一之一
「なあ、蒼頡様よぉ。
直接京に向かっちまう方が、ずぅ~っと手っ取り早いんじゃあねえですかい?」
大きな口を上下左右目一杯にまで広げ、息をふわあぁと深く吸い込んだ直後、赤い顔をした猿のような若い男が、欠伸声でそう言った。
蒼頡の屋敷内にある、二十畳程の大広間。
中庭が一望できるその中央の一角で、男は全身をだらりと脱力させ、左半身を畳に預けた格好で、不精に寝そべっていた。
左ひじをつき、左手で自身の頭を支え、右膝を天井に向けていた。
「……噂じゃあ、駿府にはまだ戻ってはおられねえと聞きやしたが。殿様は」
酒気の混じった濃い息をふーと深く吐き切ると、左目尻に涙を一粒ばかり溜めながら、式神の幽鴳が、やる気の無い声でそう続けた。
先程の赤ら顔が、欠伸をした直後には更に赤みが増していた。
幽鴳から少し離れた位置に立っていた式神の狡が、ぐっと眉間に皺を寄せ、突如苦虫を噛み潰したかのような表情に切り替わった。
叩きつけるようにして左の手の平を自身の顔面にばちりと持っていくと、人差し指と親指で鼻翼を思い切り摘まみ上げ、屋敷の中庭に向かって脇目も振らずに駆け出した。間もなく、中庭の端の方に辿り着くと、やがておえおえと汚い声を出し、背中を丸めて嘔吐き出した。
幽鴳の発する体臭と、酒の匂いの混じり合った独特の臭気が、屋敷の大広間から広縁付近にまで、深くじんわりと拡がっていた。
「おいっ、幽鴳。朝からお前……一体何合飲みやがったんだ?
みろ。狡のやつ鼻が利きやがるもんだから、あ~……あの様よ。
お前さんの臭いと狡の反吐のせいで、俺様まで吐き気がしてくらあ。
飲んでもいねえってのに。こっちが悪酔いしちまったみてえだぜ……まったく」
畳の上で胡坐をかいていた式神の陸吾が、幽鴳に向かって呆れた口調でそう言った。
うんざりした表情を浮かべる陸吾の隣で、白い狩衣がさらりと揺れた。
目の前にいる酒臭い男を無邪気な眼差しで見つめ返すと、蒼頡がゆっくりと、口を開いた。
「ふむ……。飛耳長目の異名は伊達では無いな、幽鴳。
そなたの言う通り、江戸殿は未だ、駿府に戻られてはおらん。
政仁親王の即位の儀が、まだ終わっておらぬのだ」
口調は、ひときわ穏やかであった。
「へえ、へえ。承知でさあ」
狡の行動や陸吾の言葉などは一切気にも留めない様子で、幽鴳が投げやりに返した。
「このまま向かっちまったら、俺らの方が殿様より先に駿府に着いちまうんじゃあねえですかい?
なんの儀式かは知らねえが、いつ帰ってくるかわからねえ大御所様を何日も無沙汰に待つぐれえなら、いっそ直接上方に足を運んじまった方が、ずう~っと手っ取り早いんじゃあ無えですかねえ……」
幽鴳がそう言い終わる直前、旅の支度を終えた与次郎が、蒼頡と幽鴳、陸吾、中庭で深呼吸をする狡の目の前に、するりと現れた。
「直に京へ……。
幽鴳様のお考え、一理あります。
駿府では無く、京に向かわれますか」
広縁の上から与次郎が訊ねると、蒼頡は首をゆっくりと、大きく横に振った。
「いえ……。駿府に向かいます。
駿府で、江戸殿を待ちましょう」
蒼頡が、きっぱりと言った。
「待つって……そんな悠長にしていいのか」
陸吾が訊ねると、蒼頡は頷いた。
「ええ。事は一刻を争います。
だからこそ、京に行くことはできません。
江戸殿の夢の中に出てきた私が、特定の地────“駿府に呼べ”と、はっきりと口に出しておりました。ということは……────“駿府”に、何かあるのです。
華胥の地へ行く何かしらの手がかりが、駿府にあるはずです」
蒼頡が陸吾に向かって、穏やかに言った。
