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蒼頡の言霊【第二部~華胥之国編~】  作者: 逸見マオ
第一章
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一之十

「なんだよ幽鴳ゆうあん

 おめえ、このじいさんのこと知ってんのか」

 

 陸吾が、幽鴳ゆうあんに向かってたずねた。

 幽鴳は、狄希てききと名乗る大岩の上の老人からじっと目を離さないまま、

「……ああ。陸吾てめえこそ、知らねえとは言わせねえぜえ。酒好きなら、一度は必ず耳にしたことがあるはずだ。

 中山国ちゅうざんこくの、狄希てきき仙人────。

 幼少がきの頃にようく、耳にしていたもんさあ……。

 この、飛耳ひじ長目ちょうもく幽鴳ゆうあん様にとっちゃあ、忘れたくても決して忘れられねえうわさのうちの一つになっちまった……」

と、遠くを見つめるような表情で言った。


 続けて、

「まさか今んなって、こんな状況で出会うことになるとはなあ……。

 俺ぁ、狄希あんたに会いたいと願って、あんたを探して、北の地を七年ほど、ずうっと放浪していたこともあったんだぜえ。結局見つからずじまいで、とうとう、探すのは諦めちまったがなあ……」

と、話しながら、次第に目をぎらぎらと輝かせ始めた幽鴳が言った。


「中山国の……狄希てきき仙人だあ?

 聞いたことがあるようなないような……。

 おめえ、そんな血眼ちまなこになってまで、なぜこの爺さんを探していたんだよ?

 この爺さん……何者だ?」

 大岩の上の老人にちらりと目をやりながら、陸吾が幽鴳に向かってたずねた。


 大岩の上の老人が、黄色い歯をき出しながら、幽鴳に向かってにんまりと口を開いた。


「────しゃ、しゃ、しゃ!

 いやいや。そうであったか。さぞ、難儀なんぎしたことであろうよ。

 ふむ……しかし、過去のおぬしの心内こころうちしんに願っておったのは、このわしを探し出すことではない。まとがずれておるぞな。

 まあそらあ、見つからぬわい」


 耳慣れない笑い声を発した後、狄希てきき老人が、しゃがれた声でそう言った。


「……あ?」

 幽鴳ゆうあんは思わず、気の抜けた声を返した。


「おぬしが願ったのは、『中山国ちゅうざんこくの仙人を探し出すこと』にあらず、と言っておるのだ」

 狄希仙人が言った。


「……いや、俺はこの耳で、確かに聞いた。何度も、違う人間から耳にした! 『千日酒せんにちざけつくる、中山国に住むある仙人』の話を!

 それで俺は、俺にしちゃあ珍しく、仙人あんたに会いたいと一心に願って、必死に探し回ったんだ。なにも、ずれてなんかいねえさ!」

 幽鴳が、力強く言った。


千日酒せんにちざけ?」

 与次郎が聞き返した。

千日酒せんにちざけだと?」

 陸吾も、幽鴳に向かって聞き返した。


「ああ、そうだ。与次郎は酒なんざまねえから、聞いたこともねえだろう。

 千日酒せんにちざけ────一杯呑んだだけで千日酔っぱらうことができるって噂の、この世にふたつと存在しない、究極の酒だ。

 そしてこの目の前にいる爺さんは、────この爺さんこそが────その酒をつくることができるこの世でたったひとりの特別な仙人ってわけだ」

 内に秘めた衝動を必死に抑えている様子でそう言った後、幽鴳は、のどを大きくごくりと鳴らした。


 狄希てきき仙人が再び、しゃ、しゃ、しゃ、と笑った。


「……ああ、いかにも。千日酒を造る中山国の仙人とは、このわしのことぞな。そしておぬしの言う通り、千日酒はこの世にふたつと存在せぬ。

 しかし、いくら探してもおぬしはわしを探し当てることはできなかった。それは至極しごく当然の結果である。

 なぜならおぬしの肺腑はいふひそむ真意は、『仙人に会うこと』にあらず。真の目的は、『()()()()()()()()』であるぞな。

 つまり本心では、おぬしはわしのことなぞは、そのじつ別にどうでもよかったのだ。『()()()()()()()()()()()』に興味をそそられただけぞな。

 まるで同じことのようであるように感じるかもしれぬが、これは違う。例えばわしに会えたところで、実際に千日酒を呑むことができるかはわからぬ。しかし、おぬしはあわよくば、わしを万が一にも見つけ出すことに成功し、運良くめぐえたあかつきには、たとえ何らかの事情によりのどから手が出る程にほっしていた千日酒にはありつけずとも、まあ別の美味い酒にでもあやかってやろうという、少しよこしまな、本来の望みとは違う欲を考えておったであろう。

 だから、出逢うことは叶わなかったのだ。軸がぶれている。ぶれていては、自身が真に手に入れたい望みを掴み取ることなどできぬ。

 自身の根本こんぽんにある本来の望み────すなわち内なる本質をはっきりと見定めることができておらねば、まとはずれる。真の望みへの道は、自己を理解しその一点のみに集中することができておらねば、いかなる場面においても、それはすべからく遠ざかってゆくものぞな」


 狄希仙人はそう言うと、目をぐ、と細めた。


「だがしかし。今、こうしてこの地へやって来れたということは……、ふむ。

 なにやら、ぬしらには成し遂げなければならぬ何かがあるようだ。さすがは、帝鴻ていこうの息子というところか。親子共々、天に期待されておるぞな。

 どれ。ここに来た理由と、おぬしらの真の目的を、この老いぼれにじっくりと、聞かせてもらおうか」


 そう言うと老人は体勢を崩し、大岩の上で蒼頡達五人の方へ向きを変えながら、くるりとなおした。

 同時に、老人の頭の上に載る酒器が少しだけぐらつき、中身の酒がちゃぽん、と小さな音を立てた。

 

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