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都会の通勤時、いつもの様に決して狭くはない車両の中に人を詰め込む駅員の苦労はいかばかりか。その駅員の心情はフォアグラを作るために無理やり鴨の胃に詰め込む飼育員に似ているのだろうか。
夏のうだるような暑さのなか、効いているいるかもわからない冷房の効いた電車の中に詰め込まれた人の中にはその圧で怪我をする人までいるという。
なぜそのようなリスクを犯してまで電車に乗ろうとするのか。武大には理解できなかった。通勤は自転車でしているからだ。徒歩では時間がかかるし、車を持っていたとしても渋滞があり精神衛生上あまりよくないと考えての結果だった。それに自転車ならばガソリン代も気にすることはない。
そのように朝の喧騒から少し離れた所で通勤するのは思っていたよりも辛くなく、慣れてさえしまえば健康に良いとすら思える。
しかし、それでも容赦なく照らしつけてくる太陽の光とまとわりついてくるような気温だけはいつまでたっても不快なままである。
会社の駐輪場に自転車を停めて本社のビルに入ると、節電という縛りの中で懸命に社員の体を冷やしてくれる冷房の風が出迎えてくれる。
次に迎えてくれるのは勤続15年の警備員。毎朝同じ場所に立って、同じように挨拶をしてくれる。
武大の勤める会社は広告会社で業界の中では中堅クラスの位置にある。給料もそれなりに貰い、一人で暮らすには充分すぎるほどだと思っている。
武大は始業の20分前には自分のデスクに着いてその日のスケジュールを確認することにしている。1日の流れを確認し、円滑に進めるためである。その日もいつものようにスケジュール帳を開く。
「倉員。ちょっといいか。」。スケジュール帳を開いたのと同じタイミングで上司に呼ばれる。
「おはようございます。何かありましたか?」
出社時一番に呼び出される時は何か大事な話があると決まっている、今回も仕事上何か問題があったのだろう、武大は思い当たる節を頭の中で思い浮かべる。
「親父さんが倒れたそうだ。実家に戻る準備をするんだ。」
上司の口から述べられた言葉は武大の思考を停止させるには充分すぎるものだった。頭の中のいくつかの問題点が、たった一つの大きな問題点によって塗りつぶされていく。
「親父の、父の容態はどうなんですか!?」上司に食って掛かるような口調で問う。
「俺も詳しくは聞いていない。今朝、親父さんの知り合いの、橘さんといったかな?その方がお前の実家を訪ねたら倒れていたそうだ。今は近くの緊急病院に搬送されているそうだ。」
「父は大丈夫なんでしょうか!?」
「俺が分かるわけないだろう。とにかく橘さんの連絡先は知ってるな?連絡をとってみろ。」
そう聞くと、いてもたってもいられないないという表情になる武大に上司は言葉を続ける。
「休みは有給をつけておく。仕事もパートナーに必ず引き継いでもらうこと。いいな。」
仕事という言葉が聞こえ、少し冷静に行動しなければ、と心に留める。
だが、それが難しい。努めて冷静になろうとするが、頭の中に浮かんだ最悪の状況が邪魔をしてうまくいかない。使い慣れているはずの携帯電話すらうまく操作できていない。
ようやく電話をかけることができたのは始業時間を過ぎてからだった。