♯33 絶望の兎
その日は、久しぶりにパパとのお出かけだった。
ママが家を出てから、私に当たるようになったパパが、突然遊園地に行こうなんて言い出したから、驚いた。
その日、パパはとても上機嫌で、電車やバスの中でも常に笑顔だった。
私に当たる普段のパパとは、まるで別人のようで、不気味で怖かった。
バスの座席、もちろんパパとは隣同士。私が通路側、パパが窓側。なんとなく、パパとの間に熊のぬいぐるみを置いた。
楽しげな感じで明るく喋りかけるパパは久しぶりだったけど、あまり歓迎する気にはなれなかったから。
突然、一人の男がバスの中で銃を撃った。
男は全身真っ黒の服を着て、顔を黒いマスクですっぽり隠している。
右手には、拳銃らしきもの。
バスの中がザワザワとした。
何がなんだか分からなかったけど、拳銃がとても危ないものだとは知っていたから、なんだか凄く怖かった。
パパは険しい顔をしていた。
男はまず運転手に怒鳴り散らしてた。
銃を突きつけられて、運転手は言われるがままにしていた。
とにかく死ぬのが怖かった私は、声を抑えて泣くことしかできなかった。ぬいぐるみは涙でびしょ濡れだった。
パパはそんな私を慰めることはなかった。
パパも、他の客達も、自分のことで精一杯で。
男はとんでもない額のお金を出せと言った。
銃のせいで、私達は何の文句も言えない。
男はイライラしているようで、早くしろだのトロいだの、殺すぞなどいろいろと怒鳴り散らしていた。
でも、客の財布と銀行のお金を合わせても足りないような額だったのだ。
払えないとしると、男は運転手を蹴った。
男の管理下にスマホは置かれたから、警察に連絡なんて到底できなくて。
皆、身体を縮こませて震えていた。
何度も男は怒って吠えて、時に人や物を蹴飛ばして。それはそれは我儘で。
でも、たった一つの黒い武器が皆を何より怯えさせたのだ。
一丁の拳銃に、誰一人逆らうことはできなくなる。こっちの方が数は多いのに。
怖い、怖いよ。
やはり私はぬいぐるみに顔を押し付けて、できる限り静かに泣くことしかできない。
パパはようやく慰めようとし始めたけど、それがぎこちなくてとても安心できなくて。
声が抑えられなくなっていく。
私はみっともなくママの名前を呼ぶことしかできなくて。
パパは余計、困り顔に変わっていく。
「うるせぇぞガキンチョ! お前が死ぬかァァ??」
男が私に銃を向けた。
真黒な銃口を見て、私はヒヤッとした。身体から一瞬熱が奪われる感覚。
途端に声が出せなくなった。
「金も出せねぇ癖にいっちょ前に泣き叫びやがって。もうちょいで人気のない廃工場に着くからよ、そこで殺してやろうか!?」
額に銃が押し付けられる。
ひんやりとした硬い感覚。
怖くて怖くて、私は固く目を瞑る。
不意にバスが大きく揺れた。
運転手が無理やり急カーブを起こしたのだ。
一人だけ立っていた怒り狂った男は、バランスを崩して転げる。
バスは急停止し、ドアが開いた。
男は頭を打ったらしく、手で抑えながら悶絶している。
一斉に客達が雪崩れるようにバスから脱出した。中には転げる男を遠慮せず踏みつけながら行く人も居た。
皆が出ていく中、私は怖くて動けなくて。私が通路側にいるせいで、窓側のパパも出られなくて。
パパが必死に脱出を促す声を上げるも、私は頭が真っ白で。
「糞野郎……覚えとけ…………全員ぶっ殺してやるぞゴラァァァ」
男の額から流れ落ちる血。ポタポタと、バスの通路に赤い水溜まりを作っていく。
男が私に掴みかかろうとしてくる。
無意識に体が動いた。
すんでに、私はぬいぐるみを男に押し付けて、男の脇の横を通って逃げる。
たった二メートルほどのドアまで、それでも私は何年分もの恐怖を味わいながら走った。
バスから飛び出す寸前、後ろを見るとパパと男が掴み合いになっていた。
「パパァ!!」
泣き叫ぶ。
「うさぎ、バスから出なさい!」
言われるがまま、私はバスから脱出する。
外は多くの人だかりができていて、警察に連絡している人も居るようで。
近くにいた男性に、私は必死に訴えた。
「パパが、中にまだ、パパが…………!」
泣き縋った。それくらいしか私にはできないと、幼いながら私は知っていたから、だから懸命に泣き縋った。
パァン。
乾いた破裂音。
私は目を見開いた。
恐る恐るバスの方を見れば、パパが窓ガラスに力無くもたれ掛かっている。ガラスには赤い飛沫が付着している。
嘘でしょ? …………嘘だよね?
