良い子、悪い子、普通の子――同じように婚約破棄された三人の公爵令嬢
世の中には、良い子と悪い子と普通の子がおります。
良い子は、人の幸せを願います。
悪い子は、自分の利益を考えます。
では、普通の子は何をするのでしょう。
ここに、三人の公爵令嬢がおりました。
三人はそれぞれ別の国に暮らしており、互いに顔も名前も知りません。けれど、不思議なほどよく似た境遇にありました。
三人とも公爵家の一人娘。
三人とも幼い頃に王太子との婚約が決まり。
三人とも十年以上にわたって王太子妃教育を受け。
三人とも王太子の婚約者として夜会や式典に出席し、王宮行事を手伝い、未来の王太子妃として扱われてきました。
そして十八歳になった年。
三人とも学院の卒業夜会で、ほとんど同じ言葉を告げられました。
「君との婚約を破棄する! 私は真実の愛を見つけた!」
王太子の隣には、それぞれ可愛らしい令嬢がおりました。
理由もだいたい同じです。
婚約者は冷たい。
自分を愛してくれない。
隣にいる彼女は優しく、自分を一人の男として見てくれる。
だから真実の愛を選ぶ。
実に分かりやすいお話です。
さて。
良い子と悪い子と普通の子。
三人は、どうしたでしょう。
まずは――良い子のお話から。
◆良い子の場合
「君との婚約を破棄する! 私は真実の愛を見つけた!」
大勢の貴族が見守る卒業夜会でそう宣言された良い子は、しばらく王太子を見つめました。それから、その隣に立つ令嬢を見ました。
令嬢は怯えています。
無理もありません。公爵令嬢から婚約者を奪ったのです。何をされるか分からないと思っているのでしょう。
良い子は微笑みました。
「承知いたしました」
「……何?」
「殿下が心から愛する方を見つけられたのでしたら、わたくしから申し上げることはございません」
「そ、そうか」
「そちらの方が、殿下の愛する方なのですね?」
「ああ」
「どうか殿下をよろしくお願いいたします」
良い子は令嬢にも頭を下げました。
「え……」
「わたくしでは、殿下のお心を満たすことができなかったようです。あなたならできるのでしょう。お二人の幸福を心よりお祈りしております」
そして王太子へ向き直ります。
「これまで長い間、お世話になりました」
「あ、ああ」
「では、わたくしはこれで」
良い子は帰りました。
良い子でした。
たいへん良い子でした。
ひとつだけ、王太子にとって計算外だったことがございます。
――周囲の人々も、それを見ていたことです。
翌日には王都中で評判になりました。
婚約を一方的に破棄されたにもかかわらず、相手の幸福を願って身を引いた公爵令嬢。
十年以上も王太子を支え続け、最後まで王家を責めなかった公爵令嬢。
そして。
そんな令嬢を卒業夜会で公衆の面前に立たせ、別の女性を横に置いて婚約破棄を宣言した王太子。
「なんと健気な方だ」
「公爵令嬢として完璧な振る舞いではないか」
「それに比べて殿下は……」
良い子は誰にも王太子の悪口を言いませんでした。
むしろ聞かれるたびに、
「殿下がお幸せなら、それでよいのです」
と答えました。
そのたびに王太子の評判が下がりました。
良い子には何の悪意もありません。本当に王太子の幸福を願っているだけなのです。
だから誰にも止められません。
半年後。
良い子には、隣国の第二王子との縁談がまとまりました。以前から彼女の評判を聞いていた王家から、正式に申し込みがあったのです。
良い子は隣国へ嫁ぎました。
後に夫婦仲はたいそう睦まじかったと伝えられております。
めでたし、めでたし。
なお、元婚約者の王太子は、
「彼女ほどの女性を捨てた男」
という評価を、その後かなり長い間背負うことになりました。
良い子は最後まで、彼の不幸など願っていなかったのですが。
◆悪い子の場合
「君との婚約を破棄する! 私は真実の愛を見つけた!」
悪い子は王太子を見ました。
隣の令嬢を見ました。
もう一度、王太子を見ました。
そして、にっこり笑いました。
「承知いたしましたわ」
「そうか!」
「では、お金のお話をいたしましょう」
「……金?」
「はい」
悪い子は侍女へ手を出しました。心得た侍女が鞄から書類の束を取り出します。
「まず、昨年の殿下の誕生祝賀会で、公爵家が立て替えました装飾費」
「待て」
