第6話 おかわりと涙
港町の朝は、魚と潮と、焼きたてパンの匂いで始まる。
ヴァルフォートの屋敷では、朝の匂いはハーブとバターだった。ここは違う。もっと生々しくて、荒っぽくて、生きている匂いがする。
あの夜、スープを飲み終えた後、行く宛てのない私にルシアンが言ったのは一言だけだった。
「——裏に部屋がある。使え」
食堂の裏手にある、四畳半ほどの小部屋。元は倉庫だったらしく、壁に棚の跡がある。窓は小さいが、朝日が入る。
寝台は固いが、宿屋の枕よりはましだった。
翌朝、厨房に顔を出すと、ルシアンが振り向きもせずに言った。
「人手が足りない。手伝え」
お願いでも相談でもなかった。命令だった。いや、命令ですらないかもしれない。この人にとっては「事実の通達」なのだろう。
人手が足りない。だから手伝え。それ以上でも以下でもない。
「……はい」
返事をしてから、少し笑ってしまった。自分でも予想外の笑い方だった。
元伯爵夫人が、港町の食堂で皿洗いを始める。人生というのは、献立ノートの通りにはいかないものだ。
◇◇◇
食堂「銀の匙」の厨房は、ヴァルフォートの屋敷の半分以下の広さだった。
コンロは二口。鍋は六つ。包丁は三本。食材は棚の上に無造作に置いてある。
勝手が違った。
屋敷では、食材は種類別に整理されていた。ハーブは壁掛けの棚に、乾物は地下倉庫に、生鮮は冷蔵の魔道具に。
ここにはそんな区分けがない。玉葱の横に塩の壺があり、塩の壺の横に干し魚がぶら下がっている。
「玉葱はどこですか」
「足元」
本当に足元にあった。
ルシアンの厨房は混沌としていたが、彼自身はそうではなかった。
包丁さばきを初めて間近で見た時、私の手が止まった。トマスの包丁さばきとは全然違う。もっと荒っぽい。だが無駄がない。
一刀で必要な厚さに切り、迷いがない。王都の一流レストラン仕込みの技術が、港町の食堂の粗末なまな板の上で光っていた。
私は皿洗いと仕込みの下準備を任された。
玉葱を剥く。芋の皮を剥く。パセリを刻む。こういう地味な作業は嫌いではない。むしろ好きだ。手を動かしている間は、考えなくて済む。
初日の失敗は、塩の量だった。
ルシアンの料理は、ヴァルフォートの屋敷の味付けより塩が効いている。港町の食堂だからだ。漁師は塩味に慣れている。伯爵邸の上品な薄味は、ここでは物足りない。
「しょっぱいですか?」
「……ちょうどいい」
ルシアンの「ちょうどいい」は最高の褒め言葉だと、二日目にはわかった。
彼の語彙は「ちょうどいい」「足りない」「多い」の三つしかない。「美味い」は客にしか言わない。厨房の中では「ちょうどいい」が最上級だ。
◇◇◇
三日目のことだった。
昼の賑わいが落ち着いた頃、カウンター席で遅い昼食を取っていた。
ルシアンが出してくれたスープと、パンと、焼いた鰯。食堂の昼食としては贅沢だと思ったが、ルシアンは「余りだ」と言った。
余りにしては鰯の焼き加減が丁寧すぎたけれど、指摘しなかった。
隣の席に、漁師の夫婦が座っていた。五十がらみの、日焼けした夫婦。二人とも同じスープを頼んで、黙々と食べていた。
夫の方が、パンをちぎってスープに浸しながら言った。
「——やっぱり、奥さんの手料理が一番なんだけどな」
何気ない一言だった。妻に向けた、何気ない言葉。
妻は「あら、じゃあ外で食べなきゃいいのに」と笑って返した。夫も笑った。食堂の中で、何でもない日常の会話が交わされている。
スプーンが止まった。
口に運ぼうとした手が、途中で止まった。
——八年間。
私は一度も、あの言葉を言われなかった。
「奥さんの手料理が一番だ」と。一度も。
八年間、毎日欠かさず食卓を整えて、毎朝夫の顔色を見て献立を変えて、アレルギーの一覧を暗記して、蜂蜜の量を小さじ半分の精度で管理して——一度も。
怒りではなかった。もう怒りは使い切った。三年前に全部使った。
今残っているのは、もっと古くて深いもの。
認められたかった、という気持ち。「美味しい」と言ってほしかった、という単純な願い。
「美味しい」とスープを出した翌朝に「ああ」としか言わなかった人のことを、私は——。
スプーンを置いた。音を立てないように、そっと。
水を飲んだ。一口。二口。冷たい水が喉を通る間に、目の奥が熱くなるのを押さえ込んだ。
大丈夫。大丈夫よ。
声は出さない。ここは他人の食堂だ。泣く場所ではない。泣いたら、八年間の意地が全部溶けてしまう。
◇◇◇
こと、と音がした。
目の前に、スープのおかわりが置かれていた。
ルシアンだった。カウンターの向こうに立って、すでに背を向けている。
「……冷める前に」
それだけ言って、厨房に戻っていった。
おかわりのスープは、さっきと同じ味のはずだった。同じ鍋から注いだはずだった。
なのに——少しだけ、温かい気がした。
気のせいかもしれない。
全部飲んだ。
パンで器の底をぬぐった。二日連続で行儀が悪い。でも、残せなかった。
◇◇◇
夕方、食堂を閉めた後、裏口の階段に座って空を見ていた。
港の向こうに夕日が沈みかけている。この町に来て五日目だ。
叔母はいない。宿もない。持参金の返還手続きはまだ終わっていない。何も解決していない。
風が冷たい。もう秋も深まってきた。
ヴァルフォートでは、この時期になると冬支度の献立を考え始める頃だ。根菜の煮込みを増やして、スープにとろみをつけて。——もう関係ない。あの厨房は、もう私のものではない。
でも、今日の厨房は楽しかった。
玉葱を刻んで、皿を洗って、ルシアンに「もう少し薄く」と言われて切り直して。何でもない仕事だった。伯爵夫人の仕事とは比べものにならないくらい地味な仕事だった。
でも——ここでは、私が作ったものを「余り」と嘘をつきながら食べさせてくれる人がいる。
ここにいてもいいかもしれない。
そう思った瞬間、自分で自分に驚いた。
三年かけた計画にはなかった言葉だ。「いてもいい」。こんな言葉、献立ノートのどこにも書いていない。
明日もここに立つ。明後日も。スープの味を覚えて、この厨房の地図を自分の体に刻む。
——方向音痴だから、体で覚えるしかないのだ。道も、居場所も、全部。
裏口の階段は冷たかったけれど、厨房から漏れてくるスープの残り香が、ほんのりと温かかった。




