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あなたの夕食を八年間作り続けた妻が消えた夜、この屋敷で最初に困るのは誰でしょう  作者: 秋月 もみじ


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第4話 空の食卓


 蜂蜜の適量を知っているのは、あの屋敷で私だけだった。


 馬車が揺れている。街道の石畳が途切れて、砂利道に変わったらしい。振動が変わると、膝の上に置いた革の鞄がずれる。


 中で献立ノートがかさりと音を立てた。八冊分の紙の擦れる音。この音にも、半日で慣れた。


 出発して二日目の朝だった。


 途中、街道沿いの宿屋で一泊した。宿の部屋は狭くて、天井に染みがあって、枕が固かった。でも不思議と眠れた。


 八年間、グレン様の隣で眠るよりもよほどよく眠れた。夜中に一度も目が覚めなかったのは、いつ以来だろう。


 宿の夕食は羊肉の煮込みだった。塩が強くて、肉が固かった。


 私なら赤葡萄酒をもう少し入れて、弱火で一時間余計に煮る。ローズマリーも足す。——と思ってしまう自分が嫌になった。


 もう他人の厨房を批評する立場ではない。ただの、鞄ひとつの旅人だ。


 窓の外は麦畑だった。秋の麦は刈り取りが終わって、切り株だけが地面に並んでいる。農家の屋根から煙が上がっているのが見えた。


 昼食の準備だろう。あの煙の下で、誰かが鍋をかき混ぜている。


 ——あの屋敷でも、今頃は昼食の準備をしているはずだ。



◇◇◇



 考えないようにしていたのに、考えてしまう。


 私が去った後、最初に困るのは昼食だったろう。いや、もう困っているはずだ。


 あの朝食を最後に、私は何の引き継ぎもしていない。献立表も、食材の仕入れ先リストも、グレン様のアレルギー一覧表も、すべて私の頭の中にある。紙に書いたものは献立ノートだけで、それは今、私の膝の上だ。


 料理長のトマスなら、ある程度のことはできる。


 でもトマスは、グレン様のアレルギーの細かい注記を全部は知らない。


「くるみは加熱すれば大丈夫」「甲殻類は汁物に出汁として入っていても反応する」「山羊乳は牛乳では代替できない——成分が似ているようで違う」「蕎麦粉は微量でも呼吸が苦しくなる」。


 こういう細かい知識は、八年かけて私が一つずつ学んだものだ。


 トマスは知らない。エルザも知らない。


 グレン様本人でさえ、自分のアレルギーの全容を正確には把握していない。「甲殻類がだめだ」程度の認識はあるだろうが、「海老の出汁が入ったソースでも蕁麻疹が出る」ことを知っているのは私だけだ。



◇◇◇



 想像してみる。意地悪な想像を。


 昨日の昼食。トマスが何か作ったはずだ。彼は腕のいい料理人だが、アレルギー対応の経験が浅い。


「奥様、蜂蜜はどのくらいで?」と聞く人だ。その奥様は、もういない。


 聞く相手がいないまま、彼は鍋の前に立っただろう。蜂蜜を入れすぎたか、入れなかったか。どちらにしても、あのスープにはならない。


 夕食はもっと混乱しただろう。


 食材の在庫を管理していたのは私だ。何がどこにあるか、どの仕入先から何曜日に届くか、トマスはそこまでは把握していない。


 塩漬け鱒の樽は地下倉庫の奥の右側にある。干し林檎は三番目の棚の上段。乾燥ハーブは壁掛けの棚に種類別に——と、こんなことを一晩で覚えられるわけがない。


 そして、ナディア・ブランシュ嬢。


 彼女は社交界では「可憐で献身的な令嬢」として通っている。グレン様の前では特にそうだ。きっと「旦那様のために料理を覚えます」と微笑んだだろう。


 焦げる。


 断言できる。焦げる。


 なぜなら、料理は微笑みでは完成しないからだ。


 火加減と、タイミングと、食材への敬意で完成する。


 鶏卵の殻が秋になると薄くなることを知っているだろうか。鱒の燻製は三日以上置くと塩が強くなりすぎることを知っているだろうか。蜂蜜は産地によって甘さが違うから、毎回味見をしてから量を決めることを知っているだろうか。


 知らないだろう。知らなくて当然だ。社交ダンスが得意で、首を傾けて笑う令嬢に、そんなことを要求するのが間違いだ。


 ——でも、グレン様は困る。


 明日か、明後日か、遅くとも一週間以内には。


 アレルギー食材が混入して蕁麻疹が出る。スープの味が変わる。パンの焼き加減が狂う。干し林檎の砂糖煮がない。


 一つ一つは些細なことだ。でも食卓の崩壊は、些細なことの積み重ねで起きる。じわりと、確実に。



◇◇◇



 意地悪な想像だ。


 でも意地悪な想像をする権利くらいは、八年間の対価としてあってもいいだろう。


 利子だ。蜂蜜の代わりに、少しだけ苦い利子。


 馬車が丘を越えた。


 視界が開けた。


 海だ。


 青くはなかった。秋の海は灰色がかっていて、空との境目が曖昧だった。


 でも広かった。


 厨房の窓から見える中庭よりも、食堂の窓から見える楡の並木よりも、ずっとずっと広かった。八年間、壁に囲まれた場所にいた目には、この広さは少し眩しい。


 風の匂いが変わった。潮の匂い。魚の匂い。そしてどこかから——何かを炙っている匂い。焼き魚だろうか。誰かの昼食だろうか。


 港町ノーヴァが見えてきた。


 坂の上から見下ろすと、石造りの家々が海岸線に沿って並んでいる。港には漁船が何隻か停泊していて、市場の前に人だかりがあった。


 活気がある。ヴァルフォート領の静かな穀倉地帯とはまるで違う。声がする。笑い声も。


 ここに叔母がいるはずだ。三年前に手紙を書いた時、「いつでもいらっしゃい」と返事をくれた。



◇◇◇



 馬車が港町の入口で止まった。御者に礼を言い、鞄を持って降りた。


 石畳の感触が違う。ざらざらしていて、塩を吹いたように白い部分がある。靴の底から、冷たさが伝わってきた。


 さて。叔母の家は「港町ノーヴァ、灯台通り三番地」。灯台通り。灯台が見えれば辿り着けるはずだ。


 灯台は——どこだ。


 海の方角にあるのだろう。海はさっき見えた。でも今、建物に囲まれて海が見えない。正面には路地が三本に分かれていた。


 右に曲がった。坂を上った。角を曲がった。また坂を上った。


 干物屋の前を通り過ぎ、井戸のある広場を横切り、猫が寝ている階段を下りた。


 五分歩いて、同じ井戸の前に戻ってきた。


 さっきの猫がまだ寝ていた。猫と目が合った。


 ——方向音痴が壊滅的だということを、八年も屋敷に閉じこもっていると忘れる。


 料理の手順は百でも暗記できるのに、角を二回曲がると今自分がどちらを向いているのかわからなくなる。献立ノートの索引は完璧に引けるのに、地図が読めない。


 この矛盾を、私はもう笑うしかなかった。鞄を持ち直して、今度は左に歩いてみることにした。

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