「春の狩猟会でお使いになった公爵家所有の別邸。その使用料は婚約期間中につき請求しておりませんでした」
「待て」
「殿下がご友人へ贈られたワイン十二本。こちらも公爵家の蔵から出しております」
「待てと言っている!」
「なぜです?」
「なぜ急に金の話になる!」
「婚約を破棄するのでしょう?」
「そうだ!」
「でしたら、他人ですわね」
王太子は黙りました。
「婚約者でしたから、いちいち請求していなかっただけですもの。他人になった方の費用を、なぜ我が公爵家が負担し続けるのでしょう?」
「しかし――」
「もちろん正式な贈与分は除外しております。貸与品、立替金、未精算分だけです。ご安心くださいませ」
まったく安心できません。
「それから」
悪い子は王太子の隣にいる令嬢を見ました。
「あなた」
「は、はい!」
「殿下から、わたくしとの婚約について何と聞いていました?」
「え?」
「そのままお答えになって」
「その……すでに解消することが決まっている、と……」
「いつ頃?」
「半年ほど前に……」
悪い子は王太子を見ました。
王太子は目を逸らしました。
「まあ」
悪い子は、とても嬉しそうに笑いました。
「案件が増えましたわ」
「増やすな!」
「増やしたのは殿下です」
その日のうちに悪い子は実家へ戻りました。
王太子には、ひとつ計算外だったことがございます。
――婚約者だから請求されていなかったものが、思った以上にたくさんあったことです。
翌朝、公爵家の法務官が王宮へやって来ました。
三人。
昼には会計官も来ました。
二人。
翌日には公爵本人が来ました。
王太子は泣きそうになりました。
悪い子でした。
たいへん悪い子でした。
ただし困ったことに、請求内容はすべて正当でした。
悪い子は嘘をついておりません。
数字も水増ししておりません。
契約にも違反しておりません。
悪い子だからといって、悪いことをしなければならないわけではありません。
ただ、婚約者だからと見逃していたものを、一つ残らず精算しただけです。
悪い子というものは、正当にできる嫌なことを遠慮なくするのです。
後日、友人から尋ねられました。
「お前、婚約破棄されて悔しくないのか?」
「もちろん悔しいですわ」
「やっぱり」
「もっと取れると思っていましたもの」
そちらでした。
悪い子はその後、商才を買われて大商会を持つ侯爵家へ嫁ぎました。夫婦仲は良好だったそうです。
夫は結婚後、家計簿だけは毎月きちんと確認するようになりました。
◆普通の子の場合
さて。
良い子は、王太子の幸福を願いました。
悪い子は、王太子へ請求書を叩きつけました。
では、普通の子はどうしたのでしょう。
「君との婚約を破棄する! 私は真実の愛を見つけた!」
「分かりました」
「私は彼女と――」
「では、失礼いたします」
「……待て」
「はい?」
「終わりか?」
「何がです?」
「いや……婚約破棄だぞ?」
「はい」
「私がお前ではない女性を選んだのだぞ?」
「はい」
「何かないのか?」
普通の子は少し考えました。
「ご婚約おめでとうございます?」
「まだ婚約していない!」
「では、まだ早かったですね。失礼いたしました」
帰りました。
本当に帰りました。
翌朝。
普通の子はいつもの時間に目を覚ましました。朝食を食べ、庭を散歩し、読みかけの本を読みました。
昼食を食べ、午後には母とお茶をしました。
「あなた、今日は王宮へ行かなくていいの?」
「婚約破棄されましたので」
「あら、そうだったわね」
母も紅茶を飲みました。
王宮では、王太子が待っていました。
来ません。
昼になりました。
来ません。
「彼女は?」
「どなたでしょう?」
「昨日まで私の婚約者だった公爵令嬢だ!」
「昨日まで、でございますよね?」
「そうだが?」
「では、本日は来ないのでは?」
「なぜだ?」
側近も分かりませんでした。
なぜ分からないのかが。
翌日。
王宮から公爵家へ使者が来ました。
「明後日の外交晩餐会について、席次の最終確認をお願いしたいとのことです」
「王宮でなさればよろしいのでは?」
「これまではお嬢様が確認なさっていたそうで」
「はい。王太子妃になる予定でしたので」
「では……」
「今は違います」
使者は帰りました。
その翌日にも、使者が来ました。
慈善院への寄付配分。
北部伯爵への返書。
来月の建国祭。
