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あなたの夕食を八年間作り続けた妻が消えた夜、この屋敷で最初に困るのは誰でしょう  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第2話 蕁麻疹


四日目の朝。


 トマスが厨房の棚を開けたり閉めたりしている音が、食堂まで聞こえてきた。何を探しているのか知らないが、開ける、閉める、また開ける。


 俺は新聞を読んでいた。


「旦那様、申し訳ございません。干し林檎の在庫が……見当たりませんで」


 トマスが食堂に顔を出した。額に汗をかいている。


「なくていい」


「はい。それから、蜂蜜の仕入先なのですが……奥様が特別に手配されていた養蜂家がおりまして、その連絡先が」


「なければ市場で買え」


「かしこまりました」


 トマスが引き下がった。


 蜂蜜の仕入先。干し林檎の在庫。こういう細々とした問い合わせが、この四日間で三回あった。


 全部マリアージュが管理していたらしい。食材がどこにあるか、次の仕入れがいつか、どの農家から何を買っているか。トマスは料理は作れるが、台所の全体を回す能力はマリアージュに預けていたようだった。


 そんなことまで俺に聞くのか。食材の管理など、トマスが自分でやればいい。


◇◇◇


 五日目の昼食に、トマスが煮込みを出した。


 牛肉と根菜の煮込み。ローリエの香りがして、玉葱が溶けかかっている。見た目は悪くない。トマスらしい、手堅い一品だ。


 一口目は問題なかった。二口目も。肉の繊維がほどけて、スープに旨味が染み出している。


 三口目で、首の後ろが痒くなった。


 最初は虫刺されだと思った。秋の蚊は妙にしつこい。掻いた。収まらない。痒みが広がっていく。首から耳の後ろへ、そこから顎の下へ。


 スプーンを置いた。首に手を当てた。指先に、皮膚がぼこぼこと盛り上がっている感触。


 蕁麻疹だ。


「旦那様っ」


 トマスの声が聞こえた。椅子を蹴って駆け寄ってくる足音。皿が揺れた。


「水を——エルザ、医者を!」


 顔が熱い。目の周りまで腫れ始めていた。呼吸はできる。苦しくはない。だが首の腫れが喉のほうに広がっている感覚があって、不快だった。


 水を飲んだ。冷たい水が喉を通る。腫れは喉までは来なかった。


 結婚初日を思い出した。あの時もこうだった。嫁いだ初日に、マリアージュが出した山羊乳のチーズで蕁麻疹が出た。首が腫れて、顔が赤くなって。


 あの時のマリアージュの顔は、覚えていない。たぶん、ひどく怯えていたのだろう。嫁いだ初日に夫を倒した新妻だ。


 今回は何だ。山羊乳は使っていないだろう。トマスはそこまで間抜けではない。


◇◇◇


 医者が薬を塗って帰った後、トマスが厨房から出てきた。顔が青白い。


「旦那様。原因がわかりました。煮込みのつなぎに……蕎麦粉を使っておりました」


「蕎麦粉」


「はい。小麦粉の代わりに、少しだけ。奥様は蕎麦粉を一切使わないと決めておいででしたが、私はその理由を……少量なら問題ないと」


 蕎麦粉。


 俺は蕎麦が駄目だったのか。知っている。知っていたはずだ。蕎麦は食べない。蕎麦が入った料理は出てこなかった。八年間、一度も。


 だが「少量のつなぎでも反応が出る」とまでは知らなかった。蕎麦の麺を食べなければ大丈夫だと思っていた。


「奥様は、蕎麦粉はどれだけ微量でも絶対に使うなとおっしゃっていたのですが……申し訳ございません」


 トマスの頭が下がった。


「いい。次から気をつけろ」


 それで済ませた。トマスの不注意だ。次から蕎麦粉を使わなければいい。


 トマスが顔を上げた。何か言いかけて、口を閉じた。また開いた。


「旦那様は……ご自分のアレルギーを、どこまでご存じですか」


 妙な質問だった。自分の体のことだ。甲殻類。山羊乳。蕎麦粉。くるみ。いや、くるみは加熱すれば大丈夫だったか。他にもあったか。


「甲殻類と山羊乳と、今の蕎麦粉だろう」


 トマスの目が少し見開かれた。


「奥様は、十二品目を管理しておいででした」


 十二。


 三つしか知らない。


「甲殻類は、身だけでなく出汁でも反応が出ます。海老の殻から取った出汁が入ったソースも、全て除外しておいででした。山羊乳は牛乳では代替できないと……成分が似ているようで違うのだとおっしゃって。くるみは加熱すれば大丈夫だが、温度と時間に条件がある。蕎麦粉はどんな微量でも。それから……」


「わかった」


 遮った。


 遮ったのは、理解したからではない。トマスの口から出てくる情報が、聞いたことのないものばかりだったからだ。


 海老の出汁。温度と時間の条件。成分構造。


 これは誰の知識だ。


 俺のものではない。俺が調べたものでも、俺が覚えたものでもない。


 全部、マリアージュのものだ。あの女が八年かけて一つずつ突き止めて、ノートに書いて、トマスに伝えて、食卓から排除していたものだ。


 俺の知らないところで。俺が新聞を読んでいる間に。


「奥様は全部暗記しておいででした」


 トマスがぽつりと言った。独り言のように。


「仕入れの時も、新しい食材を試す時も、必ずご自分で成分を確認なさって。私に『トマス、これは使わないで』とだけおっしゃる。理由は……私が聞けば教えてくださいましたが、聞かない時は何もおっしゃらなかった」


 聞かなければ言わない。それはマリアージュの性分だった。


 俺も聞かなかった。「蕎麦粉がだめだ」と一度も自分で確認しなかった。妻が管理しているのだから、確認する必要がないと思っていた。


「トマス」


「はい」


「アレルギーの一覧を作れ。お前が知っている限り書き出せ」


「かしこまりました。ただ……私が知っているのは、奥様のお言葉の一部でございます。特に加熱の条件や微量反応の閾値は、奥様でなければ正確には——」


 その情報は、マリアージュの頭の中か、あるいは献立ノートの中にある。


 どちらも、ここにはない。


「できる範囲でいい」


「かしこまりました」


 トマスが出ていった。


 首がまだ痒い。赤みが引くまで二日はかかるだろう。鏡を見る気にはなれなかった。


 七日目。蕁麻疹は薄くなったが、まだ痕が残っていた。襟元を高くして隠した。


 来客があった場合に面倒だ。「伯爵、首をどうされましたか」と聞かれて、「妻が出て行った後に蕎麦粉で蕁麻疹を起こした」とは言えない。


 面倒だ。すべてが面倒だ。


 トマスが持ってきたアレルギー一覧は、七品目までしか書けていなかった。残りの五品目は「奥様がご存じでした」とだけ書いてある。


 五つ分の空白。


 あの女が持ち出した知識の穴が、紙の上にぽっかりと開いている。


 その穴を埋める方法を、俺はまだ知らなかった。

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