序之三
目の前にいる童児が、大御所に向かって慇懃に言った。
家康は訝しがった。
「なに? 視えただと……?
いったい、なにが視えたというのだ。
申してみよ」
家康が問うと、蒼頡は一呼吸置いた後、
「……海でござります」
と言った。
「海?」
家康はすぐさま聞き返した。
「……はい。
江戸殿が……海の真ん中に座しておられる姿が、視えたので御座ります」
家康は目を丸くした。
「海の真ん中に座している、だと?」
家康が問うと、蒼頡が頷いた。
「はい。
正確に申し上げますと────幼少の頃の江戸殿が、大海の真ん中にぽつりと顔を覗かせる小さな岩肌の上に、座しておられます。
ちょうど、今のわたくしと同じ年頃のお姿のように思われます。
周りは広大な海水に囲まれており、他には何もありませぬ。
何とも、累卵の危うき場にござります」
家康が、子どもの言葉に集中した。
「やがて……天に妖しき黒雲が立ち込め始め────周囲は嵐となります。
風が吹き乱れ、大海は轟々と荒れ狂い、幼い江戸殿は不安定な岩肌の上で、今にもその小さな身体が海中に落ち、波に飲まれるかという状況に陥ってしまわれます。
すると間もなく、江戸殿の背後に激しい波が押し寄せてまいりました。同じくして、なぜか江戸殿の目の前に、粉雪も降り始めてまいります。
吹き荒れる周囲の様子とは裏腹に、雪だけはどういうわけか穏やかに、江戸殿の周囲にのみ、まるで江戸殿を守るかのように、しんしんと降り注いでおります。
天から静かに降り注ぐ粉雪は、荒れ狂う海中に溶け込むかと思いきや、江戸殿の目の前で光りながら、宙に留まり始めます。
その雪の一粒が、不思議なことに突如、一冊の大きな書物に変化いたします。降り注ぐ粉雪は次々に、何十、何百、何千冊といった、大量の書物に成り変わってゆきます。
その書物たちが、江戸殿の前に列をなし、道を作ります。
座していた小さな岩肌の上ですくりとお立ちになると、江戸殿は目の前に現れた一冊の書物の上に片足を一歩踏み出し、書の上にお乗りになります。
江戸殿が全体重をかけても、書物は微動だにせず、海の上で静かに留まっております。
江戸殿は、海の上に現れた書の道を一つずつ渡り始めます。
荒れた海と小さな岩肌しか無かった危険な場所、背後に迫り来る激しい波から、危うく海中に飲まれるかという間一髪のところを、幼い江戸殿は書の道を渡って、走り逃がれます。
書の道を一歩一歩渡り駆け行く度、不思議なことに江戸殿は徐々に背が伸びてゆき、年を重ね、やがて成人してゆかれます。
盛年になられた江戸殿は、書の道の上を必死に走り続けておられます。
背後にはまだまだ、荒れ狂う大波が江戸殿に向かって押し寄せてまいります。
すると、波の水飛沫がいつしか赤く染まり、やがて人に成り変わってゆきます。赤い飛沫が、血と泥に塗れたたくさんの兵士に成り変わってゆきます。
飛沫の一粒一粒が、戦で亡くなったものたちの亡霊に続々と変化し、江戸殿の背後に次々と迫り、襲い掛かります。
江戸殿はそのお背中に、戦死した同胞や敵陣の兵士たちを何十体、何百体、何千体、何万体と背負って、走り続けておられます。
背に数多の亡霊を抱えながら、江戸殿は書の道に導かれ、必死に走り続けておられるのです────」