序之四
流れるようにそこまで話すと、蒼頡はそこで一旦話を止め、一呼吸置いた。
家康は黙していた。
目の前の子どもの話にしっかりと耳を傾け、聞き入っていた。
口を真一文字に結び、じっと視線を送ってくる大御所の瞳を真っ直ぐに受け止めると、その力強い眼力を、きらりと輝く曇りなき眼でしっかりと見つめ返しながら、幼い蒼頡が、再び口を開いた。
「────海の上に続く書の道をひたすら駆けて行くと、やがて江戸殿の前方に、漆黒に渦巻く深い靄が見えてまいります。その靄は、まるで夕立雲を墨で真っ黒に塗りつぶしたかのように黒々と渦を巻いて海の上に浮かび上がっており、異様に不気味で、明らかに得体の知れないものでござります。
書の道は、まるで江戸殿を誘うかのように、その妖しく渦巻く黒い靄の中へと真っ直ぐに連なり、続いております。背後には数多の亡霊が押し寄せ、後ろには引き返せませぬ。もはや、前に行くしか、道はありませぬ。
江戸殿は、覚悟を決めた御様子で書の道を必死に駆け渡り、その妖しき靄の中へと躊躇無く、一直線に突き進んで行かれます。
そうして、江戸殿が靄の中に勢いよく飛び込まれた瞬間────。
大岩を担いだかのように身体がずしりと重くなり、江戸殿は突如、身動きを取ることが難くなってしまわれます。
周りは、まるで墨の海にどぶりと落ち、頭まで浸かり切ってしまったかのような漆黒の世界に覆われております。
視界は瞬く間に悪くなり、江戸殿の瞳には黒以外、何も映りませぬ。
徐々に江戸殿の心身は消耗し、やがて鋭い痛みとともに全身の皮膚があちこちで小さく裂け始め、血が噴き出してまいります。
意識は朦朧とし、今にもその不明瞭な暗闇の場に倒れ込み、命尽き果てるかという危険な状態に、江戸殿は陥ってしまわれます。
すると江戸殿の目の前に、闇を突き刺すかの如く、一筋の小さな光が差してまいります。光に気がつかれた江戸殿は、重くなった足を引きずりながら、無我夢中で、光の差す方向へと歩み始めます。
じわり、じわりと近づくと、次第に光が大きく輝いてまいります。
江戸殿がそのまま一歩ずつ歩みを進めてゆかれますと、その光の中に、江戸殿の身体は勢いよく吸い込まれてしまわれます。
そうして吸い込まれた先────その、まばゆく輝く光の中に……────」
突如目の前の子どもが、話の途中で口を閉ざした。
家康は異変に気付いた。
蒼頡の双眸に、ぐ、と強い力がこもった。
先程までの幼い子どもの目つきから、その瞳は明らかに一変した。
続けて口を開き話し始めた蒼頡の声音は、先程までの可愛らしい子どもの声とは打って変わり、声変わりをした、成人の男の低い声に成り変わっていた。
幼い子どもの口から、すっきりとよく通る成人の男の低い声が、家康の鼓膜から脳内へ、はっきりと響き渡った。
「……江戸殿。お伝え申し上げます。
秀忠殿の和子が、今、華胥の地に囚われております。
このままでは、御令孫はこの世に生まれてくることができませぬ。これはこの国にとって、まことに深刻な事態にござります。
この御方がお生まれにならなければ、江戸もこの国も徳川家も、何もかも全てが崩落し、新たな戦乱の世が再び巻き起こることになるでしょう。
この事態を、未然に防がなくてはなりませぬ。
私が、華胥の地から秀忠殿の御子息をお救いしてまいります。
事は一刻を争います。
江戸殿。この夢から御目覚めになりましたら、どうか私を、駿府の城にお呼びください。
必ず────お呼びくださいませ……────」