第1話 新聞の向こう側
離縁届というのは、思ったよりも紙が厚い。
テーブルの上に置かれたそれを、俺は朝食の皿越しに見ていた。パン籠の横。バターナイフの隣。妻が——元妻が、そこに置いて出て行った。
署名欄が一つ空いている。俺の分だ。
ペンは書斎にある。取りに行けばいい。だが足が動かない。動かないというより、動かす必要を感じない。
別に、今でなくていい。
テーブルの上の朝食は半分残っていた。オムレツ。パン。鱒の燻製。干し林檎の砂糖煮。スープ。
オムレツはまだ温かかった。半熟の卵がフォークの先で微かに揺れている。
この朝食を作ったのはマリアージュだ。出て行く前に、作って、並べて、俺が口をつけるのを見届けてから、離縁届を差し出した。
出て行く前の最後の一膳が、なぜこんなに丁寧なのか。俺にはわからなかった。
普通、出て行くなら手を抜くだろう。面倒なことは省くだろう。それが合理的だ。
合理的でないことをする女だった。八年間ずっと。
◇◇◇
昼になった。
トマスが食堂に来て、皿を並べた。鶏の香草焼きと、パン、スープ。
椅子に座る。新聞を広げる。いつもと同じだ。
スープを一口飲んだ。
——ぬるい。
いや、ぬるいというほどでもない。飲めないわけではない。ただ、いつもはもう少し——いつもの一口目は、こうではなかった気がする。
気がするだけだ。スープの温度なんぞ、日によって変わる。
鶏は悪くなかった。トマスは腕のいい料理人だ。焼き加減も問題ない。ハーブの使い方も手堅い。パンも昨日焼いたものだろうが、温め直してある。
食事として、欠けているものはない。
食堂の窓から光が入っている。いつもと同じ光だ。東向きの窓は朝だけ光が入るが、昼はもう斜めになっている。燭台に火は入っていない。この時間は不要だ。
向かいの椅子が空いている。
空いている、という言い方は正確ではない。あの椅子にはもう何年も人が座っていなかった。マリアージュは俺より先に食事を済ませることが多かった。厨房が忙しいとかで、食堂に座る時間がないと言っていた。
朝食だけは一緒だったが、俺が新聞を読んでいる間にいなくなっていた。
いつからそうなったのか、思い出せない。結婚して三年目くらいからか。あるいはもっと前からか。
面倒だった。こういう曖昧な記憶を掘り返すのは。
◇◇◇
午後、書斎で領地の書類を片付けていた。秋の税収報告。今年の麦の収穫高。数字が並んでいる。数字は扱いやすい。増えたか減ったか、良いか悪いか、明確に出る。
エルザが茶を持ってきた。
「旦那様。お茶をお持ちしました」
「ああ」
エルザが盆を置いて、少し間を置いた。何か言いたそうな顔をしている。この女はいつも何か言いたそうな顔をする。言いたいことがあるなら言えばいいのに、口を開いては閉じる。
「……何だ」
「いいえ。何でもございません」
出ていった。
茶を飲んだ。温度はちょうどよかった。エルザは茶の温度だけは外さない。
離縁届はまだ食堂のテーブルの上にある。片付けるのが億劫で、放置してある。食事のたびに視界に入るが、パン籠で半分隠れているから、読まなければただの羊皮紙だ。
署名するかどうか、まだ決めていない。決めていないというより、考えていない。
マリアージュが提出した証拠書類は五通。ナディアとの関係の証言書、宝飾品の領収書の写し、教会の離縁事前申請書と受理証明、持参金返還の算定書。
五通。きっちり揃えてある。三年かけたと言っていた。
三年の間、あの女は毎朝俺の朝食を作りながら、離縁の準備をしていたということだ。スープの鍋の横で離縁届の下書きをしていた、と言っていた。
それを聞いた時、俺が思ったのは「器用な女だ」だった。怒りでも悲しみでもなく、感心に近い何かだった。
あるいは、怒りや悲しみがあったのかもしれないが、俺にはそれを見分ける目がなかった。
自分の感情を正確に名指しできたことが、過去にどれくらいあっただろうか。たぶん、ほとんどない。
◇◇◇
夕食。
トマスが出した魚の煮付けを食べた。悪くない。だが、何だろう。付け合わせの根菜が、いつもと切り方が違う気がする。
いつもはもう少し小さく、揃っていた。今日のは大きさがばらばらで、一つだけ妙に固い。火の通りが均一ではない。
小さなことだ。根菜の大きさなど、どうでもいい。トマスを呼んで文句を言うような話でもない。食べられるのだから、問題はない。
新聞を広げた。王都の政情。隣領の伯爵が病に伏しているという噂。穀物の相場が少し上がっている。
収穫祭の時期だ。今年の祭りの準備はどうなっている。
。マリアージュがやっていたのか。
不意に思った。祭りの準備は誰がやるのか。トマスか。エルザか。俺は、収穫祭の料理の手配を誰に任せていたのか、正確に知らない。
書類には目を通していた。「収穫祭費用」の項目。毎年、金貨十数枚。承認の署名をした記憶はある。中身は見ていない。数字だけ確認して、判を押した。
そういうものだと思っていた。問題がないのだから、確認する必要がない。
問題がなかったのは、誰かが問題をなくしていたからだ、という発想は、この時の俺にはなかった。
◇◇◇
食堂の壁に、時計がかかっている。かちかちと音を立てている。結婚祝いに母上からもらった時計で、文字盤の縁が少し錆びている。
正確に動いている。誰が巻いているのかは知らない。
食事を終えた。
食器を下げに来たハンナが、向かいの空の椅子を見て一瞬足を止めた。すぐに動き出したが、目が少し赤かった。風邪でも引いたのだろう。
「ごちそうさま」は言わなかった。一人で言う台詞ではない。
いや。一人で食事をしていたのは今日が初めてではない。マリアージュが先に済ませた日は、いつも一人だった。
何も変わっていない。
書斎に戻った。窓の外が暗い。秋の夜は早い。蝋燭の灯りが壁に影を落としている。
隣の部屋、かつて妻の書斎だった部屋は、暗いままだ。灯りが漏れてこない。
昨日まで、あの扉の下から薄く光が漏れていたことに、今さら気がついた。
気がついただけで、それ以上は考えなかった。
明日でいい。離縁届の署名は、明日でいい。
明日も昼食はトマスが作るだろう。夕食もトマスが作るだろう。何も変わらない。
——何も変わっていないはずだった。




