ここは夢じゃない
パン!
噛まれて割れたのは、体につけてた浮き輪だ。
運良く、俺はやられてなかった。
ただ手にスリ傷を負い、少し血が流れる。
音にひるんだ奴は、急反転して離れていく。驚いて警戒したのだろう。
だが、俺を仕留めるのをあきらめた様子はなかった。
かなり距離を取ってから、こっちを向く。
俺は奴の狙いに気づいてしまい、青ざめる。
「どうやら牙じゃなくて、俺を体当たりで殺す気らしい……」
噛みつき攻撃が不発に終わったので、殺人手段を切り替えたわけだ。
あの巨体にぶつかってこられたら、即死だろう。まず助からない。
俺に反撃手段はなく、涙がでてきた。マジ悲しい、悔しさもある。
「ああ、なんで俺がこんな目に!」
と不運をなげき、アホな現実逃避を始めてしまう。
「これは夢だ! そうだ、そうに違いない! もうすぐ夢から覚めて、叔父さんと山彦と一緒に朝飯を食うんだ。あとはバイトに行って働いて……」
化け魚は泳ぎ出す。
よーい、ドン! でスタートを切ったようだ。
ゴールは俺かよ……こっちくんじゃねー!
「それか、アレだろ? アレ! ここは異世界というやつで、神様がチートスキルをくれるはず……も、もしくは化け魚にやられても、死に戻りできるんだろ? ループもの…………」
迫りくる化け魚は本物で、夢でも何でもない。死は間近にある。
ここにきて、別の俺がささやく。
(夢? チート? 誰がそんなことを言った? 目を覚ませ! ここは『なろう』じゃない!)
そうだ! 手傷の痛みも空腹も本物だ。
俺は死んで転生したわけじゃなかった。
定番のトラックに、轢かれたわけでもない!
「おりゃ――――――――! 死んでたまるか――――――――!」
自分でも信じられないほどの力を発揮し、俺は化け魚から泳いで逃げる。
これならオリンピックで、金メダルがとれたかもしれん。
火事場のなんとかだー! 奴も舌を巻いてるだろう。
気づいたときには、浅瀬までたどり着いていた。
化け魚は追ってこない。流石に陸地は分かるのだろう。
打ち上げられた魚は、身動きがとれなくなるからな。
「はあ……はあ……ぜえ……ぜえ……」
文字通り最後の力を振り絞り、俺は陸地に上がってつんのめる。
そのまま目を瞑り、少し休んでから仰向けになった。
「海彦はスキル、九死に一生を得た。火事場の馬鹿力を得た……」
一人でぼやいてみたが、ステータス表示はでてこない。
やはり、ゲームの世界でもないようだ。
ひとまず助かったものの、今度は空腹で死にそうだ。
水は飲んだが、必死で泳いだせいで体力が限界に近い。
……もう倒れそうだ。
「うー、近くに民家は……ない。誰かいませんかー! 飯くださーい!」
か細い声で助けを求めたが、周りには木々があるだけで人気はない。
俺は食い物を探すべく、彼方此方に目を向けると、湖に小舟が浮いてるのに気づいた。
木製で塗装はされておらず古くさい。俺からの距離は少し遠い。
「あれは! 人が乗ってる。おーい!」
「……失敗した……戻ってきてしまった。私のバカ!」
風に乗って声が聞こえてきたが、何を言っているかは分からない。
声で女だとは分かる。俺の声は届いてないようだった。
いつのまにか小舟に、化け魚が近寄っていた。
「まずい! 奴だ。逃げろ――――!」
「こうなったら、私の力で倒してやるわ! 女神ヘカテーよ! 我に力を与えたまえ!」
警告をした俺は目を丸くする。女の体に光る何かが集まっていく。
後で知ったが、精霊魔法とやらを、初めて目の当たりにした瞬間だった。
化け魚はジャンプして、女に襲いかかる!
「ナイアスの守り!」
化け魚は見えない壁にぶつかり、弾き返される。
「おおっ!」
ガンと派手な音を立てたので、ダメージはあっただろう。
小舟から離れて、水の中に潜りこんでしまう。
「すげー!」
「何度でも跳ね返して、水に叩きつけてやるわ!」
これならいけるかなと思った矢先、小舟が吹っ飛んで、木っ端みじんになる。
女は悲鳴を上げて、空中に投げ出された。
「キャ――――!」
「ちっ! 小舟の真下から体当たりしやがった。化け物め!」
小舟までは、魔法で守ってなかったようだ。
戦法を変えてくる奴は、相当頭がいい。
女は頭から湖に突っ込み、水しぶきを上げた。
…………浮かんでこない。
「ああ、もう! 俺はヘトヘトだっつうの――!」
体が勝手に動き、俺は湖に飛び込む。