第7話 棚の凹み
エルザが港町から戻ったのは、三十五日目の夕方だった。
応接間ではなく、書斎に通した。茶は断った。報告だけ聞けばいい。
「奥様は、お戻りにはなりません」
わかっていた。わかっていたはずだ。
「そうか」
一拍。少し長い一拍だった。自分でもわかった。
「嘆願書は、お断りになりました。ただ——一つだけ、引き継ぎをなさいました」
「引き継ぎ」
「トマスに伝えてほしいと。『冬の根菜は弱火で二時間煮る』——それだけ、とのことです」
それだけ。
弱火で二時間。根菜の煮方。
蜂蜜の量は教えなかった。祭事料理の設計も。アレルギーの残り五品目も。
教えたのは、根菜の煮方だけ。
「……それだけか」
「はい。それだけでございます」
エルザの声は平坦だった。感情を抑えている声だ。この女がこういう声を出す時は、裏側で何かを堪えている。
「エルザ。マリアージュは——あの町で何をしている」
「食堂でお働きです。港町の、小さな食堂で」
食堂。
伯爵夫人が——元伯爵夫人が、港町の食堂で。
「料理を」
「はい」
料理か。
結局、あの女は料理をしている。場所が変わっただけで、やっていることは同じだ。他人のために飯を作っている。
。あるいは、俺のためではなく作る料理は、あの女にとって違うものなのかもしれない。
そこまで考えて、やめた。俺が考えても仕方がないことだ。
◇◇◇
その夜、書斎を片付けていた。
理由はない。ただ、書類が溜まっていたから。秋の税収報告、来年度の予算案、領地の人口調査。数字が並んでいる。数字は扱いやすい。
棚の奥に手を伸ばした時、指先に妙な感触があった。
板が凹んでいる。
棚の三段目の奥。板の表面が、長方形にわずかに沈み込んでいる。何か重いものが長い間置かれていた跡だ。
この棚には何があった。
書類か。帳簿か。思い出せない。この棚を自分で使った記憶がない。
マリアージュが使っていた棚だ。
翌日、トマスに聞いた。
「この棚に何があったか知っているか」
「奥様の献立ノートでございます」
「献立ノート」
「はい。旦那様のお体の記録と、献立の控えを書いたノートです。毎年一冊ずつ。八年で八冊ございました」
八冊。
八冊分の重みで板が凹んでいたのだ。
「表紙の色を毎年変えておいでました。一冊目は白で、二冊目は薄い青で、三冊目は——」
「もういい」
遮った。
聞きたくないのではなかった。聞くと、何かが——自分の中で、何かが動きそうだった。動かしたくなかった。
棚の凹みを指で触った。冷たい木の表面。紙の重みで少しだけ沈んだ板。
八年分。
毎朝俺の顔色を見て献立を変えた記録が、ここにあった。
今は、凹みだけが残っている。
◇◇◇
四十日目。
壁の時計はまだ止まっている。
エルザに言った。「巻いてくれ」。エルザが巻いた。動き始めた。
だが翌月にはまた止まるだろう。毎月巻かなければいけないと——エルザが言っていた。毎月巻いていたのは奥様だったと。
庭の薔薇が一株枯れた。フリッツが「植え替えます」と言ったが、同じ品種はもう手に入らないかもしれないとも言った。マリアージュがどこから苗を取り寄せたか、フリッツは知らない。
少しずつ。
少しずつ、穴が広がっている。蜂蜜の仕入先。アレルギーの五品目。収穫祭の設計。時計のゼンマイ。薔薇の苗の出所。献立ノート八冊分の知識。
一つ一つは小さい。だが全部が一人の人間に繋がっている。
その一人がいなくなった穴を、別の誰かで埋めることは。できるのだろうか。できるとしても、八年はかかるだろう。八年かけて蓄積したものを、一朝一夕で再現できるわけがない。
トマスは頑張っている。蕎麦粉の一件以来、アレルギー対応は慎重になった。新しい食材は全部調べてから使うようになった。仕入先のリストも自分で作り直している。
エルザは使用人の管理を以前より細かくやっている。ハンナの体調を気にかけて、冬物の支度を前倒しした。フリッツには薔薇の管理記録を紙に残すよう指示した。
できることをやっている。二人とも、自分の範囲で最善を尽くしている。
だが、マリアージュが「結節点」だった部分——あの女を通じて全部が繋がっていた部分は、誰にも引き継げない。食材管理とアレルギー知識と領民の好みの把握と祭事設計と使用人への気配り。それが一人の中で結び合っていたことの重さは、分解した瞬間に失われる。
引き継げないのは、引き継ぎがなかったからだ。
引き継ぎがなかったのは。マリアージュが教えなかったからか。
いや。
聞かなかったからだ。八年間、俺が一度も聞かなかったからだ。
マリアージュは聞かれれば教える人間だった。トマスが「蜂蜜はどのくらいで?」と聞けば「いつも通りよ」と答えていた。聞けば、答える。聞かなければ、黙って自分でやる。
俺は聞かなかった。「お前の仕事は何だ」とも、「毎日何をしているのだ」とも、一度も。
聞かなかったのは、興味がなかったからだ。
興味がなかったのは、あの女がそこにいることを、空気のように当然だと思っていたからだ。
空気がなくなって初めて、息ができないことに気づく。
棚の凹みを、もう一度触った。冷たかった。




