プロローグ 裏切りは炎の彼方
夕暮れの真っ赤に染まった空を、マリネアは一人馬車の窓から見ていた。
実家のある西へ西へと進んで行く馬車から見える空はどんどん赤みを増していた。屋敷に着いたら両親や兄にも見せてあげたい。
そう思い、マリネアは座席に深く腰掛けた。
今日は両親とも兄とも一緒ではなかった。マリネア一人、幼馴染のシエラの元へ遊びに行っていた。いつもならシエラと恋仲の兄エイブレンや、朝から屋敷に来ていることも多いリグリットと一緒に出かけるのだが。
少し寂しい気もしたが、もう自分も十二歳で、一人で外出が出来るのだと思うと誇らしくもあった。
(……でも、やっぱり一緒がよかったな)
帰ったら、彼はうちに来ているだろうか。今夜も一緒に夕飯を食べられるといいのに。
彼にもこの素敵な夕焼けを見せてあげたい……幼い恋心に胸を躍らせながら、マリネアは馬車が一秒でも早く屋敷に着くことを願った。
「――――っ!?」
急に馬車が止まり、馬が嘶いた。マリネアは窓から顔を出して御者台に座る使用人に何事かと尋ねようとした。
「スヴェン―――」
「お嬢様、屋敷が!」
スヴェンの悲鳴に顔を屋敷のほうへ向けると、―――思いのほか屋敷の近くまで来ていた―――石畳の道の先、木々に囲まれたその奥で屋敷が、燃えていた。
「!?」
「お嬢様はここでお待ちくださいっ」
馬車を道脇の茂みに寄せると、スヴェンは一人馬車を降りて屋敷に走り出した。
「待って!」
「来ては駄目です! 危ないですから、そこで待っていてください!」
「スヴェン!!!」
ユグノーチス公爵家に長く仕える馴染みの使用人は主人の屋敷に起きている異変を感じ取り、娘のように可愛がっている少女マリネア=ユグノーチスをその場に残し、単身燃え盛る屋敷へと走って行った。
「スヴェン!」
頼りになる大人を失い、マリネアはすぐに不安に涙が滲んできた。幼いながらに尋常ではない事態を感じ取り、いてもたってもいられず馬車を飛び出した。
降りた途端に、強烈な熱風に曝される。
「スヴェン……!……―――お兄さまぁ」
頼みの綱は親しんだ使用人から、すぐに最愛の兄へと変わった。いつもマリネアの傍にいて、優しく微笑んでくれる兄。
スヴェンの影が道の先で小さくなり、赤々と燃える屋敷の中に消えて行った。一人で取り残されたという不安。兄は、両親は、どこにいるのか。どうなったのか。
まだ十二歳の少女でも、この場で黙って待っていてもどうしようもないということはわかった。両親や兄を探さなくては。何が起こっているのか、誰か教えて―――。
「―――リグリットぉ」
熱風で乾燥してきた瞳に涙が溢れる。こんなとき、例えば森で一人迷子になって不安なとき、いつもマリネアを一番に見つけ出してくれる四つ上の幼馴染。
リグリットなら、一緒にお兄さまを探してくれる。リグリットを呼びに行かなくちゃ。
リグリットが住むステインチュール家の屋敷はユグノーチス家の屋敷を囲むこの林の先だ。林を突っ切ればマリネアの足でもそう時間はかからない。
マリネアはすぐに林の中に飛び込み、探険と称してみんなで駆け回った林を一目散に走り出した。
(速く、速く……! リグリット、一緒にお兄さまを探して……!)
