ほかの誰でもない、この僕
「おなかすいてない? ガッツリ食べにいこうよ!」
彼女に誘われるまま、駅前にある定食屋の暖簾をくぐった。店内に入ったとたん、肌を刺すほどの冷たい空気。
「うう~っ、さむ~!」
ここの主人は、『節電』の二文字を知らないのだろうか。それとも単なる暑がりなだけ?
出入り口に立って二の腕をゴシゴシこすっていたら、バイトらしき高校生ぐらいの若い女の子に声をかけられた。
「いらっしゃいませー、お二人様ですかーっ?」
これが若さなのか……。店員の女の子は、寒々しい半そでTシャツに短パン姿だ。この室温をものともせず、営業スマイルを浮かべている。
僕だって、まだ二十一。そんなに年くっている方じゃないんだけどな。さすがに高校生と比べたら、歯が立たない。人工的につくられた寒さにより、チキン肌になっている。
「ええ、わたしと彼の二人分。席、あります?」
僕の隣にいる彼女が、指を二本真っ直ぐ伸ばしてたずねた。彼女も寒くなさそうだ。僕のスーツより薄い生地のワンピースを着ているというのに、平然としている。
いったい、この差はなんなのだろう。やはり、肉厚の差なのだろうか。
女性の方が男性よりも皮下脂肪が多いと聞いたことがある。だけど、それを言った瞬間、世の女性たちの手により、半殺しにあうのが目に見えている。内に秘めておいた方がいいだろう。
「もちろん、ございますよ。どうぞ、こちらへ!」
元気の良い声とともに、僕たちは窓際のテーブル席へ案内された。
「なんか寒くね? 冷房ガンガンにかかっているんだけど」
上着を脱いで背もたれにかけてから、椅子を引いて座った。
長袖のシャツを一枚着ているのに、この肌寒さだ。本当のところは脱ぎたくなかったのだが、汁がピピッと跳ねて一張羅にシミをつくることだけは避けたいし。
今ここにいる客たちは平気なのだろうか。この席からぐるりと店内を見渡すと、みな食べるのに夢中になっているようで、室温を気にしている様子はなさそうだ。
奥の座敷にある間仕切りの上から、五歳ぐらいの小さな男の子がひょっこり顔を覗かせているのが見えた。ふと目があったので、ニッと歯を見せて笑いかける。そうしたら、不覚にもあかんべーをされてしまった。
心の中で「ちぇっ」と舌打ちしつつ、僕は視線を戻した。
「だよね。でもさ、ここ定食屋じゃん。あったかいものを食べているうちに汗をかいて、ちょうど良くなるんだよ。室温を下げているのは、作戦なんじゃない?」
微笑みながら彼女は、古びてクタクタになったメニューを手に取った。邪魔くさそうに肩にかかった髪を、片手でパサリと払う。
「なんにする? えーと、そうだなあ。やっぱ揚げ物メインだよね。エビふりゃあ、味噌カツ、鳥の唐揚げに天ぷら、おろし、すだち、抹茶塩、柚子こしょうだって」
メニューに目を落とした彼女は、順に料理名を述べていった。
いや、後半のヤツは料理じゃないでしょ。と、内心ツッコミを入れたものの、
「じゃあ僕、味噌煮込みうどんにするよ」
メニューを見ずに即決した。
「何よ、それ~。男なら黙って味噌カツ定、でしょう!」
不服そうに彼女は頬をふくらませた。
そんな行為が可愛らしいのは、十代のうちだけだ。と、思っていたけれど。高校を卒業してから三年たった現在では、そうじゃないことを僕は知っている。
「しょうがないだろう。披露宴では酒ばっか飲まされて大変だったんだからさ。カツなんか食えるかよ。現代人はもっと、胃腸をいたわらないと」
「も~う、君は変わらないなあ。ジジくさいったらナイよね。嫌になっちゃう」
「ほっとけ」
「なら、わたしは断然カツ! サッパリと、おろしカツにしちゃおうっと」
「味噌カツじゃなかったのかよ」
「それは男の場合、女はちがうの。すいませ~ん、注文お願いしま~すっ」
厨房がある後方を振り向いて、彼女は手をあげた。手をあげた拍子に、長い髪がサラサラと流れ落ちる。
「はい、お待たせいたしました」
先ほど席に案内してくれた若い女の子が、注文をとりにやって来た。
「味噌煮込みうどんと、おろしカツ定食をひとつずつお願いします」
「はい、承知いたしました。お冷とおしぼりはコチラです。どうぞ」
注文が終わると女の子が去るのを待ってから、僕は何気に思ったことを口に出した。
「髪、ずいぶん伸びたんだね。高校のときは短かったのに。久々に会ってビックリしたよ。全然わかんなかった」
すると、彼女は思い出したように答えた。
「あ、そっかー。伸ばし始めたの、三年前からだったもんね。水泳やってたときは邪魔だったから、短くしておいただけなの。本当は伸ばしたくって、ずっとガマンしていたのよ」
