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あなたのための傘を買う  作者: 野足夏南
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 あなたは今、灰白色の空の下、暖房の効いた営業車に乗って、外回りをしている。車窓を流れる街は、十二月に入ったばかりにも拘わらずクリスマスの気配が強く漂っていて、紐で繋がれた電球が、街路樹やお店の看板、そして窓辺の小さなモミの木など、そこかしこに巻き付いている。熱を発して色とりどりに瞬く時を、静かに待っているそれらに気を取られながら、あなたは安全運転を心がけて、そろそろ帰社を考えている。

 あなたの鞄には業務用のプリンターやコピー機、シュレッダーなど事務用品がカラフルに印刷されたパンフレット、名刺入れ、そして娘の真那理まなりからプレゼントされた茶色の革の手帳が、ボールペンと一緒に入っている。そこには会議の予定や年末年始の挨拶回りの企業名や、営業ノルマの設定日と一緒に、家族の誕生日や記念日、そして真那理の三者面談の日などが文字とシールで華やかに記されている。シールを貼ったのは真那理で、自分の誕生日などは鮮やかなピンクのハートのシールがこれでもかと貼られていたりして、あなたは周囲の人々に手帳を見られるのを恥ずかしく思い、いつもなるべく周囲の視線に注意しながら、それを開く。そして静かに頬を緩ませる。


 あなたは小学校から大学までサッカーをやっていた。ずっとゴールキーパーだった。そこが公園であっても、県大会のフィールドであっても、あなたはゴールの前に立っていた。あまり人がやりたがらないそのポジションを、あなたは好んだ。初めてサッカーをやった、小学校1年生の、鳩が多いので『ぽっぽ公園』と呼ばれたその公園で、自分から手を挙げてそのポジションを選んだ。ボールが外に出てしまって誰かに当たったり車に当たることが嫌で、そのポジションを選んだ。その日から、そこがあなたの一番心落ち着く場所になる。

あなたはいつも仲間の背中を見ながら、手を広げ、ボールが飛んでくるのを待っていた。そうして右に寄れ、左に寄れ、任せろと声を掛け続ける。味方のゴールが決まれば、賑わう相手ゴール前から一番離れた場所で、誰よりも大きく喜んでいた。縁の下の力持ち。それが好きだった。

社会人リーグを目指してサッカーをしていたあなたは、大学2年の冬、左膝裏の靭帯を断裂する大怪我を負う。ぼんやりと、ここから先に進むには決定的に足りないものがあることを感じていたあなたは、それを機にサッカーを諦めた。練習を止めることは簡単だった。けれど思いは蜘蛛の糸のように、断ち切ろうとしてはくるくると、あなたに絡みつく。何かを諦めることは途轍もなく怖いことだということをあなたは、その時、初めて知る。

あなたは、周囲が驚くほど変わっていく。ずっと黒髪でいたのを金色に染め、煙草を吸い始め、サッカーと両立していた学業は疎かになり、友人達と夜な夜な繁華街に繰り出し、女の子との出会いを求めるようになる。その裏には怖さがあった。サッカーを失った自分が、自分のコントロールの効かない何者かになっていくのが怖くて、空白を埋めるように、自ずから変わっていった。

あなたは、それなりに良い自分の顔と、雑誌を見て一から身につけたファッションセンスで、出会う女の子には良い印象を与えることが多かった。その日のうちにセックスに持ち込めることも多かったが、いつも射精を終えると、必死に生きていたあの日の自分が心の内に生々しく甦ってきて、対峙するその顔は空虚で、急に相手が自分と同じく、どうしようもない生き物に思えてきて、一晩以上の付き合いをすることはなかった。

その日もあなたは、いつものように友達がセッティングしてくれたコンパに出席していた。相手は近くの女子大生だった。その多くは、雑誌に載っていてもおかしくないような綺麗に纏められたファッションをしていて、男好きのする、潤んだ唇が間接照明に照らされていて、あなたは内心でがっかりしていた。しかし、一人だけ、化粧っ気なく、スウェットにジーパンを履いた女の子が目に留まる。緩慢な場の雰囲気に乗らずに、黙々と目の前の料理を食べている女の子が目に留まる。

