て直した与次郎が、平静を装った低い声色で訊ねた。
心臓が、どくどくと脈打っていた。
「どういう意味って……がははッ! とぼけても無駄だぜ」
陸吾が愉しそうに言った。
「なあ……、与次郎。
惚れてんだろう」
陸吾が、横に並んで走る白狐の顔を覗き込みながら言った。
白狐は、ぎらりと光る神獣の突き刺すような視線を痛いほど頬に受けながら、正面を向いた状態で山中を駆け続けた。
「……え。そうなのか?」
白狐の背に据え直した幽鴳が、豆鉄砲をくらったような顔で聞き返した。
「がははッ! 俺様にはわかるさ」
陸吾が得意気に言った。
「与次郎が鴣鷲を……へえ! いや、気がつかなかったぜえ!」
幽鴳がきらきらと目を輝かせ、興味津々といった表情になって、白狐の後頭部を見つめた。
「────いや、いや。違います。惚れてなどおりませぬ。陸吾様の勘違いにござります。
鴣鷲様には私自身、色々と危うい状況下の中で散々救っていただいておりますから、敬意の思いが、勿論ござります。
しかしそれは惚れているとか、恋心などとはまた違った、畏敬の念。別物の感情にござります」
与次郎がきっぱりと言い切った。この間白狐は無意識に、蒼頡の背中をじっ……と眺めていた。
与次郎の言葉を聞いた陸吾が、白狐の横顔をちらりと見た。
途端、白狐からじわりじわりと、これ以上は心内に踏み込むなという、警戒の波動が、周囲に渦を巻き始めた。
「ああ? なんだそりゃあ。陸吾てめえ、早とちりして適当なこと言ってんじゃあねえぜえ。与次郎が鴣鷲に恋焦がれてるなんざ、なかなか面白えやと思ったのによお。与次郎の性格からすりゃあ、惚れてるってのとはまた違う感情だってえのもまあ、俺様には納得するところがあるぜえ。
なんでえ。つまんねえなあ」
幽鴳が残念そうに言った。
陸吾はしばらく黙していたが、
「ふん。そうか。俺様の勘違いだったか」
と一言だけ呟いた後、以降駿府に着くまでの道中、結局この件についてはそこから一切、自らこの話に触れることはなかった。
(────惚れてんだろう────)
与次郎自身も正直、この気持ちに確信を持てていなかった。
陸吾のこのたった一言で、駿府に着くまでの長い道中、与次郎の心の中は鴣鷲のことばかりで埋め尽くされ、鴣鷲の姿が一切、与次郎の頭の中から、離れなくなってしまっていたのであった。
◆◆◆
慶長16年4月6日(1611年5月18日)。
蒼頡達一行は、無事に駿府に到着した。
時刻は七つ下がり(午後四時頃)といった頃合であった。
町中に入る寸前、狡、陸吾、与次郎の三人は、巨獣の姿から人の姿に変化し、人の波に紛れながら、目立たないように行動した。(といっても、大男たち数人が夕闇の迫り来る町中をぞろぞろと歩くさまは、たとえ人間の姿の一行であったとしても、通りすがりの者達にとって十二分に目立つ存在ではあったが)
駿府城に入るため、五人は揃って、草深御門の前に参上した。
門前には、蒼頡達を訝し気に睨め付ける三人の門番の姿があった。蒼頡が、門番の一人の前につかつかと近づいていった。
「うぬら、何者だ。怪しいな」
蒼頡の目の前に佇む門番の一人が、微動だにせず言った。
「江戸殿に呼ばれて参りました。刻と、申します。あの者達は、私の式神達にござります」
蒼頡が、自身の背後に視線を向けつつ言った。
三人の門番が一斉に、蒼頡の背後にいる大男達を睨みつけた。
一人の門番が、頑として動かない門番の隣に立ち、耳打ちをした。ひそひそと話す微かな声に何度か小さく頷くと、耳打ちをされていた門番が、やがて口を開いた。
「伝達は受けている。
しかし、そなたがその当人であるという証がない。
江戸殿は未だ戻られてはおらぬ故、安易に城の中に通すわけにはいくまい。
出直せ」
眼前の門番がそう言って、蒼頡達一行を突き返そうとした。片手に握りしめている槍を持つ手に、ぐ、と力が入っているのが見てとれた。すると、少し奥に立っていた別の門番が声を上げた。
「待て。
もしこの御方が本物の、江戸殿お墨付きの名高き陰陽師殿でいらっしゃるなら……。
件のあやかしを、退治できるのではないか」
蒼頡の目の前にいる門番がぐるりと後ろを振り向き、奥にいる門番と目を見合わせた。
「……件のあやかし」
蒼頡が聞き返した。
眼前の門番が、警戒心を剥き出しにしたまま、蒼頡に向かって口を開いた。
「……本物であるなら、退治できるであろうな」
「詳しくお聞かせ願えますかな」
蒼頡が言った。
「三日前の晩から、城の中庭に……あのあやかしがまたしても現れ始めたのだ」
横に立っていた別の門番が言った。
「二年前にも、同じ場所で姿を見せている。
巨大な肉塊のようで、人のように動く。
しかし捕らえようとしても、誰もその肉人を捕らえられない。その姿とは裏腹に、動きは実に素早いのだ。
なんとも不気味でおぞましい……恐ろしいばけものよ」
奥にいた門番が、嫌悪感を剥き出しにしながら、蒼頡に向かってそう語ったのである。