第25話 陸経漆灘
(俺達のどちらかが道を誤った時……その時はどちらかがそれを止めるんだ)
二人の男が約束を交わしたその日は、とても綺麗な夕焼けが空を彩っていた。
その空はあの日と違い、今は血塗られたように赤く染まっていた。
「おぉぉらぁぁあぁ!!」
鋭さと重圧が何倍にも増した拳が、ヴェルモットの頬を捉える。
拳が当たった瞬間、その衝撃で一瞬だけ頬が陥没すると、振り抜かれた拳の圧力が顔面を跳ね上げた。
巨大な口から緑色の血がボタボタと垂れる。
頬を伝う痛みに怒りを覚えたヴェルモットは、追撃がくる前に大口を開き、クロエを丸呑みにする勢いでかぶりつく。
しかし口が閉ざされる瞬間、クロエは上牙と下牙を掴みとると、その手に力を込める。
爆発的に握力と腕力を高めると、両牙を根本から無理矢理引き抜いた。
「ぐぅあがぁぁ」
流石のヴェルモットも苦しそうに呻きをあげる。
息づかいも少し荒くなり、先程までの余裕はすっかりなくなっていた。
「強者との命を賭けた戦い。なんて楽しいんだ。なぁヴェルモット、そんな苛ついた目をしているんじゃない。もっと笑って楽しめよ」
黒く染まった両目で笑みを浮かべるクロエは、まるで残虐な悪魔そのものであった。
遠くからその姿を見ていたティナは、クロエの狂喜がどんどん増していくのをただ見ていることしかできなかった。
止めにいきたくても、震えた足が動くことを許さなかったのだ。
「ほざけ人間!! 肆倫を開放したかと思えば、貴様のそれは暴走に近い! そんな程度で我と対等に戦えると思うでないぞ!!」
「だったら俺をもっと楽しませてくれよ!!」
超スピードより繰り出されるクロエの多方向同時攻撃が、ヴェルモットの顔面を容赦なく変形させていく。
上下左右いたる方向に顔を弾かれるヴェルモットであったが、それに臆することなく体をうねらせる。
全身を器用に捻ると、最後尾に位置する尾の部分をクロエめがけて振り抜いた。
「やらせるか!!」
ヴェルモットの尾がクロエを吹き飛ばそうとした瞬間、咄嗟にロランが割って入り、大剣で尾を受けとめる。
何とか勢いを殺したロランであったが、その顔面をまさかのクロエが蹴り飛ばした。
「邪魔するなぁ!!」
不意に蹴り飛ばされたロランは、とてつもない勢いで地面に叩きつけられる。
そのままの勢いで数十メートルほど地面を転げまわると、口から大量に吐血し、苦しそうに咳き込みながら体を起こす。
「ク……ロエ」
大剣を地面に刺して体を支えると、霞む視界の中クロエを見上げる。
精神が暴走を始めているクロエは、視界に入るもの全てに殺意を向けていた。
顔面の左半分には血管が浮かび上がり、息づかいはどんどん荒くなっている。
強大過ぎる力に肉体が限界を迎えるのも、もはや時間の問題であった。
「ヴェルモット!! もっと、もっと俺を楽しませろ!!」
怒声と共にクロエの創遏が更に増幅する。
高まる創遏と同時に、ドス黒く染まった両目には、うっすらと十字の刻印が姿を現していた。
それは神の体に刻まれた十字の刻印とは違い、何かの記号のような集合体が、十字を型どっているようであった。
「こいつ……肆倫で留まらず、陸経まで到達するか。流石に器なだけはあるな。だが、創遏の制御が出来ていなければ、それは力の持ち腐れというものよ」
クロエの変化を観察していたヴェルモットは、強大な力の制御をできていないことを確認するや、呟くように言霊を発する。
「漆灘開放」
言霊を発すると、ヴェルモットの創遏が更に膨らんでいく。
それと同時に、金色の両目にはクロエと同じような刻印が浮かぶ。
それは、クロエのものよりもハッキリと色濃く浮かび上がっていた。
戦闘が始まった時とは、既に戦いの次元が変わっている。
