一之七
壊れた壁の瓦礫の隙間から、埃の入り混じった白煙が、荒れ狂う豪雨の墨空に向かって朦々と立ち込めている。
嵐の中、櫓に向かって勢いよく突っ込んできた大杉の丸木舟の上に乗っていたのは、若く美しい、ひとりの娘であった。
その顔は青白く、よくよく見ると肌の色はまるで蝋のようで、生気が全く感じられなかった。
舟から顔を上げ二、三度程小さな瞬きを繰り返し、やがて目の前にいる二人の男の姿に焦点を合わせると、娘は蒼頡と与次郎の顔を交互に見つめながら、
「……ああ……。なるほど。
貴方様方のことでございましたのね……」
と、囁くような小さな声で、ぼそりと呟いた。
「え?」
与次郎が思わず聞き返した。
「……いったい、どういうことでございますかな?」
蒼頡が、娘に向かって問うた。
「……ええ。そのう……。
声が聞こえてまいりましたの。初めは、川の底の小さい泡のような微細な声でございました。それが、いつしか次第に大きくなって、常にわたくしの頭の中に聞こえてくるようになったのです。
その声が、『こちらへおいでくだされ』と、何度も呼んでいらっしゃったものですから……。
その……わたくしたちのことを」
娘が辿々しい口調でそう言った瞬間、大杉の丸木舟の先端がうねうねと波打ち、直後、その舟の先端が頭をもたげるかのような奇妙な動きを見せた。
まるで、大蛇のような不気味な動きであった。
与次郎は無意識に、その舟を激しく警戒した。
無機物のものがまるで生き物のような動きをみせる。────それは決して、信用できるものでは無い存在であると、与次郎は本能的に感じ取っていた。
娘は、自身が身を預けている丸木舟を愛おしそうに見つめながら、不気味な動きをみせる舟に呼応するかの如く、小さく頷いた。
「そうね。
あのう……。お連れする前にひとつ、お頼みしたいことがございますの」
丸木舟から顔を上げ、蒼頡と与次郎に向かって、娘が言った。
「────お連れする、とは……、いったい何処に」
支離滅裂な娘の話をいまいち理解しきれないまま、与次郎が言葉を返した。
「この舟に乗れば、わかりますわ」
その言葉を聞いた瞬間、蒼頡は一瞬瞳をきらりと輝かせ、娘の顔をじ、と見つめた。
蒼頡を見つめ返してくる娘の瞳の奥は井戸の底のように仄暗く、どこまでも沈みこんでゆきそうなほど、深いものであった。
「その、頼みというのは」
蒼頡が娘に問いかけた。
長い睫毛を二、三度ほど瞬かせると、娘は、
「金の餅を、戴きたいのです」
と言った。
「金の餅……?」
与次郎が小さく呟いた。
「────ああ。あるぞ」
背中から突如、声がした。
与次郎と蒼頡が思わず後ろをぐるりと振り返ると、そこに、陸吾が立っていた。
懐を、ごそごそと弄っている。
「金の餅ってえのは、これのことだろう」
そう言って、陸吾は懐から何かを取り出した。それは、和紙に包まれていた。
陸吾が、手に持っているその和紙の包み紙をぺらりぺらりと器用に開けると、和紙の中に、きな粉をまぶした餅が三つ、入っていた。
その餅を見た瞬間、仄暗かった娘の瞳に、ほんの少しの光が、きらりと宿った。
「きな粉を安倍川で取れる砂金に見立てて、つきたての餅にまぶして食うんだと。昨夜門番が教えてくれたぜ。
そんでそいつが食ってたのをかっぱらっ……いや、もらってきて持っておいたんだ。腹が減ったら食おうと思ってな。
安倍川餅ってんだろう」
陸吾がそう言った瞬間、
「ええ、そうでございます! それです。それを戴きたいのです」
と、娘が声を高くして叫んだ。
「だってよ。どうする、蒼頡。
俺としては、今すぐにでもこの別嬪さんにこの餅を全てくれてやりてえところだが……」
陸吾がそう聞くと、蒼頡は娘と丸木舟の方に向き直り、今一度、この二人のことを凝視した。
「……金の餅を捧げる代わりに、いったい我々を何処へ連れて行ってくださるのか────どうか、教えていただけませぬか」
蒼頡が、再度娘に問うた。
蒼頡の目をしばらく見つめた後、丸木舟にちらりと目をやり、陸吾が手に持つ金な粉餅にちらりと目配せをしてから、やがて娘はゆっくりと、口を開いた。
「……中山国でございます」
その言葉を聞いた瞬間、蒼頡の瞳が、みるみる輝きを増し始めた。
「なっ……なにっ!? 中山国だって!?」
突如、階段下から幽鴳の一際大きなどら声が櫓内に響き渡った。
「ええ。左様でございます。
その国に、ある一人の仙人様が住んでいらっしゃいます。
その御方なら、華胥の地へ行く手がかりや方法について、何かしら知っていらっしゃるに違いありません」
何もかも承知であるといったように、娘は蒼頡達に向かって、はっきりと、そう言ったのである。




