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あれから五年が経った。彼女のお父さんがダンプカーに轢かれてぷっちんぷっちんになって死んだので、俺は晴れて居酒屋『ブラック・ダリア』の後を継ぎ、毎日せっせと料理を作った。店で働き、次の日のための仕込みをし、彼女をぺろぺろするだけで一日が終わる。四年なんてあっという間だ。収入は少なかったが、俺たちはがんばって生き、それなりに楽しく暮らしていた。俺たちの間には子どもが生まれていた。この夏、四歳となる息子には左京という名前をつけた。彼女が本意にしているというSF小説家からとったものだが、そいつの性別を知ったとき、少し複雑な気持ちになったことを覚えている。
左京は四歳にして、ぺろぺろを知っていた。まるで生得的にプログラムされた本能のように、老若男女ところかまわずぺろぺろするので、保育園では問題児扱いされていた。
「やっぱ、ぺろぺろするなら非処女がいちばんだよな」
ある休日の夕方、二人でバラエティ番組を観ているとき、左京は突然そんなことを口にした。彼女は家にいなかった。出かけるとき、友だちと遊ぶと言っていた。
「そんなことはない。処女だって男だって、誰もがぺろぺろされるだけの価値を持っているはずだ。保育園の道徳の時間に習っただろう?」
「それは建前だよ。だいたいぺろぺろなんて性欲を満たすための手段じゃん。だったら同性とか老人とかをぺろぺろするのは倒錯的なんだ。自明だよ、自明。俺は産まれてからずっとぺろぺろすることだけを考え、数百人をぺろぺろしてきて、ようやくこの結論に至ったんだ。最初の頃は独占欲があったから処女じゃないと駄目だ、って思ってたけど、それって結局自分のナルシシズムを満たしたいだけなんだって気づいたんだよね。ある程度慣れてくると、そこまでがっつかなくなったから、話せる相手がほしくなるわけよ。こう、『私にはきみしかいないの!』みたいな女の子じゃなくてさ、こう、ぺろぺろを会話とかスポーツと同じようにコミュニケーションとして割り切れるような人。そうなると、経験豊富でちょっとすれた感じのお姉さんが一番なんだ。お父さんだってそう思うでしょ?」
「確かにお前の言っていることは正しい」俺が強く言い切ると、左京はぱっと顔を輝かせた。「だが根本的な所で間違っている」
「な、なんだよ……」左京は焦りを抱いたようだった。「お、俺の何が間違ってるっていうんだ!」
「お前の言っていることはぺろぺろの一側面に過ぎない。お前はぺろぺろとセックスを混同しているようだな。確かにセフレにはすれた感じのお姉さんが最高だが、ぺろぺろに関してはそうはいかない。ぺろぺろはありとあらゆる人間に与えられてしかるべきなんだ。それがわからなければ、真のペロリストにはなれない」
「な、なんだよ……。正しいけど間違っているってなんだよ……。真のペロリストって、なんなんだよ……」
左京は顔を背けた。編集の際に後付けしたと思われる笑い声がテレビから聞こえてきて不快になったので、消した。俺は左京の肩を掴み、正対させ、真っ直ぐに、言った。
「真剣に聞け! これはお前の将来に関わる問題なんだ!」
俺のあまりの威圧感に気圧されたのか、左京の顔はみるみる歪んだ。かと思うとしゃっくりをして、目尻からぽろぽろと涙の玉がこぼれはじめる。俺はしまった、と思ったが手遅れだった。左京は肩から俺の手を振りはらい、立ち上がった。
「な、なんあんらよ! わ、……ひっく、わっけ、わけ、わかんねぇ、よっ!」
それだけを言い残し、左京は駆け足で家を出ていってしまった。
後悔が泥のように下腹部に溜まるのがわかった。少し強く言いすぎた。彼女がこの場に立ち会わせていたら、左京のいない場所で叱られていただろう。いや、きっと彼女が帰ってきて、事情を説明したらそうなるはずだ。そのときのことを考えると暗澹たる気分になった。
俺は立ち上がり、家から出て、車にするか、自転車を使うか迷って、自転車で左京を探すことにした。
ペダルがやけに重かった。
☆
