第一章【20人目の主人公】〜飛び立ち〜
"仲良くなりたい"。"仲良くしたい"。
そんな欲を出すべきではない。
後々後悔と言う名の苦痛がココロを蝕む。苦痛が蔓延る。
逃れたいのならば──。
「身を委ねて。ちゃんと掴んでいてね?」
「飛びますよ」
彼女らがそう言うと、私は産まれてからずっと囚われていた重力の檻から解放された。
人は飛べるんだ……。そんなしょうもない考えを頭に浮かべていた少なく、飛んだ勢いで向かってくる冷たい風のせいで我に返った。ふと、気になって
「何処へ向かっているのですか?」
と訪ねてしまった。つい先程「詮索するな」と言われたばかりだというのに。
正直、何処か分からない場所へ連れて行かれるのは不安だ。1歩間違えれば=誘拐になりうる。
不安の感情が喉奥まで押し寄せていて、きっと声が震えていただろう。
……いや、震えていたとしても寒さのせいにすればいい。
そうやって割り切るしかない。だって何も、誰も知らない"初めまして"だもの。
「言ったでしょう? 鏡の向こうよ」
銀色の髪を揺らし微笑む少女。その瞳の奥には何かが息を潜め、眼球の色を濁らせている。
野望か、欲望か、希望か、絶望か。
「……鏡? 鏡なら部屋に……」
「脳みそ単細胞ですか。どの家庭にもある一般的な鏡にそんな効力があるなら、世界中の人がぱったりいなくなりますよ」
「確かに」と、先に溢したのは鈴華だった。
「……鈴華。貴方も、ですか。おばか」
「……そこはノーコメントで」
そんな茶番のような会話は数秒後に空気に呑まれ、3人で夜空を見上げていた。すると唐突に冥華が、
「……今日は空が綺麗ですね。"ずっと──"」
と独り言を呟いた。「ずっと」。その先は夜風にかき消された。
その"独り言"に反応を示しても、「どうかしましたか? ちゃんと掴まっていて下さいね」と白々しく話を逸らす。
──いずれ分かることだろう。そう諦め私は彼女らの手を握り直した。
……それにしても、今日は一段と寒い。ベランダにいたとはいえ、こんな外に出るつもりはなかった。薄着できてしまったことを早くも後悔する。
その特別な場所……"鏡の向こう"へ行くための場所に行くまでこんな服装で行かなければいけないのかと覚悟したが、2人が色々な話を聞かせてくれたおかげで退屈することなく到着できた。
数時間前、彼女らはベランダでの話と比べ物にならない程多くの説明をしてくれた。大分そちらに意識が割けていたので、飛んでいることも少し快適になりつつあった。
1つ。鏡の世界に部外者が立ち入ることは禁忌的な行為であり、悪事を働くと即刻牢に入れられてしまうこと。
2つ。特別な場所については、一般人は今の所誰も知らないこと。
3つ。鏡の向こうへ立ち入るにつれこちらの世界での存在が薄れていくこと。
4つ。向こうでは「初めまして」は歓迎されない。常に鈴華か冥華と共に行動すること。
5つ。外の世界の事について口を滑らせると訝しまれるため、入って直ぐは話さないこと。
他にもルールや鏡の向こうの世界についての話を頭に叩き込まれた。
永い付き合いじゃないだろうに……。向こうに行ったら私は開放されるんでしょ。
──まぁ野放しにされて変なことして捕まるよりかはマシか……。
無言で復習していると、沈黙を切り裂くが如く空気の読めなさそうな呑気な声が響いた。
「……2人共? 行くよ?」
ハッと我に返った。危ない、そのまま思考の世界に呑まれるところだった。
視界の隅でワンテンポ遅れてビクッと肩が上がる姿が目に入った。……冥華だ。何か集中していたのか、驚くほど遅い反応を示していた。顎には考え事をしていたのか、置いてけぼりにされた右手が添えられている。
冥華は右手を無理矢理引き剥がすと、「……空気を読んで下さい」と鈴華を睨みつけた。……あろうことか私の方を向いてもそのままで視線は鋭かった。
考えることを一旦止め、部屋を見渡してみる。色々な大きさ、形の鏡が置かれている室内にいた。外より幾分か暖かい。
(……到着したのに、ぼーっとしていたから……何だか勿体無いな)
ぐるっと一周見渡すと、一際大きな鏡が目に留まった。
近付いてみて、少しそうっと手を添えてみると、"ダイラタンシー現象"という表現が似合うだろうか。すうっと手が吸い込まれた。と同時に室内の温度で"温められた手"が私の手首をがっちりと捕えた。
「……! …………!?」
ビックリしたのはほんの一瞬。顔を上げるとぶすっという擬音が合いそうな程険しい表情で私を睨みつけていた──冥華がいた。