クロエの加勢をしようにも、創遏を増幅させた二人に割って入るのはロランでも容易ではない。
しかし、いつ生まれるか分からない隙を見逃さぬよう、ロランは傷ついた体を奮い起こし集中力を維持した。
「漆灘まで喰らい歌を使うことになるとは思ってもいなかったぞ」
ヴェルモットがいう、陸経と呼ばれる状態までクロエは創遏を高めた。
増幅する創遏に反し、体のいたる部分が悲鳴をあげるように震えている。
攻撃を繰り出そうにも、限界が近い体ではあと数回の攻撃がやっとだろう。
それは、街から見上げていたロランからも見て分かった。
「高め過ぎた創遏の代償がきているな? 我も漆灘を維持するのは骨が折れる。そろそろ終わりにしようじゃないか」
ヴェルモットが口を開くと、ゆっくり力を溜め始めた。
先程ロランに向かい放とうとした、エネルギーの収束体の標準をクロエに定める。
クロエもここが勝負所と見極めたのか、渾身の創遏を右手に集中する。
ヴェルモットの力が溜め終わる前に、その顔面を貫かんと身を乗り出した。
「ッ?!」
しかし、クロエの足は前に進まない。
突然クロエの胴体に、十字の墓標のようなものが突き刺さったのだ。
それは創遏で形成された拘束具。
突き刺した標的の動きと創遏を抑え込む法遏であった。
「私がいることを、お忘れではありませんか?」
法遏の詠唱者はステラであった。
ずっと戦いを見ていただけのステラであったが、もっとも効率的なタイミングでクロエの動きを封じ込める。
そして、その法遏はロランにも放たれていた。
「くそ……動け……ない」
十字の墓標が突き刺さると、ロランはその勢いで地面に貼りつけになる。
完全に動きを封じられ、ただなす術なく空を見上げることしかできなかった。
「良くやったステラよ。これで終わりだ」
ヴェルモットの咆哮がクロエに放たれる。
一瞬の閃光が世界を白く染めると、蒼白いエネルギー波がクロエの体を包み込む。
眩い光に遅れて、途轍もない轟音と衝撃波がファンディングに響き渡った。
エネルギー波をまともに受けたクロエは、意識なく空から落ちる。
地に叩きつけられたその体は、人の形こそ保ってはいたが、全身が焼け焦げ、生死の有無も分からなかった。
「いや……い……やだ……クロエーー!!」
目の前の現実に、ティナは悲鳴をあげならがクロエに駆け寄る。
倒れるクロエを抱き締めると、涙を流しながら必死に名前を叫んだ。
「クロエ!! クロエ!! クロエ!!」
あまりの衝撃に気が動転したティナであったが、クロエの胸に耳を近づけると、まだ心臓の鼓動を感じる。
それを確認できたティナは、すぐさま創遏を高め、癒の歌を歌い始めた。
ティナの歌声がクロエを包み、柔らかな光が心臓の鼓動に力を与えていく。
何とか命を繋いだ歌声が、体の傷を治そうとした時、ティナの体を十字の墓標が貫いた。
「歌うことは許していませんよ」
ステラの法遏によって動きを拘束されたティナであったが、それでも歌うことを止めはしなかった。
十字の墓標は対象の創遏を抑え込むもの。
創遏を抑え込こまれた歌声に、癒の効果はないはずであったが、その歌声は確かにクロエへと届いていた。
「がぁはぁっ……はぁ……はぁ」
クロエが苦しそうに咳きこむと、同時に意識を取り戻す。
うっすらと目を開けるのがやっとであったが、そこに映るティナの顔を見ると、安心したように笑みを溢した。
「あの女……創遏を抑え込んだはずなのに」
クロエの急速な回復を見て、ステラは驚きを隠せなかった。
その横でヴェルモットは鼻息を荒くし、次の行動に入る。
「まぁ良いではないか。全て消してしまえば問題ない」
ヴェルモットは再び大口を開くと、先程クロエに放ったエネルギー波を大地に向けて放つ準備にとりかかる。
世界を破滅させる閃光が、セントレイスに照準を合わせた。