第一章:再会は始まりの鐘4
ほどなく、馬車はマリネアにも覚えがある道へと戻ってきた。幼い頃から何度も通った、ステインチュール家への道。
リグリットはどこかへ出かけるところだっただろうに、こうしてマリネアを乗せてしまったために屋敷に戻らざるを得なくなったのだろう。馬車はゆっくりと屋敷の前で止まった。
クローヴィア王国四大公爵家の一つであるステインチュール家の屋敷は、屋敷にしろ庭園にしろ、整然とした美しさを備えていた。庭木は一枝の乱れもなく切りそろえられ、左右対称の屋敷は見る者を圧倒する存在感である。黒で統一された建物は軍の官舎のように無機質で、代々有能な国軍騎士を輩出する家柄に相応しい造りである。
二人が馬車から降りると、黒塗りの屋敷の扉の前で主人の帰りを待っていた執事が顔を上げた。
「おかえりなさいませ」
「ああ。またすぐ出る」
一言しか返さない若当主に嫌な顔ひとつせず頷き返すその老執事は、マリネアの顔を見ると驚いたように目を見開いた。
「ギルバート、さん……」
リグリットの元へ遊びに来てはちょろちょろと後をついてまわっていたマリネアを、いつも優しく出迎えてくれていたのはギルバートだ。六年経っても彼の容姿は変わらず、隙のない完璧な執事服である。
リグリットが急につれてきた客が女性、しかも国では生死が不明となっている娘であれば彼も驚いただろうが、ギルバートはすぐに昔と変わらない穏やかな笑顔でマリネアにも「おかえりなさいませ」と言ってくれた。
立場上声を上げるようなことはしないが、彼がとても嬉しそうにマリネアを迎え入れてくれていることにマリネアは胸が温かくなり、同時に罪悪感を覚えた。
少しだけ笑みを浮かべて会釈し、前を歩くリグリットに手を引かれて屋敷に入った。
この屋敷も久しぶりだ。ステインチュール公爵は亡くなり、今はリグリットがこの広い屋敷の主だというが、家具も内装も六年前のままだった。
「おかえりなさいませ」
屋敷のエントランスホールでは女中が並んで頭を下げていた。マリネアと同じくらいの年頃の女性が二人。こういった屋敷の女中というのは下級貴族の娘や商家の娘が行儀見習いとしてやってくるので入れ替わりが激しい。さすがに知らない顔だった。
丁寧に頭を下げてはいるが、無愛想で厳格な(これはあくまで今のリグリットを見たマリネアのイメージだが)主人が、出かけたかと思えばすぐ引き返し、挙句女連れとあって内心眉をひそめているか、面白がっていることだろう。マリネアとしては、ギルバートの前以上に居心地が悪い。
「ルリアを呼んでくれ」
「かしこまりました」
リグリットの口から知らない女性の名前が出て、なんだかマリネアはいい気がしない。いやいや関係ないからと思ったところで、呼びに行った女中とともにもう一人女中が現われた。
「何、リグリット」
(リグリットを呼び捨て!)
女中でありながら主人であるリグリットを呼び捨てにするなど本来あり得ない。リグリットが名指しで呼び付けることからも二人がただの主従関係にないことがわかった。
(リグリットの婚約者かしら……でも、だったら女中なんてしているわけないか)
リグリットの前に立っても少しも臆したところのないその女性が、今は少し羨ましい。
見つめていると、女性のほうもリグリットの背中に隠れるようにして立っていたマリネアの存在に気づいて、ぎょっとした。
「ちょっとリグリット! この娘どうしたの!?」
「拾った」
屋敷に連れて来て、女中まで呼んでどうする気かと思っていたマリネアは、リグリットのあまりにも現実味のない言葉に女性同様ぎょっとした。
「ちょ、どういうつもり……!」
「今し方街で拾ってきた。今日からこの屋敷に住まわせる。ルリア、お前が仕事を教えてやれ」
「え?」
「はぁ!?」
マリネアの抗議する声にも耳を貸さず、ルリアと呼ばれた女性の素っ頓狂な声も意に介さず、リグリットはいたって普通の無表情でマリネアを見下ろした。手にしていたトランクを女性に押し付け、唖然とするマリネアの背中を押した。
「後で説明するから、とりあえず彼女を部屋に連れて行ってやってくれ。お前の部屋の隣でいい」
「いいけど……この娘、どこの娘よ」
「だから、拾った」
「そんなふざけたこと、アンタがするわけないでしょう!?」
拾ったから知らないとしらを切り通そうとするリグリットに対して、女性の追及は容赦ない。しかしそれも尤もだとマリネアは思った。ステインチュール家の当主ともあろう人が、年頃の若い娘を「拾った」はないだろう。リグリットの人柄を知っていればなおさら、彼女が不審に思うのも無理はない。
「詳しい事情はお前にも話せない。だがこれは決定事項だ。文句は言うな。お前が世話をしてくれ」
「決定事項って……」
なんて横暴な、と呆れた顔が雄弁に語っていた。
「ルリア、お前だから任せるんだ。……彼女の名前は、マリだ」
ぽんと背中を押され、マリネアはルリアのほうへ足を踏み出した。この女性に世話を任せる? 仕事を教えてやれ? この屋敷に住む? とんとん拍子に話を進めているが、全てリグリットの勝手な言い分だ。このまま決められてしまうのが悔しくて、マリネアはくるりと振り返った。
「リグリット! 勝手なこと言わないで!私は……」
「お前は黙っていろ」
マリネアの非難の声は、リグリットのきつい一睨みで一蹴された。またもや間近で睨み合うことになったが、もう先ほどのようには怖くない。