頭の中で鳴っちゃいけない様な音でサイレンが鳴り続けている。
「……えぁ、えっとその」
弁明の余地は無い。
「単細胞」
謝罪の言葉を述べる前に会話を一刀両断されてしまった。
「よくあの説明を理解できましたね?」
表現するならば【蛇に睨まれた蛙】。一生体験したくない状況。
人生で一度も経験する機会がないと思っていたのに……。
「お〜……い! 変な音……した……けど。だいじょ……ぶ……?!」
ハァハァと息を切らして駆け寄ってきたのは勿論鈴華。
どうやら彼女は道音痴らしい。室内なのに迷子になる程の。……いや、室内だと方向音痴だろうか。意外と狭かったが……。
そんな事を考えつつ、
(ありがとう。ありがとう。助かった。空気の読めなさはさっきまでは役に立たなかったけどありがとう)
──と思っていたら、鈴華はいつの間にかこちらを向いていて、
「……なんか私罵倒されてない?」
と呟いた。うん。当たり。おめでとう。
──さぁ、覚悟を決めるときだ。
冥華は鈴華を一瞥し、また鏡に視線を向けた。
「……はぁ。仲が良さそうで何より。──ここが鏡の向こうの世界につながる重要地点です。詳しく言うとこの鏡だけ、ですが」
「ワァ、アタッテタ〜」
「…………」
(……っいけない。また蛙に。今度は鈴華が止めてくれるとも限らな……いや、そもそも最初も不確定……)
「まぁまぁ。行かなきゃいけないんでしょ? "急ぎの用で"」
ナイス……! と冥華に気付かれない様にグッと親指を立て……て…………? "急ぎの用"?
顔をしかめているとまた鈴華がゴフッと吹き出して咳き込んだ。今は鏡がありますけど?
「……っふ。……それはさておき。私は先に行ってるね? 許可が必要だし」
「許可?」
「私達が近くにいるとしたとて、急にこっちから入ろうとすると警戒されますから。……あと、これマスク」
「警戒……? ってな」
はい、と遮られる様に手渡されたマスクは妙に温かく、ずっしりと重さを感じた。マスクを取ろうと手から剥がすと、マスクではなく手のひらが熱を帯びている。マスクが落とす影に隠れて、缶のコーンスープが隠れていた。──特に冥華は言及してこない。
「……ありがとう」
「──何が、ですか?」
白々しいにも程がある。知らないなら別にこっちも言う必要ないからいい、と拗ねた子供の様な態度をとってみせた。
「……んじゃ、準備できたし行ってくるね〜」
「──そういえば、いつの間にそんなフレンドリー「それは置いといて」
少しだけ待ってて、とウィンクを一つ。詮索するなと言った冥華も、鈴華がちゃんと遮ったことに安堵したのか、少しだけ目が落ち着いていた。
──きっとここは、一番安心できる空間。
「はぁ……? まぁ、気を付けてね……」
それだけしか声をかけられなかった。きっと、安全だけど。
鈴華が鏡に腕を突っ込むと、甲高い音が部屋全体に響いた。耳に残る不快な音。それこそ人間が嫌う様な音にすることで、無闇に近付けさせないようにしているのだろうか。
そんな事を考えていると、珍しく
「……私と一緒で、嫌にならないんですか」
と冥華に声をかけられた。
「……いや別に? 初対面なのに何か私に対してピリピリしてるなぁとは思ったけど。何か多分私がやらかしたんだろうと認知してる。──それよりさっきの音の方が嫌だった」
「……申し訳無いです。此方が無理矢理連れてきたようなものですし」
そう短い会話を終え、部屋の真ん中で背中合わせになって座る。別に話さなければどうってことない。鈴華が帰ってくるまで2人で話すことはもう無いだろう──。そう思っていたのに、どちらかが口を開くまでの沈黙はそう長くは持ってくれなかった。
「……もし、もしですよ?」
「…………」
鈴華遅いな。そう考えながら体育座りをしてぼんやり天井を眺める。
「……っちょっと。聞いてますか」
「……ぇあ、ごめん電話してるかと思って……」
「……聞きたくないならいいですけど」
「別にどんな内容の話か知らないのに聞きたい聞きたくない判別できる訳ない。し、そもそも自分から話振っておいたくせに何それ」
随分なよそよそしい雰囲気。絡みすぎるのも好きではないが、避けられる方がよっぽど辛い。
でも急に話しかけられて喉が渇いて、流暢に喋れる自信も無い。覚悟の上で話すとしよう。
「……なら話します。──驚かないでくださいね?」
「……私の過去なんか知らないだろうけど、もうびっくりする精神は抉り取られてる。……筈。まぁでも聞いたところで何か変わる訳ないだろうし」
