第6話 ナディアの正体
グレン様のお屋敷には、前の奥様の匂いが残っている。
ハーブの匂い。厨房のどこかに染みついた、タイムやローズマリーの混じった匂い。私の実家にはなかった匂い。実家にあるのは、壁の罅から入り込む冬の隙間風と、兄が持ち込む安酒の匂いくらいだ。
私はナディア・ブランシュ。男爵令嬢、という肩書きは、もう半分嘘みたいなものだ。
兄が賭博で作った借金は金貨二百枚。父は病床から起き上がれない。母は三年前に亡くなった。使用人は二人しか残っていない。屋敷の壁に罅が入っていて、冬になると隙間風が入る。修繕する金もない。
グレン様に見初められたのは、三年前の秋の夜会だった。私がダンスを踊った時、「首を傾ける癖があるな」と言われた。それが最初の言葉だった。
社交界では「可憐な令嬢」で通した。笑い方も、話し方も、歩き方も、全部計算している。計算しなければ、没落寸前の男爵家の娘など見向きもされない。社交のダンスと同じだ。足の運びを間違えたら、二度と踊りの輪に戻れない。
グレン様を愛している。それは計算ではない。あの人の不器用さが、言葉にできない感情をそのまま放置する、あの鈍さが、不思議と心地よかった。私は計算ずくで生きてきた人間だから、計算しない人に惹かれるのかもしれない。
「愛人」という立場を三年間飲み込んできた。正妻にはなれない。なれないまま、月に二度、王都で会う。それだけの関係。
それだけで十分だと、自分に言い聞かせていた。
。前の奥様が出て行くまでは。
◇◇◇
屋敷に滞在して十日目。
私は何もすることがなかった。
エルザは私に用事を振らない。トマスは私を厨房に入れない。ハンナは目を合わせない。廊下ですれ違う使用人たちの背筋が、私の前だけ少し硬くなる。
使用人たちは「前の奥様」の味方だ。三年間の愛人が屋敷にいることを、快く思うはずがない。当然のことだ。
ただ——居心地の悪さには慣れている。実家の債権者が取り立てに来る時の空気に比べれば、使用人の冷たい視線なんて、そよ風のようなものだ。
グレン様は書斎にいることが多い。食事の時間だけ食堂に降りてくる。新聞を広げて、黙って食べて、「ああ」と言って去っていく。
私がいてもいなくても、あの人の日常は変わらない。
前の奥様がいた時も、きっとこうだったのだろう。新聞の向こう側に妻がいても、いなくても、同じ「ああ」。
それが少しだけ、怖かった。
◇◇◇
ある夜、グレン様の書斎の前を通りかかった時、中から声が聞こえた。
独り言だった。
「……あの女は、何を——」
途切れた。それ以上は聞こえなかった。
「あの女」。前の奥様のことだろう。グレン様が妻のことを名前で呼ぶのを、私は一度も聞いたことがない。「あの女」か「マリアージュ」か。どちらも、まるで他人の名前みたいに発音する。
翌朝、食堂でグレン様に聞いた。
「グレン様。前の奥様は……どんな方でしたの?」
グレン様の手が止まった。パンを千切りかけた姿勢のまま。
「……真面目な女だった」
私は待った。もう少し何か出てくるかと思った。顔の特徴。声の調子。笑い方。怒った時の癖。好きだった花の種類。何か。
出てこなかった。
「真面目で——几帳面で——」
言い淀んだ。言葉を探しているのが見えた。探して、見つからなくて、パンを口に入れた。咀嚼する音。飲み込む音。水を一口。
「まあ、そういう女だった」
八年間一緒にいた人のことを、こんなふうにしか言えない。
私の胸の奥で、何かが冷たくなった。
三年後の私も、こう言われるのだろうか。「まあ、そういう女だった」と。顔も声も思い出せない、ただの輪郭だけの女として。「可憐で」「社交ダンスが上手くて」「首を傾ける癖があって」——それだけ。
ダンスのステップは覚えてもらえても、私そのものは覚えてもらえない。