自分の屋敷に連れてきたのは、出歩かれて騒ぎになると、六年前に自分がマリネアを取り逃がしたことがばれてしまうのを恐れたからだろうか。昔のよしみや、同情などではないだろう。今のリグリットは―――あの日からのリグリットは、そこまでマリネアに優しくはないはずだ。
名前を「マリ」と紹介したのもマリネアの本当の身分を隠すために違いない。ユグノーチス家の生き残りとわかれば、使用人たちの間で噂になってしまうかもしれない。それがいつ外に漏れてもおかしくはない。だから、名前は保険だ。
気安い女中を一人マリネアにつけたのは監視のためか。復讐をたくらみ、自分を殺すと言っているマリネアを、黙って泳がせておくほどリグリットは馬鹿じゃない。
すべてはリグリットの都合にすぎない。けれど、見方を変えればこれはマリネアにとってもチャンスだった。
リグリットに復讐してやりたい一心で家を飛び出してきたので、疎かにしていた衣食住の問題は解決するし、何よりここに居ればリグリットの動向は全てお見通しだ。遠くから機会を狙うより、ここにいたほうが目的を果たせる可能性は高い。
彼は今や王国最高の騎士なのだろうが、自分の屋敷でなら油断も隙もあるはずだ。
リグリットの真意を探るように、マリネアはその漆黒の瞳を覗きこんだ。冷たい光を宿すだけの瞳からは何も読み取ることはできないが、今は、マリネアもこの男の提案に乗ってやろうと思う。
けれど、決して彼の思い通りにはさせない。
無言の睨み合いが続く中、背後から溜め息が聞こえた。するとマリネアはぐっと肩を引き寄せられ、気づけばルリアに守られるように立っていた。
「可愛い女の子をそんな目で睨まないの。そんなんだからいつまで経っても婚約者がいないのよ」
「余計なお世話だ」
「……この子は私が責任持って見てあげるから、アンタはさっさと王城でもどこでも行きなさい」
マリネアの肩を抱く手は優しかった。マリネアより少し高い位置にあるその顔は、仕方ないという風に眉を下げて微笑んでいた。聞き分けのない弟を安心させるような声音で、邪険に追い払うようにしっしっと手を振った。
「……頼む」
女性からぞんざいに会話を終えられたことに不満を持つでもなく、少しだけ目を伏せると、リグリットはもうマリネアに目もくれず、さっさと踵を返し扉を抜けて外へ出て行った。馬が嘶き、馬車が出た。
傍にいても落ち着かないが、姿が見えないともっと不安になった。姿が消えたエントランスを見ていると、肩を抱いていた手に優しく叩かれた。顔を上げると、女性はマリネアを安心させるように微笑んだ。
「大丈夫よ」
何が、と言われたわけではないが、彼女の落ち着いた声でそう言われると、少し呼吸が楽になった気がした。今まで随分肩に力が入っていたらしい。
「サーナ、エルダ、先に行って部屋を整えてくれる?」
「ええ」
「任せて」
二人の女中は素直に女性の指示に従い、ぱたぱたとホールを後にした。
「ルリアさま、湯の用意はいかがしましょうか」
「お願いしていいかしら?」
かしこまりました、と頭を下げてギルバートもホールを出て行った。また少しだけ浮かべていた微笑に、マリネアへの心遣いが窺えた。
「とりあえず、私の部屋で準備ができるのを待ちましょう。……マリ?」
「……はい」
促されて女性に向き直ると、彼女は面白いものを見るような目でマリネアを見ていた。それは珍しいものを見るような純粋な好奇心で、嫌な気持ちにはならなかった。
「事情はわからないけど、リグリットがここにいていいと言ったからには大丈夫よ。私はルリア=オービス。あの男とは軍学校時代の同級生なの」
ルリアの言葉で、二人の間の気安さの謎が解けた。気の強そうな少しつり目の顔は、そう言われてみると軍服が似合いそうな逞しさを備えている。長い臙脂色の髪を高い位置で一つに結いあげ、焦げ茶色の瞳がいたずらっぽく輝いている。
「あの堅物リグリットが女の子なんか連れているから何事かと思ったけど、あんな顔で頼む、なんて言われたら断れないわ。……しかも可愛い年下の女の子だもの」
「ごめんなさい……。ご迷惑おかけします」
リグリットに迷惑をかけるのはかまわないが、周りの、他の人に対しては申し訳ないと思う。マリネアが頭を下げると、ルリアは慌ててとりなした。
「いいのよ! 今の感じだと、貴女も何も聞かされずここに連れてこられたんでしょう?」
「はい……」
「あの男のことだもの、面倒なことは自分でなんとかするわ。とにかくマリは一旦落ち着いて、それからここでの生活に慣れていけばいいわ。何でも私に聞いてね!」
ルリアの快活な笑顔に無償に安心した。リグリットが信用するだけあって、ルリアはとても頼りになる女性のように思えた。
「あの……ありがとうございます」
「ふふふ、いいの、私も妹ができたみたいで楽しいから」
根っからの姉御肌なのか、ルリアは引き受けたからには楽しもうと、リグリットと話していた時とはころりと表情を変えてマリネアの手を引いた。
軽い足取りで一階奥の使用人たちの居住区に案内されながら、マリネアはなんだか目まぐるしい現実について行けず、ただただ黙って手を引かれていた。
クローヴィアに帰って来た途端に、いろいろなことがあった。悲しみ、歎くことしかできなかったこの六年間とはまったく違う新しい場所や新しい人々。不安も大きいが、マリネアにはひとつだけはっきりしていることがあった。
今日一日で、確実に目的に近づいたということ。これから、マリネアの全てが始まるのだ。