「……そう、ですか」
そう言って冥華は一息ついて話し始めた。彼女にとってこの一拍はどれだけ長い時間だったろうか。
「……もし、もしですよ?」
「そこからかい」
「もし……"俺"が男だって言ったらどうしますか?」
「スルーで……え、アメリカンジョーク?」
「"もし"だって言ってるじゃないですか。"If"ですよ"If"」
「"もし"なんて予想に過ぎないと思うんですがあの。それとも何? からかってる?」
「いえ、そんなつもりは……というか、驚かないんですね」
嘘。驚いていない訳じゃない。実際さっき貰った缶のコーンスープを逆さまにして溢すのをギリギリで止めたくらい……唖然としていた。しかし、よもや令和の時代。そういうのもあっておかしくは無いだろう、と踏みとどまれた。
「言いました〜。驚く精神は削り取られたって」
ブーブーと擬音が付きそうな返しをすると、
「……そうですか」
とただ呟くだけだった。
話の流れを変えるかの様に、冥華は私のコーンスープと一緒に買ったと思われる甘ったるそうなミルクティーを飲み干して、弧を描きながらゴミ箱へ容器を投げ入れた。すかさず私も投げ入れようとするが……1m程足りなかった。と同時に入らないと思っていたのか、ゴミ箱の近くに立ちに行った冥華がそれを拾い上げ、ゴミ箱に叩き付ける鈍い音を背に帰ってきた。
「……まぁ何でそんな話をしたかというと、俺、男なんですよね」
目蓋を閉じて、ニコニコとした表情を見せる。傍から見れば無邪気な少女だ。
「──さっき、1人称変わってたもんね」
「あちゃ〜」
何も気にしちゃいない様な呑気な声。私に話したとしてもリスクがないと思ったのだろうか。
……そういえば、何故男なのに"冥華"という名前なのだろうか。男と言えど、身長や体格などは女そのもの。声は──"少し作っている様には感じる"。が、男だと言われなければ分からない程、外見との違和感は無かった。
何で? どういう事? そう口に出すより前に、ふぁ〜ぁぁ……、と、そんな滑稽な声が室内に響く。
「……眠いなら寝ても」
「……いや、鈴華もうすぐ帰ってくるでしょ。すぐに出られるように起きてたいし」
でも別に、目指せ桃源郷!! 私の自由はすぐそこにあるから眠っていられない!! というテンションではない。限りなく真逆で、冷静な私。見知らぬ土地に出るというのに、こんなにも興奮が見えない旅人はいるだろうか。
「別に起こすのでいいですよ。それに結構遠いですし」
「え、初耳。それ早く言ってよ。──なら、お言葉に甘えて……」
「……背中、使っても」
「……! あ、りがと……う?」
スマートだとは思うけれど、こんな口の悪い奴に惹かれるほど私は馬鹿じゃない。そう言い聞かせながら冥華の背中に身体を預ける。体格に反して、その体はしっかりと私の頭を受け止めた。身が楽になり、意識が朦朧とする。結果、私は5分も経たずして意識を簡単に手放した。
意識が途切れる間際、最後に聞いたのは
「寝てる間に刺されるとか襲われるとか、警戒しないんですか──」
という冥華の呆れた声だった。
──夢を見た。とてつもなく永い眠りについていた夢。
海が大好きなとある少女がいた。
故郷の海に浸かりつつはしゃぐ少女。
「もう海になれてるから」、「もうおねえさんだから」、と浮き輪も何も付けず泳いだ結果、いとも容易く溺れた。
本能的溺水反応──。子供は訳が分からないまま静かに沈む。抵抗すらままならない。
溺れ底についたとき、桃色の宝石を見つけた。暗い水底で見つけて、と必死で輝いている。意識が朦朧とする中、どうせ助けてもらえないなら、と少女は宝石を握り締め目を瞑った。
「宝石を落としちゃって、探していたんですって」
そんな意味の分からない理由が耳に入った途端、大人の心配そうな表情が視界を覆った。安堵する大人、叱る大人と反省する大人、疲れ果ててパラソルの下で寝転ぶ大人、飲み物を買ってきて渡してくれた大人……それらをぼうっと見つめていると、ふと視界がじわじわとインクの様に真っ黒く染まった。
「次だよ」
コソッと、耳元で囁かれる。あまりのくすぐったさに、肩がびくりと動いた。
朝起きれば、テレビが付いていた。それは、普段通りだった筈なのに。
ピンポーン、と、インターホンを押す映像。アナウンサーは、「誰も出てきませんね」と一言、カメラ外で呟くだけ。いかにも残念そうな、獲物を逃したような心情が声にこもっていた。