それが、この人と一緒にいるということなのだ。
◇◇◇
その日の午後。
私は厨房に入った。トマスがいない隙に。
鍋が並んでいた。棚に瓶が並んでいた。壁に、紙が一枚貼ってあった。
「グレン様アレルギー一覧」。トマスの字で七品目が書かれ、その下に五つの空白。罫線だけが引いてあって、中身がない。
前の奥様は十二品目を暗記していたという。
私は一品目も知らない。グレン様が何を食べられないか、三年間の関係で一度も聞いたことがなかった。王都の店で二人で食事をする時、注文はいつもグレン様がした。私は何も考えずに出てきたものを食べた。
棚の上に蜂蜜の壺があった。蓋が少し緩んでいる。中身は半分ほど。琥珀色の蜂蜜がとろりと光っていた。
この蜂蜜が、あのスープに入っていたのだ。前の奥様が「小さじ半分より気持ち少なめ」で入れていた蜂蜜。
私にはその量がわからない。小さじ半分の「気持ち少なめ」が、どのくらいの匙加減なのか。
鍋を下ろした。玉葱を出した。包丁を——包丁の場所がわからない。棚を一つずつ開けた。三つ目の引き出しに入っていた。柄が飴色に変わった、使い込まれた包丁ではなかった。前の奥様は自分の包丁を持って出たのだ。残っているのはトマスのものだ。
玉葱を切った。涙が出た。玉葱のせいだ。
刻んだ玉葱を鍋に入れた。火をつけた。——油を入れ忘れた。慌てて油を足した。じゅっと音がして、油が跳ねた。手の甲に小さな火傷ができた。
焦げた。
玉葱が黒くなった。煙が上がった。換気口から煙が逃げていく。焦げた玉葱の匂いは苦い。
やり直した。鍋を洗って、新しい玉葱を出して、今度は油を先に入れた。弱火にした。
じわりと、玉葱が色づき始めた。
焦げた。また焦げた。弱火がどのくらいの弱さなのか、この竈ではわからない。実家の竈とは火力が違う。そもそも実家では使用人が料理をしていた。私が竈の前に立ったことなど、数えるほどしかない。
三度目。
涙が止まらなかった。玉葱のせいではない。もう玉葱は切り終えている。
私には料理ができない。できないということを、鍋の前で思い知らされている。ダンスなら練習すれば踊れる。社交辞令なら鏡の前で練習できる。でも料理は——火と食材と時間の勝負で、リードしてくれる相手がいない。一人で立たなければいけない。
前の奥様はこの場所で八年間、毎日立っていた。十二品目を暗記して、蜂蜜の量を管理して、殻の薄い卵を割って、夫の顔色を見て献立を変えて。
私にはそれができない。
四度目に、ようやく玉葱が焦げずに色づいた。飴色——とまでは言えない。薄い茶色。不格好だが、食べられなくはない。
小さな鍋に水を足して、塩を入れた。味見をした。しょっぱすぎた。水を足した。今度は薄すぎた。もう一度塩を足したら、最初よりましになったが、どこかぼんやりした味だった。
鍋を火から下ろした。中身を見つめた。
捨てるべきだろう。こんなものをグレン様に出すわけにはいかない。前の奥様のスープとは比べものにならない。
——捨てた。
泣きながら、鍋を洗った。冷たい水で。手の甲の火傷が沁みた。
グレン様は書斎にいる。この音も、この匂いも、この涙も、知らない。
知らないのだ。この人は。目の前にいる人間のことを、知ろうとしない。前の奥様のことも、私のことも。
鍋を棚に戻した。エプロンを外した。目を拭いた。
——それでも、明日もここに来よう。
そう思った自分に、少し驚いた。焦げた玉葱の匂いがまだ手に残っている。明日はもう少し火を弱くする。油の量を変えてみる。
できるようにはならないかもしれない。でも、やらないよりは——。
廊下に出た。エルザとすれ違った。エルザの目が、私のエプロンの油染みを見た。一瞬だけ。何も言わなかった。
でもその一瞬の目は、今日初めて、冷たくなかった。