普通の子の答えは、どれも同じでした。
「王宮のお仕事ですよね?」
使者は帰りました。
そして一週間後。
使者ではなく、王太子が来ました。
「どういうつもりだ!」
「何がでしょう?」
「なぜ何もしない!」
「何をです?」
「晩餐会も! 慈善院も! 北部伯爵への返書も! 来月の建国祭の準備もだ!」
「……はい」
「今までお前がやっていただろう!」
「はい」
「ならば、なぜやらない!」
普通の子はしばらく王太子を見ました。
怒っているわけではありません。
呆れているわけでもありません。
本当に質問の意味が分からなかったのです。
「婚約を破棄されましたので」
「だから何だ!」
「婚約者ではございません」
「分かっている!」
「王太子妃になる予定もございません」
「そうだ!」
「では、なぜ王太子妃になるために行っていたことを、わたくしが続けるのでしょう?」
王太子は口を開きました。
閉じました。
また開きました。
「……今まで、やっていたからだ」
「婚約者でしたから」
「だから!」
「婚約を破棄されました」
話が一周しました。
普通の子は困りました。
「殿下」
「なんだ!」
「婚約を破棄すると、婚約者ではなくなるのですよ?」
王太子は黙りました。
どうやら知りませんでした。
いえ。
言葉の意味としては知っていたのでしょう。
ただし、自分が婚約破棄を宣言した翌日から、婚約者が本当にいなくなるとは考えていなかったようです。
「では、誰がやるのだ」
「何をです?」
「今までお前がやっていたことだ!」
「新しい婚約者の方では?」
「彼女には無理だ!」
「では、王宮の方々で」
「人手が足りない!」
「増やされてはいかがでしょう」
「すぐには無理だ!」
「それは大変ですね」
普通の子は心から同情しました。
王太子は震えました。
「お前……私への当てつけでやっているのか?」
「何をでしょう?」
「何もしないことだ!」
普通の子は黙りました。
長い沈黙でした。
やがて、おそるおそる尋ねました。
「元婚約者の仕事をしないことが、当てつけになるのでしょうか?」
王太子は答えられませんでした。
普通の子にも分かりませんでした。
そこで王太子にも、ようやく分かりました。
良い子には、情がありました。
悪い子には、悪意がありました。
普通の子には――
もう、関係がありませんでした。
結局、王太子は帰りました。
その後、王宮では大変な騒ぎになりました。
これまで「王太子の婚約者が手伝っているだけ」と思われていた仕事が、思った以上に多かったからです。
もちろん、国が滅びるような話ではありません。
文官を増やせば済みます。
担当者を決めれば済みます。
王太子自身が覚えれば済むこともあります。
つまり。
普通に仕事として整理すれば済むことでした。
王宮はそうしました。
半年ほどかかりました。
その間、一度だけ王太子から手紙が届きました。
普通の子は読みました。
返事は出しませんでした。
返事を求める内容ではなかったからです。
普通の子は、その間何もしませんでした。
一年後。
普通の子には別の縁談が決まりました。
相手は同じ国内の侯爵家嫡男でした。
王太子ではありません。
王太子妃にもなりません。
ですから王太子妃教育で学んだことの半分ほどは、一生使わなかったそうです。
本人は、
「まあ、そういうこともあります」
と言いました。
普通でした。
さて。
三つのお話はこれでおしまいです。
後年、普通の子の元婚約者だった王太子は、友人たちにこう語ったそうです。
「あの女は恐ろしかった。婚約を破棄した途端、私を徹底的に見捨てたのだ」
その話が巡り巡って普通の子の耳にも入りました。
「まあ」
普通の子は驚きました。
「わたくし、殿下を見捨てていたのですか?」
夫が尋ねました。
「何をしたんだ?」
「何もしておりません」
「じゃあ、何をしなかったんだ?」
「元婚約者のお世話です」
夫はしばらく考えました。
「……普通だな」
「ですよね」
良い子、悪い子、普通の子。
同じように婚約を破棄された三人の中で。
王太子がいちばん困ったのは――
普通の子でございました。
良い子、悪い子、普通の子。
書いてみたら、普通の子がいちばん容赦なくなりました。
でも、婚約破棄されたら婚約者じゃなくなる。
うん。普通ですね。