カメラの端に映る表札を見ると、「星川」。私の家の表札。
昨日の一つのインターホンの音はこれだったのか。妙に自分の中で納得していた。
一つのニュース番組で何度も利用されるインターホンを押す映像。
それは、日を重ねるにつれ、何百。何千と増えていった。
映像では、一回きりのチャイム。でも、実際は何万と押されていて。
視聴者はそれを正しいと思っていて。
昔も私は自業自得だと思っていて──。
その立場にならないと分からないことが幾千とあることを私はそこで痛感した。
一つと見せかけた虚像は、実は裏でぶくぶくと事実を蓄えて、隠していて。
ピンポーン。その一通が始まり。
ずっと、幻聴の筈なのに、決して幻聴ではなくて。
ずっと、耳の暗い奥底に、反響し続けていて。
頭に焼き付いて、離れなかった。
「貴女の贖罪はまだまだ。祖先の罪は、ずっと子に引き継がれていくんだよ?」
そう甘く優しい声が響いて…私は教室の中にいた。
視線を落とすと机には何て書いてあるか分からないくらいのきったない文字。
辛うじて読み取れたのは「クソ野郎」とのみ。
(漢字で書けばいいのに)
でも、そんなの気にすることじゃない。私と生きてる世界が違うだけ。そんなのに時間を割く暇はない。ただでさえ、家でチャイムの音に迫られて、窮屈な暮らしをしているというのに。
何時も通り授業を受けようとして教科書を広げると、上からばしゃっと音がした。一瞬の理解できない時間を挟み、液体が輪郭を伝っていく感覚でようやく分かった。
(私だ)
その後の対応は覚えていなかった。……いや、覚えるに値しなかったのだろう。
そのまま授業を受けていたのか、先生を呼んだのか、呼んでもらったのか、先生が気付いたのか──。
何も気にしなかった。それは今の私もそうだろう。
はぁ、と呼吸をするとまた視界が闇に覆われた。今度は視界に漆黒のフィルムを貼り付けられた様に一瞬で。
次は何処だろう。そう思ったが、見知らぬ声は聞こえなかった。その代わり……
「…………ん、……さん、……川さん……! 星川さんッ……!」
"聞き覚えのある声"が頭いっぱいに広がった。
ビクッと身体を起こすと、口が半開きで冷や汗なのか額をてらてらさせた冥華が私を両手で抱えて、私の名字を読んでいた。
「……っえ何なにどうしたの……?! ……っあごめん重かったね……」
「……いや、別に……大丈夫です。うなされていたのでつい叩き起こしてしまいました」
「あ、ありがとう。でも、何を観てたか覚えてないや……」
あはは、と一人で乾いた笑いを上げて、2人で床に手を付いて安堵する。
うなされてた……ってことは、トラウマとか"嫌な思い出"の夢を見てたのかもしれない。
少しだけ頬が何かの液体で濡れていた。殆ど乾きかけの。
触ると冥華が慌ててハンカチを差し出した。丁重にお断りする。とその時、指先がハンカチに触れた。
何故かベタベタしている。……もしかしたらこの謎の液体を拭き取ってくれたのか。
私が排出した液体か、冥華が起こす為にわざと掛けた液体か。それとも第三者か。
「……そういえば、私の名前……」
冥華が、自販機へと近付いて、一つ。紅茶を買った。私は微糖派なんだけどな。
「……あれ? 言ってなかったですっけ?」
ピッ、という音と同時に、いつの間にか"元通り"になっている声が返ってきた。
「星川、ってやめて」
「え」
予想外の返し方をされたのか、ペットボトルの紅茶を持ちながら目の前で棒立ちされた。
「え、あ、どどうぞ……?」と困惑しながら渡された紅茶を貰い、1/3を飲み干した。
紅茶がすうっと喉を通る。自分で排出した液体だったなら、喉が渇いていただとか色々理由が付けられるだろう。
「……因みに理由を聞いても?」
「……──色々あった時に先生に"星川さん"って」
我ながら嘘がとことん下手だと思う。嘘を吐きたくて吐いたわけじゃない。
「あと敬語も。理由は同じく」
「……なんか面倒くさくなってません? ていうか貴方いつの間にか敬語じゃなくなってますね」
「──自分だってさっき『俺男なんだよね』って言った時タメ口だったくせに」
「……何で俺だけ駄目なんですか」
図星だ。でも相手はともかく自分は居心地の良いように生きていたい。
「じゃあお言葉に甘えて──
宜しく。"葉月"」
「うん……宜しく。冥華」
そう言い終えると、室内の筈なのにふわりと冥華の髪の毛が舞った。
そう言えば、何で"私の名前を知っていた"のだろう。




