第5話 迷子と銀の匙
三年かけた計画が、港町の石畳の上で崩れた。
灯台通り三番地の家は、あった。建物は確かにあった。
ただ、住んでいるのは叔母ではなく、太った花屋の主人だった。
「ロゼットさん? ああ、半年前に引っ越しましたよ。息子さんが隣町にお店を出したとかで」
花屋の主人はのんびりした口調で教えてくれた。
半年前。つまり、私が最後に叔母に手紙を書いてから一年以上経っていた。返事が来なかったのは、届かなかったからではなく、もうここにいなかったからだ。
三年間、離縁計画を練る間に、叔母との文通が途絶えていた。
伯爵夫人の立場では自由に外出できず、叔母の近況を確認する手段も限られていた。——言い訳だ。本当は、離縁の準備に集中しすぎて、他のことが見えなくなっていた。
八年間夫の食事を管理する細心さがありながら、自分の逃げ場を確認しなかった。
完璧な離縁計画の、たった一つの穴。
花屋の主人に礼を言い、通りに出た。
立ち尽くした。
道の両側に石造りの家が並んでいる。知らない家。知らない窓。知らない洗濯物が風に揺れている。
この町に、私を知っている人は一人もいない。
叔母がいれば——いない。いないのだ。
鞄が重い。献立ノートと包丁セットの重さが、急に肩に食い込んだ。さっきまでは「八年間の記録」だった重さが、「行き場のない荷物」の重さに変わった。
◇◇◇
宿を探した。
港町ノーヴァには宿屋が五軒あった。
一軒目は「満室です」と断られた。
二軒目は戸を開けた瞬間、女将の目が変わった。
「あんた、ヴァルフォート伯爵の——」
噂はもう届いていた。馬便で三日の距離なのに、噂は馬より速い。市場で広まったのだろう。「伯爵家を追い出された女」。正しくは自分から出たのだが、噂にはそういう微妙な区別はない。
三軒目は戸を開ける前に、中から笑い声が聞こえた。
宿の女将らしき声が「あの伯爵夫人の話、聞いた? 愛人に負けて追い出されたんですって」と言っていた。
戸を開けずに引き返した。
四軒目は値段を聞いた。一泊金貨二枚。通常の三倍だ。足元を見られている。手持ちの金貨は二十枚。慰謝料が入るまでの生活費だ。一泊二枚では十日しか持たない。
五軒目は見つけられなかった。道に迷ったからだ。
港町の路地は入り組んでいて、坂が多くて、どこも似た石造りの壁が続いていた。同じ猫の前を三回通った。
猫に覚えられている気がする。
◇◇◇
日が傾いてきた。秋の日は短い。
空腹だった。宿の夕食を食べ損ねたのではない。朝からほとんど何も食べていなかった。
馬車を降りてから、叔母の家を探すのに二時間、宿を探すのにさらに二時間。歩き通しだった。
足が痛い。靴が合っていない。屋敷の中を歩くための靴で、石畳を五時間歩くようにはできていない。
路地の角を曲がった時、看板が目に入った。
「銀の匙」。
木の看板に、銀色の匙の絵が描いてある。食堂だ。小さな食堂。窓から明かりが漏れている。
中に入った。考える余裕がなかった。ただ、座りたかった。
◇◇◇
四人がけのテーブルが三つ。カウンター席が五つ。壁に棚があり、瓶や壺が並んでいる。
厨房は半開きの扉の向こうにあるらしく、鍋の音と油の匂いが漏れてきていた。
客は二人。港の漁師らしい男が、カウンターで黙々とパンを齧っている。もう一人は老婆で、窓際の席でスープを啜っていた。
カウンターの奥から、男が出てきた。
背が高い。私より頭ひとつ分は大きい。黒い髪を無造作に後ろで束ねていて、袖を肘まで捲り上げている。
前腕に小さな火傷の跡がいくつかあった。料理人の勲章だ。
エプロンが汚れている。油と粉と、おそらく今日のスープの出汁の跡。——よく働くエプロンだ、と思った。汚れ方で、どのくらいの時間厨房に立っているかがわかる。
この人は、朝から立っている。
「……何にする」
素っ気なかった。愛想は皆無だった。でも声は低くて落ち着いていて、不快ではなかった。
「スープを、ひとつ」
「パンはいるか」
「……お願いします」
男は厨房に消えた。
待っている間、テーブルに突っ伏しそうになるのを堪えた。疲れている。体も、頭も。
三年間の計画が崩壊して、宿もなく、知り合いもいない港町で、私は一人だ。
——本当に一人だ。
あの屋敷にいた頃は「一人」だと思っていた。夫は新聞の向こうにいて、愛人は王都にいて、私は厨房で一人だった。
でもあれは、「一人」ではなかった。トマスがいて、エルザがいて、ハンナがいた。場所があった。役割があった。
今は本当に一人だ。場所もない。役割もない。
◇◇◇
スープが来た。
白い陶器の器。縁がほんの少し欠けている。
でも中身は——琥珀色のスープが、器の中で静かに揺れていた。刻みパセリが浮いている。
湯気が立ち上り、私の鼻先を掠めた。
この匂い。玉葱を丁寧に炒めた匂いだ。焦がさずに、時間をかけて。
隣に、丸パンが一つ。焼きたてではないが、温め直してある。こういう気遣いは、厨房に長く立つ人間にしかできない。
スプーンを持った。一口含んだ。
——。
手が止まった。
玉葱の甘みが深い。じっくり炒めた、焦がさない甘み。鶏の出汁が効いている。塩加減が絶妙で、最後にほんの少しだけ白葡萄酒の酸味がある。
これは飾りではない。味に奥行きを出すための酸味だ。
私は料理を八年間作ってきた。だからわかる。
このスープを作った人は、ただの食堂の店主ではない。
「……美味しい」
声が出ていた。無意識に。
自分が「美味しい」と口に出してスープを褒めたのは、いつ以来だろう。八年間、私は作る側だった。「美味しい」と言われる側ではなく、言う側でもなかった。
カウンターの奥で、男がこちらを見ていた。一瞬だけ。すぐに目を逸らして、鍋の火加減を調整した。
スープを最後の一滴まで飲んだ。パンでお椀の底をぬぐった。
行儀が悪いのはわかっている。でも、このスープを残す方がもったいなかった。
「……この味を出せる人が、こんな港町に」
呟いた。聞こえたかどうかはわからない。聞こえなくていい。
でも、体が少しだけ温まった。空腹が満たされただけではない。何かが——ほんの少しだけ、何かが温まった。
窓の外はもう暗くなっていた。今夜の宿は、まだ決まっていない。
それでも、この一杯のスープの温度だけは、たしかなものだった。