今まで寝そべっていた幽鴳が、面倒くさそうにのそりと起き上がり、再び大きな欠伸を繰り返した。
「ふあぁ……。へえ、へえ。わかりやしたよお……。
蒼頡様がそう言うんなら、俺ぁ一切、文句なんざ言いやせんぜえ……。主に素直に従いやすさあ。
……そうと決まりゃあ、やるべきことは事理明白。
とっとと駿府に行って、殿様を待つとしやしょうぜえ……!」
幽鴳がそう言ってだらだらと歩き始めると、
「────おい、蒼頡っ。ちょっと待て!」
と、中庭から怒声が飛んできた。
狡が突如、中庭から嫌悪感を剥き出しにして、吠え出した。
その場にいた皆が一斉に、狡の方を見た。
「なんで幽鴳も連れてくんだぁ? この件には一切、関わりなんか無えだろうがっ!」
その言葉を聞いた瞬間、幽鴳が足をぴたりと止め、中庭にいる狡の姿をぎろりと睨め付けた。
顔は依然として赤く、両目は据わり始めていた。
「……なんだあ? おい。この、懐の広い幽鴳様が、わざわざてめえらの面倒事を解決しようと良心をもってして駿府にまで出向いてやろうとしてるってえのに、文句があるってえのか? ああ!?」
「良心だと!」
狡が、弾けるように吠えた。
「笑わせやがる。てめえの腹の底なんか手に取るようにわかるぜっ。なんの得にもならねえこんな面倒事に、首なんか突っ込むような男じゃねえだろう!
どうせ、駿府にあるうまい地酒をじっくりと見定めて、あわよくば根こそぎ掠め取ろうって魂胆だろうがよっ! 違うか!」
狡が畳み掛けるようにそう吠えた直後、幽鴳の耳が、ぴくり、ぴくり、と微かに動いた。
図星であった。
目をほんの少しだけきょろきょろと動かし、耳を赤く染め上げ、じわじわと込み上げてくる羞恥心を必死に抑えながら、幽鴳は言葉を探した。
二人のどちらかが次の暴言を発する前に、
「狡。幽鴳も大いに関係があります。そなた達がいなくてはいけません」
と、蒼頡が二人を諫めた。
狡が蒼頡に向かって咬み付くように何かを言いかけた、その時。
ばさり、と大きな鳥が羽ばたく音が、中庭から聞こえた。
五人の男が同時に宙を仰ぎ見ると、市女笠を目深に被り、垂衣を優雅に靡かせた一人の女性が、中庭の真上に浮かび上がっていた。
そのままゆっくりと地上に近づいてくると、女は蒼頡達の目の前に、艶やかに舞い降りてきた。垂衣が、ひらりと揺れた。
式神の鴣鷲であった。
与次郎の心臓が、とく、と跳ね上がった。
「わたくしも、御供させてください」
鴣鷲が、蒼頡に向かって頭を下げた。
「わたくしも、蒼頡様達とともに駿府へ向かいます。
きっと、お役に立てます」
鴣鷲がそう続けると、蒼頡は少し間を置いた後、鴣鷲に向かって爽やかな笑顔を向けた。
「鴣鷲、有難う。
しかし、心配無用です。
そなたにはこの屋敷で、宵のことを看ていてもらいたいと思うております」
さらりと風が吹き、沈黙が流れた。鴣鷲の美しい瞳が、ゆらゆらと揺れた。
少しの沈黙を破り、やがて鴣鷲が、小さく口を開いた。
「……承知いたしました。
しかしもし……万が一にも、御身に何者かの危険な気配が忍び寄ってくる怪しい諸相を感じ取った折には、必ずこの鴣鷲を、蒼頡様の元に、直ちにお呼びくださいませ」
鴣鷲のこの力強い言葉に、蒼頡は深く頷いた。
「────では、参りましょうか。……さあ、狡も幽鴳も、睨み合っていないで。駿府へ出発いたしますぞ。
皆、頼みますよ」
にこにこと穏やかな笑顔を浮かべたまま、蒼頡が与次郎達に向かって声を掛けた。
そうして、蒼頡、狡、陸吾、幽鴳、与次郎の五人は、山奥の屋敷を飛び出し、家康が未だ不在の駿府の城へと、向かったのである。