第26話 最後の声
「カイト君、遅いね」
夕方には帰るといっていたカイトの帰りが遅く、仕方なく先に夕食を始める。
一人ソワソワと落ち着かない様子のナナに、ティナは何と言えばいいか分からず困っていた。
「そのうち帰ってくるだろ? 戦場に行っているわけじゃないんだ。気にしすぎだぞ」
クロエは酒を飲みながら呑気に考えている。
確かに戦場で戦っているわけではないが、クスハと二人きりで帰りが遅いのは、ナナにとってある意味それ以上に危険なことであった。
夕食を終え、後片付けをしていた時、ガタンと扉が開く。
その音に敏感に反応したナナが振り返ると、そこには小さな買い物袋をぶら下げたカイトが立っていた。
「ただいま。ごめん、遅くなった」
「カイト! 何してたの?!」
やっと帰宅したカイトにナナは勢いよく詰め寄ると、口を膨らませ眉間にシワを寄せる。
「おっ、おう。ごめんって」
あまりの勢いに圧倒されたカイトは、もう一度謝ったが、それだけではナナの機嫌が戻りはしなかった。
「クスハと何してたの?! 夕方には帰るっていってたじゃない!」
いつになく嫉妬心を剥き出しにするナナに、カイトは落ち着いて説明をする。
「買い物が遅くなったから、クスハと夕食を済ませてグロースまで送っていってたんだよ」
「ホントに?! それだけなの? 何をそんな買い物してたの?!」
迫ってくるナナから見えないよう、カイトは右手に持っていた小さな買い物袋を体の後ろに隠した。
「何をそんな怒ってるんだよ!」
「あっ! 何を隠したの?! 私に言えないことなの?!」
隠した買い物袋を無理矢理取ろうとしたナナに、カイトが思わず声を荒げ、手を振り払う。
「何するんだよ! 何だっていいだろ! ほっといてくれよ! ナナには関係ないだろ!」
それはいってはいけないと、クロエとティナが後ろで呆れていた。
カイトの突き放す言葉にナナは一瞬固まり、プルプルと震えながら涙を浮かべ、走って自分の部屋に行ってしまう。
「あっ」
咄嗟にカイトは手を伸ばしたが、ナナにその手は届かなかった。
「カイト、確かに今のはナナも悪いが、あんな風にいったらそりゃ怒るぞ?」
「分かっています……分かっていますよ」
カイトは買い物袋を握りしめ、そのまま自分の部屋に行ってしまった。
クロエとティナは目を合わせ、はぁっとため息をついて肩を落とす。
「この夫婦喧嘩は長引きそうだな……」
ナナはベッドの上で蹲り、枕に顔を埋めながら泣いていた。
(何よ……カイトのバカ! 変態! クスハにデレデレしちゃって! そんなにクスハがいいなら、私の守り人なんてやめちゃえばいいのに!)
守り人。
その言葉がナナにのしかかっていた。
(守り人……カイトがクスハの守り人……嫌だ。カイトが……カイトが取られちゃう……)
想えば想うほど、心が締めつけられる。
カイトが好きで、好きでたまらない。
一緒に時間を過ごすほど、どんどんカイトが好きになっている自分がいた。
(クスハは好き……でも、カイトは私の傍にいてほしい。私、どうすればいいの)
カイトに対する愛情と、クスハに対する友情が激しく葛藤する。
どちらも失いたくないといった強欲に、気づけばナナは疲れてそのまま眠ってしまった。
(はぁ……たくっ、何なんだよさっきのナナは。ちょっと遅くなっただけじゃないか)
カイトはベッドに横たわりながら天井を見上げていた。
(せっかく、選んだのに……確かに、悩みすぎて時間がかかったけどさ)
買い物袋を手に取り袋から出すと、お洒落にラッピングされた小さな箱が出てくる。
その箱を見つめしばらく考えた後、カイトは小さくため息をついた。
(はぁ……後でナナの所に行こう)
冷静さを取り戻すため、カイトは目を閉じて少し眠りについた。
『……い……で』
『お……い……で』
『こっちに……おいで』
ナナは、呼ばれる声に目を開けた。
「ここは、どこ?」
少し冷たい感覚が頬に伝う。
体をゆっくり起こすと、自分が森の中に寝そべっていたことが分かった。
「私、確か部屋で寝ちゃって……何でこんな場所に?」
不気味なまでに静かな木々に囲まれ、ナナを恐怖心が包み込む。
「カイト? ティナさん? クロエさん? 誰かいないの?」
小さな声で名前を呼ぶが返事はなく、辺りに人の気配を感じなかった。
「夢……の中?」
小動物のようにキョロキョロと辺りを見渡し、軽く自分の頬をつねってみた。
「……痛い」
痛みを感じる。
夢ではないのかと考えていると、どこからか人を惹きつける優しい歌声が聞こえてきた。
「歌? 綺麗な歌声。ティナさん……じゃない。一体誰が歌っているの?」
歌声に導かれるように体が自然と動き出す。
声を追い求めるよう足早に歩くと、気づけば見覚えのある泉にたどり着いた。
「ここは……歌姫の泉」
緋色目になった時の出来事が頭を過る。
恐怖で体が震えだした時、目の前の光景がその恐怖を打ち消した。
泉の上に立って歌う女性。
長い黒髪がそよ風に舞い、細く伸びた白い素足に纏わりつくシルクのベールが、魅惑な色気を引き出している。
女性がナナに気づくと、歌をやめて静かにナナの隣へと寄ってきた。
「会いたかった……会いたかった……」
嘗めるように手でナナの顔を撫でると、緋色の両目でナナの瞳を覗き込む。
女性と目が合った瞬間、体が硬直し動けなくなったナナは、その美しい緋色の瞳に心を奪われていた。
「私の最愛の子……私の体……」
直感でこの女性が誰かを理解したナナは、必死に口を動かして言葉を発する。
「あ……なたが、ス……テラ」
事を理解したナナに、ステラは不気味な笑みを返す。
その目は、最愛の子供を見守る母のように暖かく。
そして、獲物を狩る猛獣のように鋭い視線であった。
「貴方の体……私が求めていたもの……」
「そ……んな。私の……呪いは……消えたはず」
ナナの髪の毛を擦り、額に口づけをするステラ。
それと同時にナナの両目が緋色に染まり、再び恐怖で体が震えだす。
「大丈夫……誘い歌が全て消してくれる……貴方の存在を……生きてきた痕跡も……」
ステラが膨大な創遏を身に纏い、歌い始めた。
それは先程の優しい音色ではなく、とても冷たい、とても苦しい歌声であった。
「い……や……私に……入ってこないで……いや、嫌だ」
体に異変を感じたナナは、涙を流しながら必死に抵抗する。
しかし、強大な力に拘束され、なす統べなく心を奪われていく。
ゆっくりとステラの体がナナの中に溶け込んでいき、意識が遠退いていく。
それでも必死にナナは声をあげた。
「嫌だ! カイト……助けて、カイト!! カイトー!!」
ナナが最後に振り絞った声は、誰にも届くことなく孤独に響きわたる。
そのまま二人の体は泉に消え、森は再び静寂の時に支配された。
第4章 完