「糞野郎……計画が大破綻だぜこんちくしょう」
男が呻きながらバスから出てきた。
出てくるなり、叫びながら私目掛けて突進してきた。
どよめきが上がる。咄嗟には動けなかった私。
男は銃床で私を殴りつけようとして、しかし私の目の前で盛大にコケた。
パパが、お腹に銃を受けたパパが、男の足を掴んだのだ。
「くそ、なんだなんだこの野郎! 俺の邪魔すんのかよ糞野郎!」
男はボロボロのパパに何度も銃弾を打ち込んで、あるいは殴りつける。
血が乱れ咲く。
私の頬に生暖かい赤い液体が飛んできた。
やめて、やめてやめて。パパが死んじゃう。
声が出ない。
誰もが恐怖に飲まれて動けない。助けられない。
救急車を、救急車を呼んでよ。お巡りさん早く来てよ、パパが…………!
「くっそ、銃弾が切れちまったじゃねぇか!」
男が焦れったそうに銃を投げ捨てた。
瞬間、何人もの人が一斉に男を取り押さえた。
みっともなく暴れる男も、大人数による拘束を逃れることはできず、次第に大人しくなった。
私はパパに駆け寄る。
パパの身体は血塗れで、もう何がなんだか分からないくらい真っ赤だった。
けたたましい音とともに、パトカーや救急車がやって来た。
救急隊員達がパパを色々と調べて、そして私に一言言い残した。
「手遅れです」
「…………嘘だ」
信じられなかった。
ママが出ていって、その後今度はパパを無くすなんて。
「嘘……嘘嘘嘘嘘嘘。そんなの聞きたくない聞きたくない聞きたくないよぉ…………」
背中をさする手を強引に撥ね退けて、私は懸命にパパを呼んだ。
「パパ起きて、ねぇパパ起きてよ! 寝る時間じゃないよ」
返事はない。
「こんな所で寝たら駄目だよ、ほら起きて! 目を開けてよ、ねぇ!」
返事はない。
「聞こえてるんでしょ!? ねぇ、ねぇ起きてよ。悪戯なんでしょ、意地悪なんでしょコレ! ほんとは元気なんだよねぇ!?」
返事はない。
返事はないのだ。
「私を…………一人にしないでよぉ」
私は泣き叫んだ。
ひたすら泣き叫んだ。
✕ ✕ ✕
「うさぎちゃん、コレ」
警察のお姉さんから手渡されたのは、血で濡れて破れてボロボロなぬいぐるみ。
「お父さんが持ってたんだって。…………最後まで」
ぬいぐるみのあっちこっちから、赤が染み込んだ綿が飛び出ている。
ボロボロなぬいぐるみを見て、私はまた泣くき出してしまった。
お姉さんは必死に私をあやしてくれた。
長い間泣き続けて、そしてようやく私は泣きやむことができた。
「これ、お姉さんが洗ってから渡そうか」
コクリと頷くと、お姉さんはぬいぐるみを持って何処かへ消えていった。
暫くして。
「少しだけ直しておいたよ。……完全にお節介なんだけど、むしろやり過ぎなんだけど」
ぬいぐるみはツギハギだらけだけど、かなり前の姿に戻っていた。
「お母さんの方に連絡して、明日お母さんがうさぎちゃんのことを引き取ってくれるらしいから」
「…………パパは?」
お姉さんは困った顔をして、
「━━お父さんは、お星様になっちゃったの。とっても高くて遠いところから、うさぎちゃんを見守ってくれてるよ」
嘘だ。
このお姉さんは嘘つきだ。
私は知ってる。パパがもう死んだってことくらい。知ってて、でも聞いてしまった。
私は、ぬいぐるみに視線を落とす。
ツギハギだらけになって、よりぬいぐるみ感が増したのに、なのにな妙に生きているように見えた。
✕ ✕ ✕
ママの家に来て一週間。
ママは家出したあと、ママのママ、つまりお婆ちゃんの所に居た。
ママもお婆ちゃんも、私を暖かく迎え入れてくれたけど、二人とももどこか暗く沈んだ表情だった。
ある日、私はぬいぐるみの位置が動いていることに気がついた。
目を離したのは数秒前。
僅かだけど、ぬいぐるみの位置がズレている。あと、少しポーズが変わっている。
見間違いかな?
することも無いのでボーッとぬいぐるみを観察すること三十分。
特に動作は無い。
当たり前だ、私はそう思い、ぬいぐるみから目を放しかけたその時だった。
ぬいぐるみの身体がたしかに揺れた。
「…………え?」
ぬいぐるみは一旦動きが止まるも、暫くするとまた身体を揺さぶり始めたのだ。
「お、おば、お化け…………!?」
私は、その場で後退った。
これが、呪われてしまったぬいぐるみとの初めての対面だった。
読んでいただきありがとうございました!
今回も相良回でした。次からは多分ヒロも活躍するはずです、多分。
土日に次は投稿します。
よろしくお願いします




