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あなたの夕食を八年間作り続けた妻が消えた夜、この屋敷で最初に困るのは誰でしょう  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第1話 新聞の向こう側


離縁届というのは、思ったよりも紙が厚い。


 テーブルの上に置かれたそれを、俺は朝食の皿越しに見ていた。パン籠の横。バターナイフの隣。妻が——元妻が、そこに置いて出て行った。


 署名欄が一つ空いている。俺の分だ。


 ペンは書斎にある。取りに行けばいい。だが足が動かない。動かないというより、動かす必要を感じない。


 別に、今でなくていい。


 テーブルの上の朝食は半分残っていた。オムレツ。パン。鱒の燻製。干し林檎の砂糖煮。スープ。


 オムレツはまだ温かかった。半熟の卵がフォークの先で微かに揺れている。


 この朝食を作ったのはマリアージュだ。出て行く前に、作って、並べて、俺が口をつけるのを見届けてから、離縁届を差し出した。


 出て行く前の最後の一膳が、なぜこんなに丁寧なのか。俺にはわからなかった。


 普通、出て行くなら手を抜くだろう。面倒なことは省くだろう。それが合理的だ。


 合理的でないことをする女だった。八年間ずっと。


◇◇◇


 昼になった。


 トマスが食堂に来て、皿を並べた。鶏の香草焼きと、パン、スープ。


 椅子に座る。新聞を広げる。いつもと同じだ。


 スープを一口飲んだ。


 ——ぬるい。


 いや、ぬるいというほどでもない。飲めないわけではない。ただ、いつもはもう少し——いつもの一口目は、こうではなかった気がする。


 気がするだけだ。スープの温度なんぞ、日によって変わる。


 鶏は悪くなかった。トマスは腕のいい料理人だ。焼き加減も問題ない。ハーブの使い方も手堅い。パンも昨日焼いたものだろうが、温め直してある。


 食事として、欠けているものはない。


 食堂の窓から光が入っている。いつもと同じ光だ。東向きの窓は朝だけ光が入るが、昼はもう斜めになっている。燭台に火は入っていない。この時間は不要だ。


 向かいの椅子が空いている。


 空いている、という言い方は正確ではない。あの椅子にはもう何年も人が座っていなかった。マリアージュは俺より先に食事を済ませることが多かった。厨房が忙しいとかで、食堂に座る時間がないと言っていた。


 朝食だけは一緒だったが、俺が新聞を読んでいる間にいなくなっていた。


 いつからそうなったのか、思い出せない。結婚して三年目くらいからか。あるいはもっと前からか。


 面倒だった。こういう曖昧な記憶を掘り返すのは。


◇◇◇


 午後、書斎で領地の書類を片付けていた。秋の税収報告。今年の麦の収穫高。数字が並んでいる。数字は扱いやすい。増えたか減ったか、良いか悪いか、明確に出る。


 エルザが茶を持ってきた。


「旦那様。お茶をお持ちしました」


「ああ」


 エルザが盆を置いて、少し間を置いた。何か言いたそうな顔をしている。この女はいつも何か言いたそうな顔をする。言いたいことがあるなら言えばいいのに、口を開いては閉じる。


「……何だ」


「いいえ。何でもございません」


 出ていった。


 茶を飲んだ。温度はちょうどよかった。エルザは茶の温度だけは外さない。


 離縁届はまだ食堂のテーブルの上にある。片付けるのが億劫で、放置してある。食事のたびに視界に入るが、パン籠で半分隠れているから、読まなければただの羊皮紙だ。


 署名するかどうか、まだ決めていない。決めていないというより、考えていない。


 マリアージュが提出した証拠書類は五通。ナディアとの関係の証言書、宝飾品の領収書の写し、教会の離縁事前申請書と受理証明、持参金返還の算定書。


 五通。きっちり揃えてある。三年かけたと言っていた。


 三年の間、あの女は毎朝俺の朝食を作りながら、離縁の準備をしていたということだ。スープの鍋の横で離縁届の下書きをしていた、と言っていた。


 それを聞いた時、俺が思ったのは「器用な女だ」だった。怒りでも悲しみでもなく、感心に近い何かだった。


 あるいは、怒りや悲しみがあったのかもしれないが、俺にはそれを見分ける目がなかった。


 自分の感情を正確に名指しできたことが、過去にどれくらいあっただろうか。たぶん、ほとんどない。


◇◇◇


 夕食。


 トマスが出した魚の煮付けを食べた。悪くない。だが、何だろう。付け合わせの根菜が、いつもと切り方が違う気がする。


 いつもはもう少し小さく、揃っていた。今日のは大きさがばらばらで、一つだけ妙に固い。火の通りが均一ではない。


 小さなことだ。根菜の大きさなど、どうでもいい。トマスを呼んで文句を言うような話でもない。食べられるのだから、問題はない。


 新聞を広げた。王都の政情。隣領の伯爵が病に伏しているという噂。穀物の相場が少し上がっている。


 収穫祭の時期だ。今年の祭りの準備はどうなっている。


 。マリアージュがやっていたのか。


 不意に思った。祭りの準備は誰がやるのか。トマスか。エルザか。俺は、収穫祭の料理の手配を誰に任せていたのか、正確に知らない。


 書類には目を通していた。「収穫祭費用」の項目。毎年、金貨十数枚。承認の署名をした記憶はある。中身は見ていない。数字だけ確認して、判を押した。


 そういうものだと思っていた。問題がないのだから、確認する必要がない。


 問題がなかったのは、誰かが問題をなくしていたからだ、という発想は、この時の俺にはなかった。


◇◇◇


 食堂の壁に、時計がかかっている。かちかちと音を立てている。結婚祝いに母上からもらった時計で、文字盤の縁が少し錆びている。


 正確に動いている。誰が巻いているのかは知らない。


 食事を終えた。


 食器を下げに来たハンナが、向かいの空の椅子を見て一瞬足を止めた。すぐに動き出したが、目が少し赤かった。風邪でも引いたのだろう。


「ごちそうさま」は言わなかった。一人で言う台詞ではない。


 いや。一人で食事をしていたのは今日が初めてではない。マリアージュが先に済ませた日は、いつも一人だった。


 何も変わっていない。


 書斎に戻った。窓の外が暗い。秋の夜は早い。蝋燭の灯りが壁に影を落としている。


 隣の部屋、かつて妻の書斎だった部屋は、暗いままだ。灯りが漏れてこない。


 昨日まで、あの扉の下から薄く光が漏れていたことに、今さら気がついた。


 気がついただけで、それ以上は考えなかった。


 明日でいい。離縁届の署名は、明日でいい。


 明日も昼食はトマスが作るだろう。夕食もトマスが作るだろう。何も変わらない。


 ——何も変わっていないはずだった。

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