会話からご察しのとおり、僕と彼女は高校の同級生だ。水泳部の部長、副部長という間柄だったため、僕たちの会話を交わす機会は多かった。だが、特に親しい間柄というわけではないため、卒業してからは会っていない。再会したのは、もちろん今日が初めてだ。
部活の先輩の結婚式に呼ばれて式場に行ったところ、ロビーで偶然バッタリ出会ったのだ。どうやら僕だけではなく、彼女もまた招待されていたらしい。
たったの三年間だったのに、そのあいだに彼女は別人のように変わっていた。キビキビとした動作は、そのままだったけれど。しばらく見ないうちに、女らしく変身していたのだ。
ショートヘアだったのが、腰までずっと伸びたロングヘアになっていて、名古屋嬢らしくクルクル巻きであった。そのため、僕はすっかり騙されてしまったのだ。
「にしても、長いよな。よくここまで伸ばしたもんだ。髪洗うの大変だろう。どうやって自分で洗ってんのさ? じつは、男に洗ってもらってたりして!」
ほんのちょっとしたジョークのつもりで言ったのに、
「え、どうやって洗っているのかって……。どうしても、気になる?」
戸惑い気味に、彼女は聞き返してきた。ほんの少し首を横に傾けて、目を細くする。
そのとき僕は、自分がスベッたことに気づいた。彼女の目尻の部分に涙がたまっているように見えたからだ。
「あ……!」
涙が一滴こぼれ、彼女の頬をつたっていった。ゆっくりと一コマずつ流れるようなスピードでスーッと落ちて、ポタッと彼女の手の甲に丸い形をつくる。それは、いつまでもユラユラと揺れて、僕の心を激しくかき回した。
「ごめん! そんなつもりじゃ……。ちょっと忘れていただけで……」
――なんてことを言ってしまったんだ!
彼女が昔、今日結婚した先輩と付き合っていたことを、僕は思い出した。先輩が大学を卒業したあと二人が別れたとウワサで知ったけれど、彼女があまりにも普通どおりだったから、いつのまにか忘れてしまったのだ。
――くそっ。なんて無神経なんだよ、僕は。
当事者の先輩さえ忘れてしまっているのかもしれない。じゃなきゃ、元カノを結婚式なんかに招待するもんか。しかも、できちゃった婚の……。
「いいの、いいの。それ、みんなの勘違い。わたしの片思いだったの。先輩とわたし、はじめからつきあっていなかったのよ」
彼女は、素早く涙をハンカチでぬぐった。
――なんだって?
「へ、そうだったの?」
あっけにとられた僕に向かって、彼女はにっこりとうなずいた。
「だから、いい加減そろそろ卒業しなきゃ、だよね。奥さんがいる人を好きでいても、不毛なだけ。バカみたいなんだもん。よし、決めた。思いきって髪切ろう。ひとり断髪式やろう!」
僕を気遣ってのことだろう。パチンと両手を合わせて打ち鳴らすと、彼女は弾んだ声で言った。
励まさなければならないのは、僕の方だっていうのに。逆に励まされてしまうなんて。申し訳なく思うと同時に、自分が情けなくて仕方がない。
どうしたらいいのだろうか。なんとかして彼女を元気づけてやりたいと思う気持ちが、胸の底から沸々とわいているのは確かだ。
「なあ、あのさ。お詫びと言っては、なんだけど」
「なに?」
「その断髪式、僕も参加させてくれないかな? ウチが美容院をやっているの、知っているだろう? いま専門学校に通っていて、親父にもシゴかれているところなんだ。簡単な散髪ぐらいだったら、僕にもできるよ。仕上げは、親父に頼むけどさ。どう……?」
「そうねえ、どうしようかなあ」
彼女は考え込むようにして、うつむいた。しばらくしたあと、不意に顔をあげる。
「先に食べてからにしようよ。おなかペコペコなんだもん。決めるのは、それからでいいでしょう?」
「もちろん、いいけど……」
なんとしてでも、僕の申し出を受け入れてほしかった。彼女の長い髪にハサミを入れるのは、ほかの誰でもない、この僕が最初でありたかったから。
ここで一発、ガツンと味噌カツを食べて男らしいところを見せれば、彼女は僕の提案を受け入れてくれるだろうか。
そうだ、男は黙って味噌カツ定だ。ガッツを見せるのが、大切なのだ。
「ちょっとスイマセン!」
注文を変更するために手をあげて、バイトの女の子に声をかけた。
「味噌煮込みうどんをやめて、味噌カツ定食にしてください! キャベツ大盛りでっ」
彼女は驚いて目を丸くさせていたが、僕はかなり本気だった。
胃薬を持って彼女が僕を訪ねてきたのは、明日のことだ。
(END)
「気になる」「ガンガン」「散髪」
どこにあったか、お気づきになったでしょうか。けっこう難しかったです~。
読んでくださってありがとうございました!