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あなたは、わたしの遺影を持っている。位牌を持つ、六歳になった真那理の横顔はまた少し大人びている。後頭部から、うなじにかけてのラインが最近わたしに似てきたように感じる。それでも、きょろきょろと周りを見回す彼女はまだまだ子供で、あなたはその頭を優しく撫でて前を向かせる。骨壺を持つ、あなたのお父さんの目は真っ赤に腫れている。結婚の報告の時、ようやく娘ができた、と喜んでくれたお父さんは、やはり涙腺まであなたに似ている。風が吹く。お経が、すすり泣く友人、知人の声が、その風に乗って流れていく。お坊さんの袈裟もはためく。金色の袈裟が、銀杏の葉のようになびく。
あなたは空を見る。そこには何もない。わたしと目が合うが、あなたは気付かない。
それまでと、それからのあなたと真那理を、わたしはずっと見てきた。それ以前のわたしには見えなかった景色まで、すべて頭の中に流れ込んで来た。これが死であるということを、わたしは知り、死は寂しいが、それほど悪くないものだと思っている。
真那理はわたしが死んでから、十年間、髪を切らなかった。その髪は腰の長さまで伸びているが、友達が羨むほど、美しい黒髪を保っている。それはまるで見えない天の川のようだ、と中島さんは評する。その向こうに宇宙が見えると言う中島さんは、わたしが亡くなって以降、時々あなたの家へ招待されて食事をする。真那理は中島さんの影響か、高校で天文科学部に所属している。
真那理の初めての恋は、小学三年生の時。皆が校庭に出ていく休み時間に、一人、本を読んでいた男の子に惹かれた。男の子が読んでいたのはシャーロックホームズの『緋色の研究』で、真那理は今でもシャーロックホームズと聞くと、心のどこかがむずむずとして、あの日の感覚を思い起こさせる。
わたしがいないことは、真那理にいつも僅かな寂しさを覚えさせるけれど、彼女はなるべく俯いたりせず、笑っていた。笑っていれば光の温かさを感じられることを、真那理は既に知っていた。
母親ばかりの授業参観に、汗を掻きながらやってくる父親を見るのが好きだった。
友人が母親と喧嘩した話を聞く時、あなたは一緒になって母親に憤る。
五月の日差しのような真那理の性格は、周囲の人間を引きつけ、友達は多い。
あなたは変わらず、文具の営業を続けている。あなたもまた、落ち込む姿を誰にも見せない。自分はゴールキーパーで、攻め込む皆の背中を押す立場であるという自負が、あなたを支えていた。
帰宅すると、まずわたしの仏壇に手を合わせる。営業先で罵倒される日もある。コピー機の故障が続いて契約を切られた日もある。ノルマが達成できず、年下の課長に遠回しに馬鹿にされる日もある。それでもあなたは、帰ってきて真っ先に、わたしの仏壇に手を合わせる。
そして、あの日がやって来る。
その日、あなたはいつものように新規ルートの開拓を目指し、初めての企業に足を踏み入れる。応接室に案内され、総務担当の職員を待つ。会社の規模や従業員の数から、あなたは勧めるべき商品を頭の中で整理し、鞄の中のパンフレットを整理する。ドアがノックされ、総務担当が現れる。あなたはまだ何も分かっていない。いつものように腰を上げ、名刺を準備する。相手は自分と同年代の女性らしいと判断して、どんな話題を振ろうかと考える。子供の話は止めておこう。そう思う。相手が一礼して、余裕を持った所作で名刺を取り出す。
その横顔に、あなたは、はっとする。名刺を渡される。あなたも慌てて名刺を出す。その名前に、確信を持つ。森川静流。
あの日、駅であなたが探していた女性。
コンパで出会ったあの、幻のような女性。森川静流。
わたしと一緒にコンパに参加した、わたしが無理矢理参加させた、わたしの友人。
あなたが本当は彼女に気があることをわたしは知っていた。コンパの最中、あなたは静流ばかりを見ていたから。わたしはその他大勢の一人だった。それでもあなたに会いたくて、わたしはあなたの大学の最寄駅に、毎日通った。静流に合わせた、飾り気の少ない姿をして。あなたに会える可能性がどれほどのものだったか分からないが、わたしは恐らく奇跡的にあなたに出会った。けれど、あなたの視線の先には静流がいた。
どうか、二人が出会わないように。わたしは柱の陰で、それだけを祈った。祈りは通じた。あなたが近づいてくる。偶然を装い、わたしは声を掛けた。
あなたは戸惑う。彼女は気付いているだろうか、あの日のことを。彼女はあの夜とは、当然変わっている。年齢に相応しい化粧をして、目尻に皺を携えて。
先に声を発したのは静流だった。顔を上げ、じっとあなたを見る。羽島さんって、もしかして。あなたは驚く。彼女が自分を覚えていたことに。今こうして出会うことに。
その夜、あなたと静流は都心のカフェレストランで夕食を共にして色々な話をする。まるで旧友のように話は噛み合い、空白の期間を埋めるのに時間は掛からなかった。静流は母親の病気療養に合わせ、大学を中退して、故郷に帰っていたこと。それ以来学友ともほとんど音信不通であったこと。母の死を機に、また東京に戻って働き始めたこと。彼女は、わたしとあなたのことを知らない。わたしたちの結婚も。わたしの死も。
