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あなたは、生まれてくるのが娘であることを知ると、名前を考え始める。たくさんの候補が上がって、二人で消していく。あなたの口から不意に真那理という言葉が出てくる。あなたは「真理」という文字の入ったその名前を何となく気に入る。わたしもその響きが気に入って、お腹の中にいる間に名前は決まる。
わたしは臨月を迎える。あなたは今までにも増して仕事をしている。子供の生まれる日が近づけば近づくほど、あなたは火がついたように営業に明け暮れる。帰ってくるあなたの顔は疲労で一杯だけれど、幸福に満ち溢れて、汗は光り輝いて見える。
あなたは病院の廊下を足早に歩いてくる。切れかかった蛍光灯も視界に入らず、あなたは真っ直ぐに分娩室に向かう。看護師に立ち合いますか、と問われてあなたは、即答ではいと答える。
わたしのうめき声や泣き声の混じった部屋の中へあなたは入る。どこに居ていいか分からずに立っていると、後ろから看護師に旦那さんは手でも握って励ましてあげて、と言われる。あなたはわたしの横に腰を下ろし、手を握ろうとするけれど、緊張のためか、わたしが痛みで手を動かすためか、なかなか握れない。それでもなんとかわたしの名前を呼びながら、両手で手を掴まえてくれる。その手はお互いに汗ばんでいる。目線の合わないわたしに向かい、看護師さんに言われた通りの呼吸法を、あなたはやってみせる。なかなかうまくできないわたしに、大丈夫、大丈夫と話しかける。わたしの目から流れ落ちる涙をあなたは指で拭う。
昼の一時から始まった分娩室での戦いは、日が沈んで、窓の外が薄暗くなった頃、唐突に終わる。あなたは血まみれの新生児を見る。溶岩のように赤く熱を感じさせる新生児は、やはり宇宙の始まりのようで、美しさのあまりあなたの目から自然と涙がこぼれる。あなたはわたしにありがとうと何度も言う。わたしは頷きながら、へその緒を切られる赤ん坊をじっと見て、それからあなたのことを見る。よかった、とわたしが呟くのをあなたはぐちゃぐちゃの顔で聞いている。
あなたは、真那理に夢中になる。仕事中も、ジャケットのポケットには、最新の真那理の写真がいつも入っている。営業先で子供の話になると一層真剣に耳を傾け、写真を見せたり、相手の話が彼氏彼女を連れてきたなんていう内容だと密かに顔をしかめ、真那理はまだまだと自分に言い聞かせる。
家に帰れば、真っ先に真那理の寝ているベッドを見に行く。彼女が寝ていても起きていても、あなたにとって癒されることに変わりはない。
真那理が最初に喋った言葉が、あなたには「たーた」と聞こえ、それが自分のことだと主張する。わたしには「まーま」に聞こえたと思っても、あなたはそれを認めない。本当のところは真那理にも分からない。真那理が初めてつかまり立ちした時、あなたは涙を流して写真を撮った。何枚も何枚も。真那理が2歳を過ぎて、わたしも仕事に復帰すると、あなたはなるべく早く帰ってきて、真那理の迎えや、家事を手伝った。ブランクのせいか少し疲れやすくなったわたしのことを心配してくれた。
あなたは、また病院の中を早足で歩いている。仕事中に鼻血を出して倒れたわたしが入院した病室を目指している。ベッドの上で半身を起こして本を読んでいるわたしを見つけて、あなたは駆け寄る。大丈夫、少し頑張り過ぎただけだと思うから、とわたしは大汗を掻いているあなたに言う。真那理はもう5歳になっていて、今夜は祖父母のところに預けられている。その日、一晩中、あなたはわたしのそばを離れない。わたしの手を握っている。こうしてると、真那理の出産の時を思い出すね、とわたしが言うと、あなたは頷く。そしてあの時と同じように、大丈夫と言ってくれる。真那理ばかり見ていたかもしれない、とあなたは心の内で少し反省する。あなたはわたしが一晩眠って、退院だと思っている。次の日、医師に呼び止められるまでは。
