序之二
江戸の外れの山奥に住むという、一人のとある陰陽師の噂を聞きつけた家康は、家臣に命じ、その名士を江戸城に招いたことがあった。
会津に出立する直前の、ぴりぴりと張り詰めた空気が江戸城内を重苦しく取り囲んでいた最中の、束の間の出来事であった。
その陰陽師について、家康は以前、少しばかりの噂を耳にしていたことがあった。
地相に詳しく、天体の動きを見極める優れた陰陽師がいる、というものであった。
一年程前である。馴染みの宮大工が家康に向かって、嬉しそうにこう話していたことがある。
「元々疑り深い性分なもんですから、初めは半信半疑だったんですがねえ……。
これまでに三度、あの陰陽師様が言う通りの日にちと方角から寺の修繕や着工に取り掛かったことがありやしたが、三度とも全て、怪我なんざする奴ぁ一人もおりやせんでした。
普請中の雨風や禍事もほとんど起こらねえもんだから、落成まで毎度とんとん拍子に作業が進みやがるんでさ。
普請の始まる度にあの御方の仰ることに従ってやっておりやしたが、それで凶事が起こったことなんざ、結局ひとっつもありやせんでした。
ほんに、やりやすいったらねえです」
その陰陽師が、数日前にとある呉服屋に現れた怨霊を見事に祓い清めたという珍奇な噂が、家康の耳にまたしても流れ込んできた。
家康はいよいよ、この陰陽師に興味を持った。
会津征伐も間近に控えている、重大な時期であった。
一度、この名高き陰陽師に戦の勝機や動向をしかと占てもらい、どんなに小さな物事でも、勝つための糸口をこの名士から何かしら掴み取ろうと、家康は考えたのである。
招かれた陰陽師は白い狩衣を纏い、凛々しい顔つきと清涼感の漂う出で立ちで家康の前に参上した。傍らには、八つになる幼い息子が、名士の片袖にぴったりとくっついていた。
陰陽師の受け答えはまことに冷静で極めて落ち着いており、征夷大将軍を目の前に、物怖じをする様子などは一切無かった。独特の深い威厳を醸し出すその陰陽師は、名を土御門帝鴻といった。
会話の中で家康はふと、
「その童は、おぬしの子か」
と、帝鴻に向かって聞いた。
「はい。我が子にござります」
帝鴻が答えた。
「そなたの式では無いのだな」
家康はそう言って笑みを含むと、子どもの顔をじ、と見た。
子どもは、きらきらとした大きな瞳を家康の方に向けていた。
「ふむ。……そなたによう似ておる」
帝鴻に向かってそう言うと、家康は子どもに向かって話しかけた。
「名はなんと申す」
子どもは、瞳をきらりと輝かせた。
「土御門蒼頡と申します。
仮名は、“刻”でござります」
家康に向かって、幼い蒼頡がはっきりとしたよく通る声音で、真っ直ぐに言った。
この時家康は、この童児は余り賢しき子どもでは無いのかと感じた。諱を先に口にした蒼頡を、家康は一瞬、甘く見た。
しかし次の瞬間、家康を見つめていた蒼頡の顔がぐっと真剣な顔つきに変わり、その大きな瞳から、一筋の涙が、ぼろりと零れ落ちた。
「……なんだ。どうしたのだ」
家康が思わず、蒼頡に向かって訊ねた。
左腕を眼前に持っていくと、蒼頡はその腕を左右に大きく動かし、ぐい、と涙を拭った。
「────いえ。なんでもござりませぬ。
ただ、江戸殿を見つめておりましたら……。
視えてしまいました故……────」
