第10話 あなたのための、私の食卓
銀の匙の朝は、ルシアンが石窯に火を入れる音で始まる。
ぱちり、と薪が爆ぜる。ふうっ、と息を吹きかけて火を育てる音。それから鉄の扉を閉める音。
この順番は毎朝同じだ。一ヶ月と少し、この食堂にいて、この音で目が覚めるようになった。
小部屋の窓から外を見る。まだ暗い。でも東の空が少しだけ紫がかっている。
朝が来る前の、一番静かな時間。
ヴァルフォートの屋敷でもこの時間は好きだった。誰もいない厨房で、一人でスープの仕込みをする時間。
でも、あの頃の朝は一人だった。今は違う。隣の厨房に、石窯に火を入れている人がいる。
着替えて、エプロンをつけて、厨房に入った。
「おはようございます」
「……ああ」
ルシアンの返事はいつも通りだった。
でも最近、この「ああ」の間が少しだけ短くなった気がする。以前は二拍あった。今は一拍半。
こういう微細な変化に気づいてしまうのは、八年間夫の「ああ」を聞き続けた後遺症かもしれない。
でも、この「ああ」はグレン様の「ああ」とは違う。
グレン様の「ああ」は新聞の向こうから聞こえる、こちらを見ない「ああ」だった。
ルシアンの「ああ」は、鍋の方を向いているけれど耳はこちらに向いている「ああ」だ。
◇◇◇
今日は新メニューの日だった。
秋の魚介スープ。鱈と蛤とセロリの、あのスープ。二週間かけて二人で試作を重ねたものだ。
白葡萄酒の量を何度も調整し、セロリの切り方を変え、蛤を入れるタイミングを秒単位で詰めた。
朝の仕込みは二人で並んで行った。私がセロリの筋を取り、ルシアンが鱈の下処理をする。蛤は砂抜き済みのものを前日から準備してある。
隣で包丁を動かしているルシアンの手が、視界の端に見える。
大きな手だ。火傷の跡がある。でも動きは繊細で、鱈の皮を引く手つきに迷いがない。
時々、味見用の小皿を黙って差し出してくる。「どうだ」とも「味見しろ」とも言わない。ただ差し出す。
私が一口含んで「もう少し塩を」と言うと、無言で塩を足す。
この人にとって、私の味覚は信頼に値するらしい。
八年間。八年間、一度もそういう扱いをされなかった。
グレン様にとって、私の味覚は「便利な機能」だった。ルシアンにとっては、「信頼できる判断」だ。
その違いが、どれほど大きいか。
この人の隣で料理をする時間が、好きだ。
そう思った。自然に。何の抵抗もなく。
◇◇◇
開店前に、リタが飛び込んできた。魚屋の娘。十八歳。この食堂の一番の常連で、最近は料理を教わりたがっている。
「マリアージュさん! 今日が新メニューの日ですよね! 朝から楽しみで眠れなかったんです!」
「リタ、まだ開店前よ」
「知ってます! でも一番に食べたくて!」
リタの笑顔は真っ直ぐだ。裏表がない。
この子の笑い方を見ていると、自分が十八で嫁いだ頃を思い出す。あの頃の私も、こんなふうに笑えていただろうか。
「じゃあ、味見をお願いしてもいいかしら。完成前の試食係」
「やります! 絶対やります!」
ルシアンが厨房の奥から「うるさい」と言った。でも声に棘はなかった。
◇◇◇
開店した。
秋の魚介スープを出した。最初の客は港の老漁師だった。
一口飲んで、目を見開いた。
「……こりゃ美味い。前の白スープとは違うな」
「ありがとうございます」
二人目の客も「美味い」と言った。三人目も。
四人目は言葉では言わなかったが、パンでお椀の底をぬぐっていた。
私と同じ食べ方だ。行儀は悪いけれど、残したくない時の食べ方。
リタは三杯おかわりした。三杯目でルシアンが「もう出さん」と言った。リタは不満そうだったが、お腹は満足そうだった。
「マリアージュさんの味、大好きです! 毎日食べたい!」
大好き。毎日食べたい。
その言葉を、こんなに自然に受け取れる日が来るとは思わなかった。思ってもみなかった。
ヴァルフォートの屋敷では、「大好き」と言ってもらえるのは料理ではなく、伯爵夫人という肩書きだった。
いや、肩書きですら好かれていなかったかもしれない。ただの機能。ただの食卓の管理者。
◇◇◇
午後。昼の客が引いた後、厨房を片付けながら思った。
ここが私の食卓だ。
ヴァルフォートの銀の食器ではなく、縁の欠けた白い陶器の器。リネンの布巾ではなく、何度も洗って少し毛羽立った木綿の布巾。
壁掛けの三番目のフックは曲がっていないけれど、代わりにルシアンのエプロンと私のエプロンが並んでかかっている。
ここでは、私が作ったものを「美味い」と言ってくれる人がいる。「余りだ」と嘘をつきながらスープを出してくれる人がいる。三杯もおかわりしてくれる子がいる。
もう、誰かのためだけに作らない。自分のために。そして、隣にいる人のために。
◇◇◇
夕方。食堂を閉めた後、厨房を掃除していた時。
ルシアンが入ってきた。手を洗って、エプロンを外して、壁にかけた。私のエプロンの隣に。
「……あのさ」
振り向いた。ルシアンがこちらを見ていた。
珍しい。この人は普段、私と話す時に鍋か壁を見ている。
「名前で——呼んでもいいか」
「え」
「マリアージュ、と」
心臓が跳ねた。
一ヶ月間「あんた」か「おい」しか言わなかった人が。
「……はい」
「……マリアージュ」
ルシアンの耳が赤かった。薄暗い厨房の中でも、はっきりとわかるくらい赤かった。
私も赤かったかもしれない。自分では見えないからわからない。
でも、名前を呼ばれた瞬間、胸の中で何かがほどけた。
結婚式の時にレースが首元で擦れて痒かったあの感覚の——正反対の、何か。苦しくない。息が楽になる。
「ルシアンさん」
「……ああ」
「明日のスープ、蜂蜜を少し入れてみてもいいですか。小さじ半分より、気持ち少なめに」
ルシアンが首を傾げた。
「蜂蜜?」
「ええ。——私の、得意な味付けです」
蜂蜜の量は、もう秘密にしなくていい。
この食卓では、レシピを分かち合える。隠す必要がない。教える相手が、ちゃんとここにいるから。
明日も朝が来る。石窯に火が入る音がして、私はエプロンをつけて、厨房に立つ。
八年間の献立ノートは、鞄の中で眠っている。もう書き足す必要はない。
でも——もしかしたら、九冊目を始めるかもしれない。
今度は「グレン様のアレルギー一覧」ではなく、「銀の匙のレシピ帳」として。表紙の色は、銀色がいい。
——私の食卓は、ここにある。