あなたは、焦点の定まらない目で、医師の話を聞いていた。いや、正確には医師が話しているその部屋にあなたは居た。居ることで精一杯だった。わたしはそんなあなたを見ながらも、しっかりと話を聞いていた。どうすれば治るのですか。それが聞きたかった。
医師の話が終わって、わたしたちは二人きりになった。あなたはわたしから伸びている手に気付いて、握ってくれる。壁に凭れながら、長いことそうしていた。ちゃんと治療すれば治るってね。わたしは言う。うん、とあなたは答える。でもその声はどこか遠くて、あなたは自分の声である確信が持てないでいた。そうして白い蛍光灯の光をじっと見つめていた。
わたしの化学療法が始まって、あなたは仕事と自宅と病院の三足の草鞋を履くことになった。自宅には、あなたの両親が居てくれるようになった。真那理はお爺ちゃんお婆ちゃんに懐いていて、今まで通り保育園に通い、病院にお見舞いに来てもわたしに笑顔で抱きついて、また来るねと言って笑顔で帰って行くが、園でも家でも、時々急に泣き出すことがあった。理由を聞いても彼女は答えられない。答えたくなかった。あなたはそんな彼女を抱きしめながら、背中をとんとんと叩く。大丈夫だよ、とささやきながら。
化学療法の効果は芳しくなかった。あなたは、更に他の部位にも転移していることを医師から聞かされる。副作用が酷い。嘔吐がある。全身の倦怠感、出血、脱毛。あなたはわたしの表情に、落ち窪んだ眼に、諦めの色を見る。限界かもしれない。肯定したくない感情を、あなたは手にしてしまう。
あなたはある夜、真那理を連れて病室へ来る。真那理は少し見ない間にもぐんぐんと成長している。真那理が、お母さん、とわたしに抱きついて来る。あなたは、娘がいつの間にか、ママではなく、お母さんと呼ぶようになっていることに気付く。ベッドにわたしと真那理を残して、あなたはトイレに行くと言って出ていく。個室の電気が消える。ドアの開く音がして、ハッピーバースデーの歌が聞こえてくる。真那理はきゃ、と言って笑い手を叩く。あなたはケーキを持って、看護師さんたちと一緒に現れる。31歳おめでとう、と書かれたバースデープレート。わたしはろうそくを吹き消そうとするが息が続かず、真那理にお願いする。けれど、真那理は首を横に振る。お母さんが消さないと、願いが叶わないんだよ、と真那理が言う。泣いていた。あなたも涙を堪えきれない。おめでとう、が言えない。ケーキを持つ手は震えている。わたしたちは看護師さんたちに見守られながら泣いた。背が低くなったろうそくはまだ燃えていた。炎が揺らいで、真っ赤な苺の表面をてらてらと輝かせていた。
真那理は簡易ベッドで寝息を立てている。あなたは、わたしと二人きりになる。眠くないの、とあなたは訊く。大丈夫、わたしは答える。窓の外に月が浮かんでいて、こんな時に限って満月だ、とあなたは思う。綺麗だね、と言うわたしの声に、あなたは無言で頷く。あなたは告白したあの夜、月が出るまで浜辺にいた、あの夜を思い出している。今までで、一番良かったことはね、わたしは呟く。あの日、駅であなたに出会ったこと。あなたは少しだけ笑う。懐かしいね、と言う。
わたしで良かったの、と訊く声に、あなたはわたしの目を見る。わたしがずっと、心に秘めていた疑問だった。心の奥底に沈めていた重りが外れ、湖面に顔を出した。あの日、わたしはあなたのことを見ていたの。でも、あなたは本当にわたしで良かったの。
あなたは躊躇わない。躊躇う必要はこれっぽっちも無いと思っていた。これまでの二人の時間が、全て一点に集約されていく。あの日は、君に出会うためにあったんだ。あなたの答えにわたしはまた涙を止められない。