そんなに美味しいの、とあなたは何気なく訊く。あんまり美味しくないです、と女の子は答える。あなたも一口それを食べてみる。ほんとだ、とあなたは言う。女の子は少し笑う。

あなたは急に緊張してしまう。あまりに柔らかい笑顔だったから。誰かに見せるための笑顔じゃなくて、自分のための笑顔に見えたから。あなたは固くなってしまい、その後いつもの夜のように巧く話せなくなる。そしてあっという間にそのコンパは終わる。ポケベルも持っていない彼女から、電話番号を聞き出すこともできずに終わる。あなたはその夜を持て余し、独り呑み続け、夜を終えることができないまま朝を迎える。

 それから一週間ほど経って、あなたは駅のホームにいた。久しぶりに大学の講義に出た帰りに、電車を待っていた。電車が止まり、沢山の人を吐き出していく。

その中に、あなたは彼女を見つける。

あの、素朴でいながら凛とした空気を身にまとう彼女を見つける。あの日から、ずっと気になっていた彼女を見つける。彼女は降りる人の波に流され、見えたり見えなくなったりして、あなたは必死で追いかける。追いかけて話しかけられるか、彼女が自分を覚えているか、声が出るか、色々なことを心配しながら。改札の所まで来て、あなたは彼女を見失う。

落胆して、柱に凭れかかった時、横から名前を呼ばれる。羽島直樹はしまなおきくん、それがあなたの名前。あなたも虚を突かれた表情のまま、水屋薫みずやかおるさん、とわたしの名前を呼ぶ。それが、わたしの名前。

何してるの、とわたしは尋ねる。いや、とあなたは口ごもってしまう。きょろきょろと視線が動く。わたしは笑ってしまう。そこで再会を祝して、二人は、初めて電話番号を交換する。

 それが、あなたとわたしの出会いだった。

 あなたは、初めてのデートに映画館を選ぶ。デートに誘ったのはわたしだったが、映画館と決めたのはあなただったから、あなたは映画好きの友人に勧められた、クエンティン・タランティーノという監督の作品を選ぶ。あなたはわたしが来るまで、何の話をしようかと考える。あなたは、信号の向こうにわたしの姿を見つけて大きく手を振った。自然と笑顔になって、赤信号が青になるのを、あなたはじりじりとした気持ちで待っていた。

 映画が終わって、あなたとわたしは喫茶店に入る。ショーウィンドウに置かれたホットケーキのレプリカが美味しそうで選んだ店だった。植木鉢に可憐な白い花の咲いた、一番奥の窓際の席に、あなたとわたしは腰掛ける。あなたは映画のことは分からない。正直言って、今日見た映画が良い映画なのかつまらないのか判断もできなかった。ただ、なんとなくわくわくした気持ちを、飾ることなくわたしに打ち明けた。わたしは、あなたより少しだけ映画が好きだった。だから、この映画を観るのは実は二回目だったけれど、小難しく薀蓄を語られたりするよりも、あなたの素直な感想の方がよっぽど良いと思った。

 それからあなたは、色々なところにわたしを誘った。動物園では、カバが好きなわたしに付き合って、一時間もカバを見ていて、カバと同じタイミングで欠伸をしてしまったのをわたしに笑われて照れた。遊園地ではジェットコースターで185センチもあるあなたが、精一杯縮こまって怖がっているのをわたしは笑っていたけれど、いざ走り始めたらわたしも声をたくさんあげてしまって、乗り終えてから二人して大笑いをした。

 ある日、あなたは友人から借りた車で、わたしを黄昏の海に連れて行った。夕陽はめらめらとその輪郭に熱を感じさせながら、少しずつ海に呑まれていった。あなたは夕陽が海を橙色に染め、すべて沈むまで何も言わずにいて、突然、好きだ、と言った。これからも付き合ってください、と言った。わたしは、とっくに付き合ってると思ってた、と言って笑った。

そうしてキスをした。あなたはわたしの奥深くまで、細胞の一つ一つまで知りたいと思った。こんなに愛おしい気持ちをあなたは知らなかった。わたしたちはそうして付き合いだした。二つの氷が風を浴びて、ゆっくりと溶け出すように混じり合って、わたしたちは二人で一つのかけがえのない存在になっていった。


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