第10話 今度は二人で木から降りましょう
第10話 今度は二人で木から降りましょう
アルノーが釈放されて三日目の午後、コーデリアはレイヴン侯爵家の応接室へ呼ばれた。窓辺には遅咲きの白薔薇が飾られ、磨かれた卓上には苺のタルトと胡桃菓子が並んでいる。アルノーは薄い灰色の上着を着ていたが、牢で痩せたせいで襟元に指一本分の隙間があり、以前より肩が細く見えた。彼は紅茶へ砂糖を入れず、銀の匙を意味もなく三度回してから、コーデリアの正面へ座った。
「婚約を解消しようと思う」
コーデリアが持っていたフォークの先から、苺が皿へ落ちた。赤い果汁が白いクリームへ筋をつくり、向かいに座るアルノーは、それを布巾で拭こうともせずに話を続けた。家同士が決めた婚約であり、王女暗殺未遂の容疑をかけられた男と結婚すれば、事件が終わっても彼女には余計な噂がついて回るという。コーデリアは苺を刺し直し、口へ入れたものの、甘いのか酸っぱいのか分からないまま飲み込んだ。
「君は十分に僕を助けた。これ以上、僕の家へ縛られる必要はない」
「私は、助けたお礼に結婚していただくつもりはありません」
「分かっている。だから君自身に選び直してほしい」
「選び直した結果、あなたを選ぶ可能性は考えなかったのですか」
「考えたから、僕のほうから先に手放すべきだと思った」
コーデリアはフォークを皿へ置いた。相手を自由にするためという顔をして、選ばれなかったときのために先に逃げ道をつくっているのではないかと思うと、卓上の胡桃菓子まで腹立たしく見えた。十一年間、彼女が贈るたびにアルノーが黙って食べていた菓子だったが、彼が胡桃を嫌っていたことを知ったのは、つい先月である。嫌なら嫌と言わず、危険な調査も隠し、今度は勝手に婚約まで片づけようとしている。
「アルノー。これは召し上がらないのですか」
「胡桃菓子は、あまり好きではない」
「今日は言えるのですね」
「君が、隠し事をしたら木から落とすと言ったから」
「落とすとは言っていません。降ろさないと言ったのです」
アルノーが眉を寄せたので、コーデリアは椅子を引いた。立ち上がった拍子に膝が卓へ当たり、紅茶が少しこぼれたが、そのままにした。明日の午後、ファーン伯爵家の庭にある樫の木まで来るように言い残し、彼の返事を聞かずに応接室を出た。廊下へ出てから手袋を忘れたことに気づいたものの、取りに戻れば格好がつかないため、冷たい手を外套のポケットへ押し込んだ。
翌日はよく晴れ、庭の水仙が黄色い花を風に揺らしていた。樫の木の下では、庭師が落ち葉を熊手で集め、その横でミレーヌが籠いっぱいの焼き菓子を食べていた。コーデリアは若草色の乗馬服に茶色い長靴を履き、一本の梯子と二束の藁を用意させた。腰の袋には、十一年前に半分に割った木彫りの鳥を入れている。
「お嬢様、本当に枝へ引っ掛かったのですか」
「これから引っ掛けます」
「まだ引っ掛かっていないのですね」
「細かいことを気にすると、立派な恋愛小説家にはなれませんよ」
「私は衣装係です。恋愛小説家になった覚えはありません」
「昨日、新しい手帳を三冊も買ったでしょう」
「一冊は献立用です。今夜は鶏肉と玉ねぎの煮込みにします」
「残りの二冊は?」
「事件の記録と、売れたときの印税の使い道です」
やがてアルノーが紺色の外套を着て現れた。釈放されたばかりだというのに、時間どおりで、革靴にも泥一つついていない。コーデリアは彼の顔を見ると、昨夜から考えていた説明を全部忘れ、木彫りの鳥を樫の枝へ放り投げた。鳥は狙った枝を越え、もう一段高い枝の又へ挟まった。
「今、わざと投げただろう」
「木彫りの鳥が枝へ引っ掛かりました」
「僕にも見えていた」
「取ってきてください」
「庭師に頼めばいい」
「婚約者の頼みを断るのですか」
「昨日、解消を申し出たはずだ」
「では、元婚約者として最後の頼みです」
アルノーは樫の木と梯子を見比べ、次に木の下へ積まれた藁を見た。十一年前の彼が用意させたものと同じである。何を企んでいるのか尋ねたが、コーデリアは口笛を吹くふりをして、鳴らない息を漏らした。アルノーはとうとう外套を脱ぎ、庭師へ預けると、梯子へ足をかけた。
「鳥を取ったら、話を聞いてもらう」