屋敷に近付くにつれ、周囲の温度が上がっていく。所々木々にも火が燃え移っており、マリネアは恐怖に足が竦んだ。
間近に迫った屋敷は轟音を響かせて燃え続けている。その炎の勢いは留まるところを知らない。
「スヴェン!……お兄さま、どこにいるの!」
力の限り叫んでみるが、煙を吸ってむせてしまった。熱と煙で息が苦しい。
足元の木々にも火が移っている。危ないと頭では分かっているのに、足に根が生えたように動くことができない。
「お父さま……、お母さまぁ!……―――!?」
まるで人の気配がなかった屋敷の真っ赤な入口に、黒い人影が見えた。人がいる、無事なのだと思うと一気に気持ちが緩んだ。
人影は林の中に立ち尽くすマリネアのほうへゆっくりと歩いてくる。服は黒くすすけていたが、その姿をマリネアが見間違うはずはなかった。
「リグリット!」
探しに行こうとしていた当の人物が見つかり、マリネアの胸にはすでに安堵が広がって居た。
リグリットがいれば、もう大丈夫。すぐにお兄さまも、お父さまもお母さまも見つけてくれる。
もう足元の炎も怖くなかった。歩み寄ってくるリグリットへ、マリネアも駆け出す。
「マリネア」
名前を呼ぶ声は恐ろしく冷たかった。
マリネアは思わず踏み出しかけていた足を止めた。
数メートル先で立ち止ったリグリットはその背後に煌々と燃え上がる真っ赤な炎を背負っている。姿は濃い影になっていて表情がよく見えない。
けれど、いつもと纏う雰囲気が違うということはマリネアにもわかった。いつものように、駆け寄るマリネアを苦笑交じりに抱きとめてくれる、迷子になって不安に怯えるマリネアに救いの手を差し伸べてくれるリグリットとはまるで違う。
「リグリット……?」
その硬質な声に、安堵していたマリネアの心は急速に冷えていった。胸がぎゅっと締めつけられたように苦しくなる。
「リグリット……屋敷が……お兄さまたちはどこ……?」
いつもなら漆黒の瞳を優しく細め、「こっちだ、マリネア」と言ってくれるのに。不吉な黒い影はマリネアに優しい言葉をかけてはくれない。
ただじっと、不安と恐怖に怯える少女を見つめるだけ。
「リグリット……」
「ここから去れ、マリネア」
―――……一瞬、何を言われているのかマリネアにはわからなかった。数拍遅れてリグリットが何と言ったのかわかっても、理解はできない。
「え……」
「ここから去れ。もうここにお前の居場所はない」
繰り返されるリグリットの言葉に、それでもマリネアの理解は追いつかなかった。
「どういうこと……? どうして、リグリット……」
「公爵夫妻も、エイブレンも死んだ」
「!?」
「お前はここにいるべきではない。……死にたくなければ、ここから立ち去れ」
「嘘よ! お兄さまは」
「エイブレンは俺が殺した」
「!?」
嘘だ嘘だと頭を振っていたマリネアも、リグリットの最後の言葉にはっとして目を見開いた。
恐る恐る見つめ返したリグリットの顔には表情がなかった。
「嘘よ……」
「嘘じゃない。エイブレンはもういない」
淡々とそう告げるリグリットの声はさして大きくもないのに真直ぐにマリネアの胸に突き刺さった。
二人の背後で、大きな音を立てて屋敷が崩れ始めた。風向きが変わり炎の勢いが増している。
降り注ぐ火の粉がマリネアの周囲の木々に次々と点火した。リグリットの姿が炎の壁の向こうに遠ざかる。
「リグっ!」
両親も兄もここにはいないのに、頼れるのはリグリット一人なのに。なのにその彼は、マリネアにただ去れと言う。
屋敷が崩れる大きな音に、マリネアはびくりと肩を震わせた。
「行け、マリネア!」
「っ!」
「―――……そしてもう二度と、この国には戻ってくるな!」
轟音に負けず辺りに響き渡った声に、マリネアは気づけば背を向け夢中で林の奥へと走り出していた。
夜は近づいている。足元はおぼつかないし視界も悪かったが、それでもただひたすら走って逃げた。
最後まで見つめ続けたリグリットの顔を、マリネアは忘れないだろう。物心ついたときから傍にいる、もう一人の兄のような幼馴染の、大好きな人の冷酷な表情。
「……ふっ、リグリットぉ……お兄さまぁ」
涙は次から次へと溢れてきた。怖かった。不安だった。哀しかった―――。
そうして遠ざかって行く小さな頼りない背中を、残った黒い影はいつまでも見つめていた。
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