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あなたのための傘を買う  作者: 野足夏南
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 あなたの髪の毛の色はいつの間にか黒に戻っている。あなたは四年生になって、就職活動をしていた。わたしは母と同じ保育士を目指していて、すでに実習先から内定をもらっていた。あなたは悩んでいた。わたしと出会ってから、また大学でしっかりと単位を修得しながらも、あなたにはなりたいものがなかなか見つからなかった。サッカー以外の世界を俺は知らないから、というのがその頃のあなたの口癖で、会話はいつもそれで終わった。 

 若葉繁る春が過ぎ、青々とした夏が来ていた。あなたは毎日を、擦り減っていく革靴と共に過ごしていた。わたしと会う機会は少しずつ減っていた。あなたはわたしに会うのが辛くなっていた。夢を持っているわたしと並ぶことを怖がる気持ちと厭う気持ちが、わたしたちの距離を遠ざけていた。

 あなたから久しぶりに連絡があったのは夏の盛りを過ぎ、道に転がる蝉や、昼と夜の温度差に、秋の気配を感じ始めた頃だった。会いたい、とあなたは言った。わたしは心のどこかで不安を覚えながら、それに従った。

 日曜日、公園には子供たちが集まっていた。ひぐらしの鳴き声に子供たちの嬌声が混じり合う中、わたしたちはベンチに座っていた。あなたは、別れよう、と言うつもりだった。それでも、なかなかその言葉が出てこなかった。これまでの日々を、これからの日々をすべて失うことをあなたは恐れていた。

 その時、あなたは子供たちがサッカーを始めたのを見る。そして、そこに無邪気にサッカーをしていた、あの頃の自分を重ねる。背中。皆の背中。あなたは突然立ち上がる。目の奥で光が弾ける思いだった。あなたは忘れていた。自分は縁の下の力持ちでいいんだ。それが好きなことだったじゃないか。

 見つかるかもしれない、とあなたはわたしの方に振り向いて言った。好きな仕事が、見つかるかもしれない。わたしは、良かったね、と言う。涙が出てしまった。あなたの笑顔に涙腺を奪われてしまった。あなたはわたしを抱きしめる。ごめん、とあなたは言った。わたしは滲んだ目で、赤が混じり始めた空を見ていた。目の中に、橙色の粒が幾つも浮かんで消えた。

 そうしてあなたは文具の通販会社に就職した。文具で人々を支えたいからその会社を選んだ。あなたは最初、営業が好きではなかった。荒んでいたあの頃のように、上辺の言葉で取り繕い、話を合わせて大袈裟に笑うことが似合わないと思っていた。それが相手にも伝わるのか、文具はなかなか売れなかった。あなたは自分が、不器用な人間だと自覚する。

 そんな時、あなたは同じ営業部の先輩、中島さんに出会う。中島さんはあなたより五年先輩だが、それほど営業成績が良いわけではなかった。けれど、彼は人柄の人だった。どんな相手と接するときにも、門前払いを受ける時にも、礼節をわきまえ、自然体でいる人だった。決して無理やり相手に話を合わせるわけではなく、分からない時には素直に分からないですねと言える人だった。それでいて子供の話には弱かった。中島さんには子供がいた。いつもジャケット裏のポケットに息子の写真を忍ばせていて、請われれば営業相手にも遠慮なくそれを見せて、笑った。可愛いでしょう、と言って笑っていた。また、中島さんは休憩中、宇宙物理の本をいつも読んでいた。好きなんですか、とあなたは尋ねる。うん、と中島さんは答える。じゃあ理工学部ですか、とあなたは重ねる。いいや違うよ、と中島さんは答える。中島さんは文学部出身で、本の中身はほとんど理解できない。だけど、と中島さんは言う。宇宙物理はすべての素を辿る旅なんだって、と言う。この体には、宇宙誕生の記憶が刻まれているのだと。中島さんは無から生まれてきた自分の息子と、無から生まれた宇宙とを重ね合わせていた。不思議なもんだよ、本当に命というのは。中島さんはそう言った。また、あなたは訊いた。どうしてそんなに自然なんですか、と。中島さんは不思議そうにあなたを見た。お前は、文具が好きか、と中島さんは訊く。あなたが頷くと今度は、じゃあ人間は好きか、と中島さんは訊く。色々です。あなたは答える。中島さんは笑って、言う。じゃあ好きな人間のことを思い浮かべろ。その人の笑顔を思い浮かべろ。そして、それを見ている自分を思い浮かべろ。あなたはわたしを思い浮かべる。今この時、小さな子供たちに囲まれて奮闘するわたしを思い浮かべる。中島さんは言う。それがお前の自然なんじゃないかな。好きな文具と、好きな人間、それをいつでも思い浮かべること。その為に仕事をすること。あなたは中島さんの言わんとすることが、半分分かって、半分分からない。少し分からないです、とあなたは言う。あなたの持つ、素直な人柄でそう言う。それでいいよ、と中島さんは言う。お前らしいよ、と言う。

 その日から、あなたは中島さんを目指し始める。いつか、残り半分が分かることを信じて、仕事をする。自分を偽らないように。飾らないように。


 就職して三年が経ったある秋の日、あなたはわたしのアパートにいつものようにやって来る。あなたは疲れていたけれど、わたしの笑顔を見て、いつものように少し体が軽くなる。食卓にはいつもより少しだけ豪華な食事が並ぶ。あなたはそれに気づいて、今日は何かの日だっけ、と言う。わたしは笑顔のまま黙っている。あなたは不思議そうな顔でわたしを見る。わたしはお腹に手をあてて、できたの、と言う。それだけであなたはすべてを悟る。うわぁ、とあなたは声に出す。うわぁ、とわたしは真似をして笑う。あなたはわたしを抱きしめる。いつ言っていいか分からなかったけど、とあなたは言う。結婚してください。わたしは、うんうんと頷く。そして、結婚してください、と返す。あなたの腕の力が強くなって、わたしたちは小さな灯りの照らす小さな部屋で、なるべく一つの存在になれるようにと、きつくきつく、抱きしめあった。

 あなたはスーツ姿で、わたしの両親に会う。会うのは初めてではないけれど、怒られる覚悟で来ている。

 わたしの母は、おおらかで、なんでもよく笑う人で、あなたを初めて見た時も大きいわねぇと言って、何がおかしいのか一人ずっと笑っていた人だった。父は、中学校の社会科の先生をしていて、素面の時は四角い顔がそのまま性格を表しているような人で、最初会った時は無愛想ではあったけれど、礼儀正しく話す内に角が取れて打ち解けて、一緒に日本酒を飲むと上機嫌になって肩を組んでくるような人だった。

 その日も、わたしが妊娠したことは先に伝えていたこともあって、いつものように宴会は進んだ。あなたは父と日本酒を酌み交わし、けれど酔ってしまう前に、と前置きして、わたしと一緒に正座し直す。

 子供ができました、とあなたは言う。順番が違ったことを申し訳なく思います、と言う。けれど、僕は最初から、結婚するつもりでお付き合いさせていただいていました。結婚、させていただきます。

 上機嫌だった父は、一瞬鋭い目つきになる。それを見てあなたは少し怯み、その目の奥に、娘への愛情の深さを、人間が注ぐことの出来得る、最大限の愛情の深さを感じ取る。あなたの頭には中島さんの言葉が甦る。無から生まれた命の、この上ない奇蹟を思い知らされる。

 父は頷く。二人で必ず幸せになること、それだけ約束してくれよ。父はそう言う。あなたは無言で頭を下げる。いつまでも下げている。


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