「取れたら考えます」
「また君に振り回されている気がする」
「気のせいではありません」
アルノーが太い枝まで登ると、コーデリアも梯子へ足をかけた。彼が止めるより早く、その隣の枝へよじ登り、木彫りの鳥を袋へ戻した。計画では、地上にいるミレーヌが梯子を下ろすはずだった。ところが待ちきれなかったコーデリアが自分で梯子を蹴ると、梯子は芝生へ倒れ、その先が苺を運んできた使用人の卓へぶつかった。白い卓布が引かれ、苺の皿と蜂蜜壺が芝生へ落ちた。
「あっ」
「君は今、自分で驚いたな」
「もう少し静かに倒れる予定でした」
「梯子に静けさを期待するな」
「苺は洗えば食べられます」
「蜂蜜壺は割れたぞ」
「それは……蟻が喜びます」
枝の下では使用人たちが皿を拾い、庭師が割れた壺の破片を箒で集めていた。ミレーヌは助けるどころか、手帳へ猛烈な勢いで文字を書いている。アルノーは額へ手を当て、十一年前と同じ枝に腰を下ろした。樫の若葉が彼の髪へ触れ、木の皮の乾いた匂いと、潰れた苺の甘い匂いが風に混じった。
「十一年前、僕まで登ったら、木の上に婚約者が二人になると言ったはずだ」
「今日は婚約を解消するそうですから、他人が二人です」
「分かった。解消を取り消す」
「それだけでは降ろしません」
「梯子を倒したのは君だろう」
「細かいことを気にしないでください」
「僕は細かいことを気にする男だ。そうでなければ、君の後始末を十一年も続けられない」
コーデリアは言い返そうとして口を開いたが、枝の下から母親の咳払いが聞こえた。幹の陰には両家の両親がそろっており、レイヴン侯爵夫人は日傘を差し、ファーン伯爵は庭師から渡された干し杏を食べている。庭師まで作業をやめ、樫の木を見上げていた。コーデリアは全員を追い払いたくなったが、先ほど自分で人を集めさせたことを思い出し、長靴の先で枝をこすった。
「聞かれているぞ」
「分かっています。ミレーヌ、書くのをやめなさい!」
「無理です。題名が決まりました。『樫の木の求婚』です」
「まだ求婚されていません!」
「では、早く続きをお願いします」
コーデリアが枝の上で両手を握ると、アルノーは笑わずに彼女を見た。牢で会ったときより顔色はよくなっていたが、手首にはまだ薄い縄の痕が残っている。彼はその手で胸元を探り、半分になった木彫りの鳥を取り出した。十一年間、何度も指で触れたため、羽の部分だけ色が濃くなっていた。
「僕は、家同士が決めたから君と結婚するのだと思っていた。君を危険から遠ざけ、困ったときには僕が答えを決めることが、君を守ることだとも思っていた」
「どちらも間違いでしたね」
「最後まで言わせてくれ。僕は君に疑われた。君に机を荒らされ、馬の靴下を突きつけられ、秘密を隠したことを怒鳴られた」
「机は荒らしていません。寝台の下を少し広く調べただけです」
「それでも君は、不利な証拠を捨てず、僕が無実だと信じるだけで済ませなかった。僕の知らなかった君を見て、もう一度、君を選びたいと思った」
アルノーは細い枝へ片膝をつこうとした。樫の枝が大きく揺れ、コーデリアは彼の襟をつかんだ。地上から母親たちの短い悲鳴が上がり、庭師が藁束を引き寄せる。アルノーは姿勢を戻し、求婚には木の上で膝をつく必要がないと判断したらしく、彼女の手を握った。
「コーデリア・ファーン。家の命令ではなく、僕自身の意思で、君を妻にしたい。僕が間違えたときは怒ってほしい。君が間違えたときは、梯子を用意してから一緒に考える。結婚してくれるか」
「条件があります」
「聞こう」
「私を守るという理由で、私に何も知らせないことを禁止します。それから、嫌いな菓子は嫌いと言ってください。毎年胡桃菓子を選んだ私が、十一年も愚かだったようではありませんか」
「僕も条件がある。木へ登る前に知らせてほしい」
「それは約束できません」
「では、登ったあとでいい」
コーデリアは彼の手を握り返した。無実だったから選ぶのではなく、疑って、腹を立てて、彼が案外説明の下手な男であることまで知ったうえで選ぶのだと答えた。アルノーも、彼女が勇敢なだけでなく、腹を立てると梯子まで蹴り倒す女だと知ってしまった。それでもよいのかと尋ねると、彼は芝生へ散った苺を見下ろした。