静流は口を押さえ、涙を流した。あなたは、まだ泣いてくれる人のいることに奇跡を感じる。妻のことを覚えていて、悲しんでくれる人がいることに。ぜひ、手を合わせてやってくれませんか。あなたは言った。そこに何の打算も無いことを、私は知っている。
後日、あなたは自宅に静流を招く。あなたは真那理に彼女を、学生時代の友人と紹介する。真那理は少し緊張して、強張った笑顔で挨拶をする。わたしが死んでから初めて、あなたが女性を自宅に招いたことに驚きと、少しの悔しさが混じっている。真那理は、自分の感情を図りかねていた。
静流はわたしの仏壇の前に座る。仏壇を通して、わたしと目が合う。静流の瞳はあの頃と変わらない。真っ直ぐに物を見る。唇を軽く引き結んで、もう泣かなかった。線香を供える。煙が部屋の中を揺蕩う。真那理は仏壇の前で手を合わせる彼女のことを見られない。食卓の椅子に座り、じっとテーブルを見つめている。
それから一年、あなたと静流は時々会う。仕事の愚痴や悩みから始まる会話から始まり、あなたは自分の知らないわたしの話を静流から聞いたり、静流の知らないわたしの話をする。大抵、会話はそこで途切れてしまう。もう家には呼べないとあなたは思っている。こんな風に会うことも無意味かもしれないと思っている。それでも、お互いに、もう止めようとは言えずにいた。
あなたはある日、家に帰る。食事の支度は中学生の頃から、真那理の仕事になっていて、この日も卓にはすでにクリームシチューやサラダが用意されている。あなたは真那理と二人向かい合って食べ始める。
クリームシチューを一口、口に運んで、真那理がぽつりと言う。お父さん、私ね、好きな人ができた。真那理は今までにも恋をしてきた。それでも、父親の前ではっきりとそれを言うのは初めてだった。あなたは少しの嫉妬に駆られながらも、良かったじゃないか、と鷹揚に言う。どんな子なの、と訊く。一緒に星を見る子、と真那理は答える。真昼の星を、真昼の月を、一緒に観察している子。スケッチが上手いの。さらさらと素早く、でも、まるで行って来たことがあるみたいに上手に描くの。あなたは想像する。優しそうな顔をして、眉の少し濃い男の子を。その想像は大体当たっている。
それでね。真那理は続ける。恋をする気持ちって、こうなんだよなって思ったの。止めようと思って、止められるものじゃないんだよなって。真那理の頬は、赤い。それは冬のせいではない。あなたは、手を止める。真那理が吐く、次の言葉が、あなたには分かっている。
今度また、連れて来てよ。静流さん。
あなたは首を振る。そういうんじゃないよ、と言う。お前にとってのお母さんは一人だよ、と。けれど、真那理も首を振る。お母さんがどうとかじゃなくて、お父さんの話だよ。
お父さんの、人生の話だよ。
あなたは真那理を見る。真那理の、母親そっくりの口から出た人生という言葉に、胸が詰まる。真那理の瞳が光る。それを隠すように、彼女は顔を伏せて食べ始める。私、良いと思ってたよ。そう呟く。
あなたは鼻の付け根が熱くなる。感情が、時の流れが迸る。
二人で無言のまま、シチューを食べ続ける。少し塩気の強いシチューをスプーンで救い続ける。白い液体は掬うたびに少しずつこぼれて、それでもスプーンの中に、湯気を立てて残っている。
真那理は、あの日から伸ばしたままの髪を切りに、美容室へ向かう。駅前は同世代の若者で溢れていた。真那理は、友達に勧められた店の扉を開ける。駅の改札を出てすぐ、左の路地に入って二階にある、ひっそりと静かな美容室。コートのポケットには、さっき雑貨屋で買ったばかりの木彫りの可愛い小物入れが入っている。そこに切った髪の毛を少し入れて欲しいと頼んだら、美容師はどんな顔をするだろうか。母親の仏壇に供えるんです。想像して、真那理は微笑む。
あなたは今、電車に揺られている。電車の中には様々な人がいる。イヤホンを着けて、ノートに何事か書き続けている人、初々しいスーツを着た若者、ハンチングを被ってしゃっきりと立つ老人、隅に座り、文庫本を読む女性。あなたは雨が窓に当たり始めたことに気付く。予報では言っていなかった、突然の雨に、少し眉根を寄せる。その時、携帯が震える。駅に着きました、とメッセージが来ている。あなたは、僕も今電車、傘を忘れてしまった、と返信する。
人生に、雨は降る。それは毎日、あなたたちの頭上にあって、見える雨があれば見えない雨もある。落ちた雨は水溜りとなり空を写し、やがて蒸発して空へと帰って行く。それは永久の円環で、毎日あなたたちを濡らしている。
それでも、生きていてほしい。
笑って、生きていてほしい。
あなたを乗せた電車は今、カーブしながらホームへ滑り込んでくる。濡れた車体を光らせながら入ってくる。
静流は、その音を聞きながら、待っている。入り込んでくる北風にマフラーを巻き直し、売店で、傘を買う。
あなたのための、傘を買う。