網のような路地を総当り的に通り、商店街で聞き込みをしたが、左京の行方はつかめなかった。左京は自転車に乗れず、足も遅い。さらに左京が家を出てから時間を置かずに探しはじめたのだから、何時間も左京が見つからないというのはどう考えてもおかしい状況だった。頭をよぎった嫌な想像は一つ振り払っても次から次へと現れて留まるところを知らない。イメージは同時多発的に発生し、幾重ものレイヤーになって俺に襲いかかった。俺はそれに絡みつかれて前後不覚に陥ったが、とにかく左京を見つけなければ、という気持ちでペダルを漕ぎ続けた。
河川敷でペダルを踏み外し、転んだときには日はすっかり暮れ、冷たい夜気が町を覆おうとしていた。俺はそのときになってはじめて、最初から警察に連絡を入れることが正解だったと気づいた。
☆
左京は見つからなかった。
俺と彼女はずっと電話やインターホンの音に神経を研ぎ澄ませていたが、連絡や訪問客たちは俺らの期待を裏切り続けた。
俺は次第に彼女をぺろぺろしなくなった。ルーチンワークが減り、自由な時間が増えても、左京のことを考えるばかりなので全然ありがたくなかった。それに俺は以前の余裕のない生活で楽しかったのだ。どうしてこんなことになってしまったのだろう?
起きる、料理を作る、仕込みをする、左京のことを考える、眠る、起きる、料理を作る、仕込みをする、左京のことを考える、眠る、起きる、料理を作る、仕込みをする、左京のことを考える、眠る、起きる、料理を作る、仕込みをする、左京のことを考える、眠る、起きる料理を作る仕込みをする左京のことを考える眠る起きる料理を作る仕込みをする左京のことを考える眠る起きる料理を作る仕込みをする左京のことを考える眠る起きる料理を作る仕込みをする左京のことを考える眠る起きる眠る起きる眠る起きる眠る起きる眠る……。………………。…………。……。
時は相変わらずその手を休めることもなく残酷に流れ続けた。
☆
ある日、朝目覚めると、台所に一枚の紙切れを見つけた。
《さようなら》
短い手紙には最小限の言葉しか書かれていなかった。左京が消えた日から、ちょうど十五年経った日のことだった。
いつのまにか俺ら家族はばらばらになっていた。ぺろぺろから全てがはじまったのに、些細なぺろぺろでこうも簡単に蓄積してきたものは損なわれてしまった。思えば崩れたのは一瞬で、俺と彼女は一縷の望みを捨てきれずに体裁を保ち続けていただけだった。
俺はくたびれた中年のおっさんになっていた。誰よりも若く活力が漲っている年齢で結婚した俺は、今、おそらく、同年齢の男性の誰よりも疲弊している。
どこかで何かが決定的にすれ違ってしまったのだ。
ぱっと頭に浮かぶ分岐点はいくつかあるが、後悔の念はすぐに次から次へと渦のように押し寄せてきた。後悔なんてしようと思えばいくらでもできるのだ。そんなふうに割りきろうとしても、どうしようもなかった。涙も出なかった。俺はただひたすら疲れていたのだ。
それからも俺は変わらず居酒屋の営業を続けた。まるでそれだけが俺に残されたものであるかのように――いや、確かにそうだった。俺は仕事を最後の砦にしようとしたのだ。それもやめてしまったら、俺に残された選択肢は一つしかないのだから。
彼女がいなくなっても以前と生活は変わらなかった。もはやどこまでが《以前》なのかわからない。俺の記憶はひどく曖昧でぼんやりとしていた。色んな思い出したいものが思い出せなくなり、思い出したくないことばかり思い出すようになった。体積した記憶はわかるのだが、それはスクラップのようにかちかちに固められていて、俺には手のつけようがなかった。
俺はどうすればいいんだろう?
どうすればよかったんだろう?
俺にはもうぺろぺろできるものがなくなってしまった。彼女をぺろぺろしなくなっていたが、おそらくぺろぺろしていること自体は問題ではなく、いつでもぺろぺろできる状態にあることが重要だったのだ。家族であることは問題ではなく、いつでも家族に戻れることが重要だったのだ。
いったいいつから――。
俺は――。
俺はそっと目を閉じた。