「よいとは言い切れない」
「そこは言い切るところです!」
「だが、君以外と退屈に暮らすよりはいい」
「誰のせいで毎年胡桃菓子を選んだと思っているのですか!」
「それは君だ」
コーデリアが彼の肩を叩くと、樫の木がまた揺れた。地上から庭師が、求婚が済んだなら梯子を戻してよいかと尋ねた。ミレーヌはもう少し喧嘩を続けてほしいと頼み、両家の母親から同時に頭をはたかれた。結局、二人は笑いながら梯子を降り、潰れなかった苺を使用人たちと分けて食べた。
三か月後、庭の薔薇が満開になるころ、二人の結婚式が行われた。コーデリアは真珠を縫いつけた白いドレスを着て、アルノーは銀糸の刺繍が入った紺色の礼装をまとっている。控室には蜂蜜を塗った焼き菓子、レモンの砂糖漬け、胡桃を使っていない小さなケーキが並んでいた。ミレーヌは花嫁の髪へ白薔薇を挿しながら、腰の手帳にも何かを書き続けていた。
「今日は衣装係に専念してください」
「今、第四章まで書けました」
「私たちはまだ結婚式を始めてもいません」
「小説の中では、すでに三回すれ違っています」
「実際の私たちは、それ以上すれ違いましたよ」
「ですから、三回に減らしたのです。読者にも暮らしがありますから」
式が始まる直前、アルノーはコーデリアへ自分の持っていた半分の木彫りの鳥を渡した。彼女も腰の小袋から、もう半分を取り出した。二つを合わせると、割れ目の内側に幼い文字が刻まれていた。片方はアルノーの整った字で、もう片方はコーデリアの大きさのそろわない字だった。
困ったときは、二人で降りる方法を考える。
「こんな言葉、書いたことを忘れていました」
「君は書いた直後に、昼食のプリンを二つ食べていた」
「あなたが残したからでしょう」
「胡桃が入っていた」
「十一年前から言いなさい!」
誓いの言葉を交わす時間になると、青い目の雌馬が庭へ連れてこられた。首には白い花飾りが巻かれ、背中の小さな籠に結婚指輪が入っている。ところが雌馬は参列者の拍手に驚き、卓上の焼き菓子を一つくわえると、そのまま薔薇の生垣へ向かって走り出した。アルノーは一拍遅れて追いかけ、コーデリアも長い裾を両手で持ち上げた。
「その馬を止めてください!」
「君が青い靴下を振れば戻るかもしれない!」
「結婚式に馬の靴下を持ってくる花嫁がいますか!」
「君なら持っていると思った!」
「私を何だと思っているのです!」
雌馬は焼き菓子を食べ終えると、今度は卓上の林檎を狙った。参列者が左右へ逃げ、給仕は葡萄酒の瓶だけを抱えて守り、ミレーヌは走りながら手帳へ書いていた。アルノーが手綱をつかみ、コーデリアが籠から指輪を取り出したころには、二人の礼装へ草の種と薔薇の花びらが張りついていた。コーデリアは芝生へ座り込み、アルノーの袖で額の汗を拭いた。
「これからも、私を信じますか」
「君が木に登らないという約束以外なら」
「ひどい。私はもう、子どもではありません」
「大人は梯子を蹴り倒さない」
「一度しかしていません」
「一度で十分だ」
そのとき、樫の木の上から女の悲鳴が聞こえた。二人が見上げると、ミレーヌが片手に手帳を持ち、太い枝へしがみついている。雌馬を追う新郎新婦をよく見ようとして登ったものの、地面を見た途端に動けなくなったらしい。木の下には、彼女が脱いだ靴と、書きかけの原稿が一枚落ちていた。
「コーデリア! アルノー卿! 愛があるなら助けてください!」
「アルノー、助けに登ってください」
「まず梯子と藁だ」
「やっぱり、そこは変わらないのですね」
「僕まで登ったら、木の上に物書きと新郎が二人になる」
「婚約者ではありませんよ。今日はもう夫です」
「では、妻も梯子を運んでくれ」
二人は顔を見合わせて笑い、手をつないだまま庭師を呼びに走った。途中でコーデリアの靴が片方脱げ、アルノーはそれを拾って小脇に抱えたが、足を止めなかった。木の上ではミレーヌが、原稿の題名を「樫の木の求婚」から「樫の木から降りられない三人」へ変えるべきか叫んでいる。青い目の雌馬は誰にも捕まらない場所で二つ目の焼き菓子を食べ、白薔薇の花壇には、十一年前と同じように藁束と梯子が運ばれてきた。




